祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第38回(1911年の十二月:ハイスクール卒業式)

2011-11-23 09:02:21 | 日記
37.1911年の十二月:ハイスクール卒業式

  
 卒業試験成績の発表で合格者は八十九名(全四分科コースを含めて)で、入学した時は約百二十余名(一月の入学者は夏期より一般に少ない)であったが、いつしか落伍したのであろうか、それとも中途退学したのであろうか、少ないのには驚いた。
 卒業生の89名中日本人学生は二名で、私とY田宗太郎君と、黒人学生はGeorge Bakerであった。しかし彼等とはコースの違いか、同じ教室で一度も顔を合わして勉強したことはなかった。
 アメリカのハイスクールでは卒業式の時に、外国人学生の優等生が一名全卒業生を代表してバナキュラー・スピーチ(Vernacular Speech)を行う習慣があり、私にも論文を書けと命ぜられたが、これは不合格だったらしく、白人の学生が行った。
 卒業式は夕方からロス市の音楽会館(L.A. Music Hall:学校の講堂は丘の上で集合に不便であったために)で挙行され、在校生や父兄達や市民たちで沢山の参観者があった。
 私は卒業免状のほかに、同校学友会で組織しているスター・エンド・クレセント(Star and Crescent :星と三日月協会)会のメンバーの一員として推賞せられた。今でも、この会員記章は大切に保管してある。 
式が終わって、私は感激した。この時位嬉しかったことはなかった。四年間も私を親切に教育していただいた諸先生に対して、満腔の感謝を捧げると共に、同じ教室で授業を共にした学友の諸君にも別れると思えば落涙を禁じ得なかった。
 中でも、一,二年生の時に英語を教わったCooper先生(女教師)には母親に別れる思いがして固く握手を交わした。
 先生は一年生の時、私の未熟な作文を上達させようと、放課後毎日一時間、先生の控え室で作文を三ヶ月の間も書かせて、懇切に指導、訂正してくれた恩師中の恩師であった。こういう立派な教育者の下に育てられたので、私がこの学校で及ばずながら学業を続け得たのである。

 それにしても、この一枚のデイプロマ(diploma)を手にするために約七年間の歳月を費やしたのである。