祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第18回(最初のX’mas Eve)

2011-11-04 19:20:51 | 日記
17.最初のX’mas Eve


 学校も順調に進んで、喜んでいたところ、好事魔多しで、主人は仕事の都合で退職して、故郷のアイオワ州(Iowa)に隠退するといって、私をあっさり解雇した。
 勤めに行った時は、長くいてくれと頼まれたが、主人の一身上の都合でシスコ市を去って遠いアイオワ州まで行くのであるから、どうにもならず、私もOKした。十一月下旬で三ヶ月間世話になったので、懐も相当暖かく、次の働き口を求めるまでの生活費は十分にあった。
 学校の方は別に修了証をもらうのが目的でないから、また新しい所を探して、この経験を生かして、更に勉学を継続して一段と語学の修得をしようと平気だった。 
 また私の塒(ねぐら)はクラブであった。終日ゆっくり静養したり、町の中を散歩したりしたが、一度金門公園(Golden Gate Park)を見物したいと思い立った。
 金門公園へはサクラメント街(クラブから数丁南へ行った所)から電車に乗って公園行き乗れば終点まで行けるので便利であった。
 この公園は人工公園としては、ニューヨークのセントラルパークと共に全米でも著名な広大な大規模な公園である。
 私は園内の東洋美術館に入って沢山の美術品を観覧したが、東洋美術部には沢山の日本の刀のツバや印ロウ等の象牙製品が陳列せられていて驚いた。その他江戸時代の珍しい漆器類の調度品や食器等もよく収集したものだと感心した。
 ここは有名な日本庭園(Japanese Tea Garden)があり、日本の庭園を忍ばすに十分であった。自然動物園もあって沢山のバファローなどを放牧していた。野球場やその他のスポーツ施設も完備しており、広大な公園はクリツハウスの海辺までも延長していた。
 私は終日公園を散歩して初めてシスコ市の風光に接して、シスコ市にもこんな立派な市民の憩いの場所があるかと知って、暇の時は市内などをブラツカずに、こういう所を訪れるのが良いと覚った。
 数日後また働きたくなったので、以前に周旋してくれた口入屋に入って適当なスクールボーイの仕事を依頼した。
 十二月の上旬に、適当な家庭が見つかったというので、紹介してもらい交渉したが、家族は夫婦に息子(ハイスクール生)の三名で、家のある場所は上町で静かな町だが、家並みは古く、連続して立っており、あまり気が進まなかったが、年末も近づき、市の中心街は今やクリスマスの大売出しの最中でもあり、初めてのX’mas Eveは是非アメリカ人の家庭で過ごしてみたいと願っていたので、あまり贅沢もいえず、OKして、翌日から働くことになった。
 住んでみると、なんだか家庭の雰囲気が今までの家とは変わっているように思えた。
息子は市立のリックハイスクール(Lick H.S.)に通学しており、まだ年末休暇に入っていないので、放課後にユダヤ教会でヘブルー(Hebrewユダヤ語)を勉強しているらしいのに気づいた。
この家はユダヤ系の人々であるが、米国に居住しているアメリカ人であるから、何にも人種的にこだわる必要もなく、親切に使ってくれればそれで良いのだ。また息子がリックハイだから、私もリックに学びたいと考えていたので辛抱していた。
 この家に来てからのレジャー・タイムは市立の図書館やクラブに行って勉学を続け、来年一月の新学期には近くにあるマッキンレー高等小学校の七、八年級に入学したい希望を持っていた。
いつしか待ちに待っていたX’mas Eveは来た。
 一般の米人家庭では、十二月二十四日の降誕祭の夜はX’masの晩餐会を開いてキリストの降誕を祝福するお祝をすると聞いていたが、この家では一向にその気配が見えず、二十四日も二十五日も普段の夕食ですました。
 私は失望したが、私もクリスチャンではなく、ただターキーや珍しいご馳走とその祝の雰囲気を米国人の家庭で味わって見たかっただけである。
そこで私はユダヤ人がキリストをどう考えているかを考えて見た。
 今日でもユダヤ教に敬虔なユダヤ人(Jew)はキリストを神の子として否定、救済士(Savior)としてmesiah (救済士)即ち世を救う真の神は、何れの日にか、この世に出頭するものと信じ、Milenium(至福十四年;キリストが再臨して十四年間地上の王たるべし)という聖書黙示録20章1-5節)を祈願するためエルザレム(Jerusalem)の聖都の聖壁に口づけして、メシアの出現を祈り続けているのである。
 さすれば、この家庭にとってはX’masもユダヤ教の宗教的の信仰からは、意義なき日であり、またキリストを十字架にかけたのは彼ら自らの民族であった。
 これに反してキリスト教国でもなく、クリスチャンでもない日本人が総てクリスマスを祝うのは、如何したものか反省して見る価値があろう。いずれにしても日本人はお祭り騒ぎが好きな国民ではあるまいか。
 翌日クラブへ行ったら古参のボーイが二,三名来ていたので、昨夜のことを話したら、「新米に世話をしてくれる家庭は殆ど古参ボーイは知っていて、ユダヤ人系家庭など行くものはないからだ。しかしクリスマスパーテーが家で開かれたらそりゃ大変だ。料理の手伝いを二,三時間も多く使われ、客人の給仕もさせられて、後片付けも大変で、ノー・チップが条件だから、君の方がよっぽど得をしたのだ。七面鳥料理なら、下町のイタリヤレストランに入れば一弗でOKだ。」と古参のものは笑っていた。
 彼等の話を聞くと、クリスマス・シーズン(Christmas season)でも、アメリカの主婦はパースの紐を緩めずに、特別に新しいドレスを作らないようだし、日本のように正月が来るといって、ワイワイ騒ぐようなことは全然見られない。ただ主婦が気を使うのは、家族や知人などの銘々にどんなプレゼントを送って喜んでもらうかで、それも高い品物ではなく、たとえハンカチの一枚でも心からのプレゼントであれば受け取った人はハッピーなのだ。一番プレゼントを喜ぶのは、なんといっても、子供達で、子供の贈り物には一番気を使っている。子供はサンタクローズのやって来るのを楽しく待っているからだ。 
 私は長年アメリカで生活して、幾度かクリスマスシーズンを迎えたが、日本人のような、あわただしい行事はなく、落着いてキリストの降誕を祝するホントのメァリー・クリスマスであった。
 クリスマスが過ぎれば数日して元旦を迎えるのだが、アメリカでは正月の行事は全く行わず、平常と別に違ったところは見られなかった。
 

