祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第34回(1908年:第一学年生時代(校外活動について))

2011-11-20 10:33:50 | 日記
33.1908年:第一学年生時代(校外活動について) 



 アメリカの学校は一年が二学期制で、八月の入学者はsummer classと呼ばれ、冬一月の入学者はwinter classで卒業期が夏期と冬期とに分かれているのであった。私はwinter classであった。
 さて日本人移民入団反対のAnti-Japanese movement は加州においては益々盛んになり、昨年十月に起きたサンフランシスコの暴動以来、日本人排斥運動は全米にも蔓延して、1907年の十一月頃北米合衆国全労働者大会(American Labor League :ALL)がサンフランシスコで開催されて、日本人排斥の決議をして、気勢を揚げたので、我々在留民はいやな気持ちになった。
 ところが、私がハイスクールに入学して間もなく、二月頃になって日米紳士協約、即ちジョンソン・アグリーメント(Johnson Agreement)が日米両国間に締結されて、日本人移民入国は、この紳士協約(Gentleman Agreement)によって、日本移民は総て入国を制限せられて、在留同朋の人口数に準じて何パーセントしか米国に毎年入国できないことになった。
 その他は在留民家族の呼び寄せや、写真結婚の花嫁(picture brideという新しい言葉ができた)、在留民が帰国して再渡米するものは悉く皆日本の領事館の証明書を得て、外務省の許可で入国し得ることになった。
 勿論移民以外の旅行者(滞在期限付き)、学者の研究者、大商社の米国支店や出張所の社員、大学の在研者などはこの制限を受けないのであった。
 しかし幸いのことに学校では、何ら関せずで、このために差別の待遇を受けるようなことはなかった。流石に学問に国境なしであった。
 前述したように、教科のカリキュラムが、各分科によって修得する単元(units)を要求するので、私の入ったBコース科では、大学の文理科系(Liberal Arts and Sciences)に学ぶ生徒の必須科目(Regular course)は各科目とも皆週五時間授業で、選択科目(Elective subjects)は週二時間位で、一日の時限は9~16時の六時間で週に二日は七時間時限であった。
 私が一年の前期、後期に取った、主要学科は今はっきり覚えていないが、

 
 B. Cooper先生の英文学:Scott’s Lay of the Last Minstrelの詩の物語。Shakespeare’s Merchant of Venice. Prose and Composition.
 Jones先生のラテン語:文法と作文
 Oliver先生の数学:Algebra(代数)Advanced course
 Johnston先生の歴史:Ancient History(前期と後期)
 Gilbert先生の科学:General Science(一般科学 高小時代の総仕上げ)
 等々で、これは主な必須科目で、外に選択科目があって、一年間の単元は三十六単元で幸い全部B以上でパッスして二年に進級した。


