祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第21回(ユダヤ民族特有のレント(Lent)という行事に耐えられず・・・)

2011-11-07 10:07:07 | 日記
20.遂にユダヤ人の家庭を去る


 1905年の正月を迎えて私もthe second year (第二年目、実際は満八ヶ月)となった。一年の計は元旦にありで、今年の予定としては、この一年にミッチリ学校で勉強して来年の春はいよいよ目指すハイスクールに入学する目標を立てた。
 幸い近くにマッキンレー・グランマスクール(MacKinley Grammar School:八年卒の高等小学校)があるので、一月の新学期からまた入学したいと、その準備をした。
 例のように早速その学校長に面会して入学の許可を願ったところ、七年級の上級に編入された。七年の上級なれば日本の中学一年の後期に当たるので、私の語学力も、ここまで進んだことを校長が認めてくれて、だんだん自信ができた。一足飛びにハイスクールに、仮に入れても、ついていけなければ、結局躓いて、自分から退学しなければならず、このため反って自暴自棄して、学業を断念することになりかねないかもしれないので、寧ろ「牛の歩みの如く遅くとも」の方針で、学校へ出頭して校長先生から直接自分の語学力を査定してもらうに越したことはないと、いつもそうしたのである。
マッキンレーは町中に建っていて、運動場も狭く、校舎も木造で設備内容はまあまあだった。ここでも日本人の生徒は私ただ一人であった。前に入学したプライマリースクールに比べて生徒も十二,三歳位の腕白盛りの男生徒が多く、男女混合教育(Coeducation)で学級数は三十人前後で、一人の女教員が担任して全学科の教授をしていた。
私は既に全学課の初級を一応修得しているので、今度は緩々と生徒についていくことができて楽しくもなった。先生も非常に親切に教導してくれたので、期間考査の成績も優をもらった。
多少困ったのはホイテヤーのスノーバウンド(Whittier’s Snow Bound)の詩の本で、これには毎晩遅くまで辞書を引いて勉強した。
スクールボーイの仕事は万事スムースに進んで三月となった。三月に入るとユダヤ民族特有のレント(Lent)という行事があって、これはユダヤ民族の宗祖であるモーゼス(Moses)がエジプトから民族を引率して荒野を横断して艱難辛苦の末にユダヤに帰った、その時の苦難を偲んで四十日間も食事を簡素にして、特にイースト(yeast:酵母)を入れて作ったパンを食べないで、クラッカーのようなセンベイ類しか食べないのである。
 この家族はアメリカに居住していても敬虔なユダヤ教信仰者で私に対しても家僕として、同一の食事をさせられたので、私は耐えられず、自らだけ自費で他より食を求めて食べればよいようだが、アメリカではそう簡単にはゆかず、学校に通学しているから、その日の弁当にもことかくようになった。
 彼らはこのレントの間の飢えに堪えてこそ、昔のモーゼスを忍び、民族の発展を願うと共に、宗教的信心を高める大切な行事であるから、家族の一員である家僕の私もこれに服するのが当然であるのであった。
 私が新米(グリーンボーイ)だったので、口入屋に任せて、古参のボーイらが、振り向きもしないこの家に来て、折角学校も板につきかけた矢先ではあったが、もう辛抱の緒も切れて、止めることにした。 
 そのため学校も中途退学した。スクールボーイも古参になると、良い家庭のみを漁って、こんなユダヤ系の家庭などに行くものはないから、口入屋も一応グリーンボーイの中堅どころを送るので、私がその籤にあたったのである。
 私にとっては、実に良い経験であった。アメリカは移民の溶解炉(Melting Pot)といわれて、世界各国人種の寄せ集まりでできた国だから、一度や二度の面接位では、どこの国の出身者であるか、また何人種であるかは到底識別できないのである。 
 もう私位の経験のできたスクールボーイなら、就職口を新しく探す位は、もう容易になってきた。それで多少安易な気持ちになってくるが、ここが大切な時期ではあるのだ。