第17回(公立学校入学)

2011-11-04 09:10:15 | 日記
16.公立学校に入学して語学勉強


 第二回目のスクールボーイは日本人の経営していた周旋所(employment office)に行って適当な家を選んでもらって就職した。
 この家はシスコ市の南部の海辺近くにあって、老夫婦だけの家庭で、二階だけの間借り生活をしていたので、仕事も楽で十分な勉強時間があった。以前にも日本人のボーイを雇ったことがあるらしく、「お前より英語が下手で、使い悪かった。しかし日本人は正直だ」と私の来たのを喜んでいた。主人は「ボーイは皆腰が落着かず、すぐ止めてしまうので困る。長く勤めてくれ」と云ってくれたので安心した。
 私は夫人に“Is there any public school that I may enter?”(私の入学できるような公立学校がありましょうか?)と聞くと非常に喜んでくれ、
“Oh, yes, my boy. You may go to the Union Primary School that I know well principal there.”(そうだ。ユニオン小学校へ行ったらよかろう。校長とは知りあいだ。)“Go and see the principal right way.”(すぐ行って校長に面会しなさい。)と教えてくれたので、すぐ学校に出頭した。
 プライマリースクールというのは、加州の国民教育八ヵ年制度のうちの初等小学校の六ヵ年制度のもので、シスコ市の大多数のものは八年制のグランマースクール(Grammar School)で日本の中学の二,三年位の学科課程を授けてハイスクールに直結させる、高等小学校で、このようなプライマリースクールは珍しいのである。
 私としては、初等小学校であろうと、高等小学校であろうと、それは問題でなく、要するに英語を修得する目的であるから、寧ろ初等程度の易しい学科を習う方が私には遥かに有利であるからである。学校へ行って校長に面会したときの学力テストは大抵どこでも同じだったが、我々は日本人で中学程度の学問を修得しているので、この点は校長も了解しているので、テストは語学力で、幾つかの質問に答えることができたら、それ相当の学年に入学を許可してくれた。
今参考に当時を回想してみると

“When did you come fromJapan?”(何時日本から来ましたか。)
“How far did you complete your education in Japan?”(日本でどの程度の教育を受けましたか。)
“How long have you been learning English?”(英語をどれくらい勉強していますか。)
“Do you understand English well to keep up your study?”(学業を十分続けられる英語が分かりますか。)
“Where do you live?”(どこに住んでいますか。)

 以上大体この程度の質問で、これに答えられればパッスした。ハイスクールだと更に新聞を出して、
“Read loudly this newspaper and explain me what you have read now?”(大きな声を出して、この新聞を読んで、今読んだことを説明しなさい。)
これが大体できればパッスして適当な級に編入してくれた。
 公立学校であれば、授業料は無料で、当時は育友会の組織がなかったから、会費もいらず、学校によっては教科書は無料で貸与、学用品の用紙、鉛筆なども自由にくれたので、学費は皆無という誠に恵まれた教育を受けることができたのである。
 
