31.ハイスクールに入学 (ウイリアム・ダン家に働く)
スモール家を出てからは、またクラブに帰った。クラブには宿泊者はなく、私一人の淋しい生活ではあったが、昼間はスクールボーイの連中も暇つぶしに立ち寄ったので、話し相手にはこと欠かなかった。
ハイスクールは一月十日頃新学期を開始するらしく、生徒の募集をしていたので、私は文科系のロス・アンゼルス ハイスクールに出頭して出願し、入学の許可を得た。
よって次ぎの家庭を探す間は、クラブを利用して、ここから通学することにしたが、ハイスクールは市の南西のラグナ・ヒル(Laguna Hill)にあって、往復の時間も歩いて四十分もかかるので大変だった。電車の便がないし、当時はバスなどのない時代であったからだ。
食事が一番困った。朝食は自炊ですまし、昼食は学校の食堂で取って、夕食は学校の帰り途に、安料理店に立ち寄ってすましていたが、こういう生活は、懐中の乏しい私には長く続く筈がない。学校に通っているので忙しくて、周旋屋にも行く時間もなく困っている時、幸いに学校から歩いて十五分位の所にあるウイリアム・ダン(William Dunn)という家に働くことになった。
この家庭に住み込むまでに約二十日間も過ぎたときだから嬉しかった。私はダン家に四年間も、この安住の家でハイスクールを卒業することができた。
ダン家は町の南東にあって閑静なところで、ハイスクールにも歩いて十五分だったから都合がよかった。
ダン氏(W. Dunn)は名門の生まれで、毎年各州から上院議員の推挙によって、僅かに二名しか入学を許可しないアナポリス海軍士官学校(Annapolis Naval Academy)の出身の退役軍人海軍将佐であった。
かの日露戦役の突発の時、仁川港でロシアの軍艦を撃沈した瓜生海軍大将はこのアナポリス校の出身で、ダン氏もいつも日本海軍の赫々たる戦勝の話しをすると、“Yes, Yes.”と目を輝かして昔を忍んでいた。
ダン氏は仕官候補生(cadet)の時に米西戦争(American Spanish War)が突発したので、戦争に参加して、帰航の際に、日本の港にも寄港して、日本を知っているといっていた。
今は大会社のトラベラー・エジェント(Traveler Agent:巡回販売人)として、各地に出張しているので、家にいるのは月に五,六日位だった。
夫人も親切にしてくれ、一度も小言をいったことはなく、楽しく学校生活を四年も続けることができた。
娘が二人居って、姉はエリス(Ellis)、妹がエドナ(Edna)といって未婚者のold missであった。
姉は幼稚園の先生で妹は市立図書館の司書であった。家は古いが庭が広くて、裏には数本のユーカリ樹が茂った庭があって、台所口から近いところに小屋が一軒あって、独身のペンキ屋が借りて住んでいたので、毎朝顔を合わせて懇意になった。
私の室は広いアテイックス(attics:天井裏の部屋)で、貧弱な調度品しか入っていなかったが、独占していたので、静かに勉強するのに都合がよかった。
ホール(玄関)には沢山なインデイアン(Indians)の手芸品等が大きなケース一杯に陳列しており、また図書室兼書斎には古今の書籍が所狭くまで積み上げられていたので、家の本で調べものの時は大いに助かった。
スモール家を出てからは、またクラブに帰った。クラブには宿泊者はなく、私一人の淋しい生活ではあったが、昼間はスクールボーイの連中も暇つぶしに立ち寄ったので、話し相手にはこと欠かなかった。
ハイスクールは一月十日頃新学期を開始するらしく、生徒の募集をしていたので、私は文科系のロス・アンゼルス ハイスクールに出頭して出願し、入学の許可を得た。
よって次ぎの家庭を探す間は、クラブを利用して、ここから通学することにしたが、ハイスクールは市の南西のラグナ・ヒル(Laguna Hill)にあって、往復の時間も歩いて四十分もかかるので大変だった。電車の便がないし、当時はバスなどのない時代であったからだ。
食事が一番困った。朝食は自炊ですまし、昼食は学校の食堂で取って、夕食は学校の帰り途に、安料理店に立ち寄ってすましていたが、こういう生活は、懐中の乏しい私には長く続く筈がない。学校に通っているので忙しくて、周旋屋にも行く時間もなく困っている時、幸いに学校から歩いて十五分位の所にあるウイリアム・ダン(William Dunn)という家に働くことになった。
この家庭に住み込むまでに約二十日間も過ぎたときだから嬉しかった。私はダン家に四年間も、この安住の家でハイスクールを卒業することができた。
ダン家は町の南東にあって閑静なところで、ハイスクールにも歩いて十五分だったから都合がよかった。
ダン氏(W. Dunn)は名門の生まれで、毎年各州から上院議員の推挙によって、僅かに二名しか入学を許可しないアナポリス海軍士官学校(Annapolis Naval Academy)の出身の退役軍人海軍将佐であった。
かの日露戦役の突発の時、仁川港でロシアの軍艦を撃沈した瓜生海軍大将はこのアナポリス校の出身で、ダン氏もいつも日本海軍の赫々たる戦勝の話しをすると、“Yes, Yes.”と目を輝かして昔を忍んでいた。
ダン氏は仕官候補生(cadet)の時に米西戦争(American Spanish War)が突発したので、戦争に参加して、帰航の際に、日本の港にも寄港して、日本を知っているといっていた。
今は大会社のトラベラー・エジェント(Traveler Agent:巡回販売人)として、各地に出張しているので、家にいるのは月に五,六日位だった。
夫人も親切にしてくれ、一度も小言をいったことはなく、楽しく学校生活を四年も続けることができた。
娘が二人居って、姉はエリス(Ellis)、妹がエドナ(Edna)といって未婚者のold missであった。
姉は幼稚園の先生で妹は市立図書館の司書であった。家は古いが庭が広くて、裏には数本のユーカリ樹が茂った庭があって、台所口から近いところに小屋が一軒あって、独身のペンキ屋が借りて住んでいたので、毎朝顔を合わせて懇意になった。
私の室は広いアテイックス(attics:天井裏の部屋)で、貧弱な調度品しか入っていなかったが、独占していたので、静かに勉強するのに都合がよかった。
ホール(玄関)には沢山なインデイアン(Indians)の手芸品等が大きなケース一杯に陳列しており、また図書室兼書斎には古今の書籍が所狭くまで積み上げられていたので、家の本で調べものの時は大いに助かった。