祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第39回(在校中の日本人学友の面影)

2011-11-24 10:04:24 | 日記
38.在校中の日本人学友の面影


 ロス・アサンゼルス・ハイスクールに在学中特に思い出に残る学友の二,三名を書いて、ここに昔を忍ぶことにする。


1.A木 茂 君

 A木茂君は私より半年前の1911年の夏の卒業で、私は1911年の冬の卒業であったから、在学中は長い交際をした人の一人である。
 彼は高等師範の在学中に渡米した人で、英語は堪能で学校のAコースの純文学に在籍していた。同じ学科を一緒に学んだことはなかったが、学生間の評判はよかった。
 彼は上級生の時に、学芸会の演劇会で沙翁のヴェニスの商人のシャイロック(Shylock)の役を演じて、裁判の法廷で素晴らしい演技をして拍手喝采を博した。
 優秀な成績で学校を卒業して、東部に遊学し、コロンビア大学(Colombia University)の古典語学部に入学してペルシャ文学を専攻した、米人にも少ない研究をした人である。
 ニューヨークのY.M.C.A.(キリスト教青年会の日本人部の幹事)に居て、大学に行っていた由で、氏をモデルにしたM本百合子作の「伸子」によってA木君のプロフィールが窺がわれるので一読するのも面白かろう。
 百合子と別れてから、東京帝大のペルシャ研究室で研鑚を続けていたとの由で、私は氏が中央公論に発表したペルシャのオマカーヤム(Omar Khayyám:ウマル・ハイヤーム)の長詩の原語稀釈詩を読んで、氏の努力に敬服した。私はかつて大学在学中に英文釈の詩を読んで興味を注いだものの一つであったからだ。そして大学からペルシャに派遣されて、古典文学の研究をする矢先に、惜しくも病死したとの報に接したが、こういう特殊な研究をしているA木君を失ったことは、実に残念である。彼は今日盛んになってきたOrient studyの端緒を開いた人の一人であったのである。


2.Y田 宗太郎 君

 Y田宗太郎君は私と同じ1911年の冬組で一緒に卒業した親友である。彼は医科を希望していたのでCコースに入学していた。
 四年間も苦楽を共にして、校庭のベンチに座って、いつも楽しく語り合った昔が懐かしくなる。温厚な人で、勤勉家であった。卒業後サンフランシスコに出て、スタンフォード大学のクーパー・メデイカル・カレッジ(Cooper Medical College of Stanford University: 医大だけ桑港にあった)に入学して卒業し、同市で医院を開業した。
 私は四ヵ年で大学を卒業して社会に出たが、Y田君は医大の正科を五年もかかり、その上インターンを一年やったから実に六年もかかったので、在学中度々顔を合わす毎に、医科の勉強は大変だと気の毒に思えてならなかった。


3. K沢 佐雄 君

 同君は同県人で、上伊那郡の出身で県立農業学校を出て入校したが、学業を継続するに人一倍の苦学をされて卒業した一人である。
 渡米後英語の勉強をして、入学を許可されたが、一年生の時、私の家を訪問して、学校を退学するというので、そのわけを聞くと、スコットの詩の本が難解で、ついていけんので止めたいというので、君だけではなく、僕もその通りでやっと頑張ったのだ。英語の先生がやめろというのなら仕方がないが、眼をつぶってやり給えと互いにはげまし合ったが、人一倍の努力家であったから、立派にBコースを卒業して、私より一年遅れて加州大学に入学して社会学科を卒業した。
 卒業後国元から婚約者を呼び寄せて(こういう娘を写真結婚花嫁さんpicture bride)シスコに一家を構えて、加州農業協会に勤務していたが、私の紹介で東洋汽船会社の桑港支店に勤務して、船客係の仕事をしていたが、一年足らずでやめて、その後は邦人の団体や会社などに勤めて、学資を作り、再びハーバード大学(Harvard University)に入学して、加大卒業後八年目にしてハーバードのMaster of Artsになった、立志伝中の人である。帰朝後大分高商の教授となった。

 その他私の在学中に数名いたが、卒業したのは喜安君(名は忘れた:スタンフォード入学)とH塚三郎君だけは今尚記憶している。


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