私が大学在学中に日本からアメリカに来て間もない子供に英語を数ヶ月教えて、立派に小学校に入学させた話を思い出したので茲に記して忘れな草としよう。
 私がバークレーで大学に在学中に、東洋汽船会社のT正作(今は故人)という船長が家族同伴で同社のサンフランシスコ支店に赴任された。私は長男八歳の正平君と奥さんに英語を教えることになり、毎日放課後に家に行って、奥さんには日常会話、正平君にはリーダーと会話を教えたが、賢い子供で上達も早かったので、三ヶ月後に公立小学校に入学させたいと、バークレーのマッキンレー小学校(Mac Kinley Primary School)へ連れて行った。
 校長に子供の事情をよく説明して、入学許可を願ったところ、快く承知してくれ、テストとして、簡単な算術の宿題を出したが
“Can you solve these mathematical problems?”(この算術の問題ができますか。)彼は即座に解答したので驚いて、
“Oh, you are a very smarter boy”(オー、本当に賢い子だ。)と誉めてくれて、三年生(日本で小学三年生)に編入してくれた。入校の手続きも簡単で、すぐ担任の教師を紹介して、即日授業についた。正平君は父親が帰社するまで約三年間通学して優等の成績で同校を修了した。成人して早稲田大学の工学部を卒業した。私はT氏と別懇になり、卒業後東洋汽船会社に入社することができた。

 さて話しは私のことに戻るが、前述したようなテストを受けてUnion Primary Schoolの六年級(この学校の最上級)に編入してくれた。
 なにせアメリカで初めて公立学校の生徒となったので、その感激は大きく、この学校始まって以来の日本人生徒だというので、これまた生徒も異様の面差しをもって、私を迎えてくれた。
 私が教室に入ると、担任の女教師は私を教壇の前に立たせて、生徒に紹介してくれたが、これは私の在米学校生活中で、今尚最も印象に残る思い出となった。他校ではなかったから。
先生が生徒に私を紹介された言葉は大体次のようなことを述べられたので、思い出の一端として記しておく。
“My boys and girls. I will introduce to you a young Japanese boy who came recently to our country from Japan.(皆さん。最近日本から来られた日本人の青年を皆さんに紹介します。)
“You may call him Saburo S.”(S三郎と呼んで下さい。)
“I think he will have much handicap to keep up his study, although he could understand English in a certain extent.”(私はサブローはある程度の英語は理解できると思いますが、勉強を続けるには中々不利な条件があると考えます。)
“I hope you will help him when he is in need and make an acquaintance with him.“(私は彼が皆さんを必要とする場合には、どうか手助けをして下さい。そして交際をして下さい。)
 学科はReading and writing; History and geography; Mathematics
;Drawing ;General science(読み、書き、歴史と地理、算数、図画、一般理科)等の学科を習ったが、英語の勉強には実に為になった。それに初等課程のテキストだから教科の内容もよく理解されて、クラスではサビュロー、サビュローと言って分け隔てなく過ごすことができた。 
 将来大国民になるアメリカの少年の素質は、既に小学教育において啓培せられているのである。この学校で学んだ算数のうちで、特に日本の小学校では見られない「早法加算」“quick addition”という学科があって毎日練習させられた。アメリカには日本のような重宝な算盤がないので、数の加算は、紙に何百何十円也と十も二十もの数を書いて一気に計算を出す練習をするのである。当時アメリカの店ではどこでも品物を沢山買うと、値段をいちいち紙に何仙と書いて、計算していたので、この必要上、日本の算盤のような練習を小学校では行っていたのであろう。今日ではレジスターやカウンティングマシンや更に電子計算機も発明されて、実に便利な能率的な世の中になったが、如何に昔のこととはいえ、算盤のような便利な計算機の使用をアメリカ人がなぜ感ずかなかったかと、私は練習中しばしば考えた。
 もう一つは時限、時限中に休憩時間がなかったことと、体操の学科がなく、教室の中で時々先生が生徒を起立させて、inhale,exhale といって深呼吸をさせただけだ。また日本の学校のように遠足もなく、運動会もなく、私は日本の教育の方が遥かにアメリカを凌駕していたことを知ることができた。六十年前の国民教育はどこでも同じ状態であったろうが、学校の設備なども貧弱で、画一的な詰め込み教育であった。
 幸い私は暗記力が彼等の誰よりも優れていたので、私のせつない語学力を補ってくれたので、楽しい勉強を進めることができた。 
 また七,八歳も年下の少年少女と毎日席を同じくして、学び且語り合った。その思い出は、ハイスクールや大学時代などとは段違いで学校が面白く、愉快で、本当に若返って昔の少年時代に返った思いがした。

 私は今当時を追想して、何故、多くのスクールボーイがアメリカにおいて勉学のローヤルロード(Royal road近道)として、この道を選ばなかったかと不思議に思っている。人種の差別を超越してエリアン(Alien)である邦人学生を抱擁して均等の教育を授けてくれた、こういう教育機関を利用せずして、あたら一生を棒に振ったのだと、自らの語学の不足をかこちながらも進んで学び取ろうとせず、返って自由放縦な生活に溺れて、安易な生活の道を辿りつつ、渡米の素志を疎んじてしまうに至ったのは、返す返すも遺憾なことである。