 学校にはStudent Body(学友会)があって、これは全校生徒が加入することになっており、会費は無料で、学友会が校内の各特別校内外の活動(Extra Activities)を総括していた。
 この学友会が中心となって年に一回各学年の討論会(Debating)と全学年の討論会を開催した。問題は主として社会や政治についての時事問題だった。
 1908年に私が入学した年に日本人学生が六,七名になったので、L.A.H. Japanese Student Associationを設立して、荒木茂を会長にして、初めて日本人学生の討論会を教室で開いて、移民排斥の可否を討論したが、聴衆者も二十数名来てくれて多少の反動の効果はあったようであった。
 また対校討論も、年1回挙行されたが、オクシデンタル・カレッジ(The Occidental College: 南加のハイスクールでロス附近)の鈴木富太郎氏(元私立神戸経済大学教授)が同校を代表して、論壇に立って拍手喝采を博したことがあった。
 学校には軍事教練(Military Drill)が選択科目として毎週二時間校庭で行われた。私は仕事があるので一度も見なかったが上級生のみで、修了者は州兵の上等兵の資格を得られるといっていた。日本人学生は勿論除外せられていた。
 女子学生には、毎年二名のScholarshipが与えられ、一年間大学での授業料や寮費を支給せられたが、男生徒にはこの制度がなかった。 
 学校のLunch House(食堂)は学友会が主となって運営され、昼食を安く食べさせてくれた。Book store(書籍店)もあってテキストや文房具などは市価よりも安く配給してくれたので便利だった。
 音楽部は男女のグリー・クラブ(Glee club)があって活躍していた。オーケストラ(Orchestra)も組織され、ブラスバンド(Brass Band)もあって、スポーツの対校試合などの時にエル・リーダー(応援団)を助けて熱戦を繰り広げた。
 各学年、各学級には男女生徒のSelf government (自治会)があって、生徒の風紀問題などを監視して良い効果をあげていた。
 スポーツは当時でも盛んで、最も力を入れたのはラクビー(Rugby:アメリカンフットボールは中止された)で、次ぎはベースボールで南加州では常に優位を保っていた。その他バスケットボール、テニス、男子の体操競技、水泳等で陸上競技(Track)は南加一であった。
 私は今ここに告白するが、スクールボーイをしている関係上在学四年間に一度も学校でスポーツをしたことがなく、また対校試合をも見物しなかった。学生としてスポーツを楽しむことができずにハイスクール生活を終わったことは誠に残念のことだったが、やむを得なかったのである。 
 折角アメリカの学校に在学はしたが、全く味気ない学生生活でハイスクールは終わってしまった。
 さて一学年の後期、セミスターは六月上旬に無事に終わって暑中休暇に入った。ダン家に働いていたため、その日の小遣銭には困らず、且授業料はいらぬのでよかったが、服装を整える金がないので、ダン夫人に願って休暇中は一時、外で働かしてもらうことにした。
 六月上旬にロス・アンゼルスから約三十キロばかりのところにあるスメルサ(Smelza)という村へ農園の仕事に行った。
 この村はセルリー(Celery:オランダミツバ)の名産地で、仕事は苗を抜いて、根を短く切って、丈を揃えて、金盥に入れて水を注いで置く仕事で、一日中中腰で働くので思ったより、えらい労働だった。
 それから、この苗を本植する仕事にかかったが、一本一本畑に植えていくので、これまたえらい仕事で、受け持つ長い畔に植えて行くから、隣の者と競争になって負けまいとするから、骨がおれた。セルリーの植付けが終わると畑の潅水の仕事や草取りなどで、知らず知らずのうちに暑中休暇が過ぎた。
 労働の甲斐あって数十弗の金ができたので、またダン家に帰った。 
 学校が始まるまで数日あるので、暇つぶしにクラブへ行ったら友人の大野が(前記)結核にかかって独りで寝ているので気の毒になり五弗の金を恵んでやった。
 友人達と相談して、市立の療養所へ入れてやろうと、私が本人を連れて病院に出頭して、引きとってもらってほっとした。
 本人はこの療養所に一年余りもいて、元気になったので、病院の皿洗いをして勤めていたが、是非日本に帰りたいから、どうか尽力をしてくれと頼まれたので、貧しい我々の力では旅費や船賃等到底できることではないから、桑港の日本総領事館に願って、船の切符を交付してもらったが、日本に帰国の途中で、富士山を見ずして死亡したとのことであった。
 こういう気の毒な人が在米同胞の中にもまだまだ沢山いただろうと思うと憐憫に堪えないので書き残すことにした。
 クラブに結核患者がいたというので、市の衛生吏員が来て、屋内全部のフォーマリン消毒をしたので大変だった。この家屋は汚い古屋で採光も悪く、アメリカ人の住むような家でなく、日本人だから貸してくれたもので、クラブとは名ばかりで、利用者も少ないのでロス市にいる学生連中にも呼びかけて、新しくクラブを編成替えした。適当な家が見付かったので八月下旬に移転した。
 私が幹事で、月に一回位夜皆集まって、英語の練習会を開いて親睦に努めたので、学生間相互の連絡や動静なども知ることができて、都合が良くなったから利用者も多くなった。
 学校は八月下旬に新学期が始まり、私の勉強も順調に運んで十二月上旬に全科目の試験にパッスして二学年に進級した。
 在米第四回目のX’mas Eveはダン家で迎えて新年となり、1909年の春が来た。