祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第41回(1912年8月:羅府を去ってバークレーに出る)

2011-11-26 08:07:17 | 日記
40.1912年8月:羅府を去ってバークレーに出る 



 満五年の間住み慣れた加州の楽園と称されたロス市、私を育んでくれたロス・ハイ、私に生活の保障を与えてくれたDunn家、この思い出深い懐かしの所を去ると思えば感交々至って去るに忍びなかったが、ロス市には私の希望する大学(University of Southern California:メソジスト派の私立大学の一校のみだった)がないので、カリフォルニアへ行くことにしたのである。

 荷物といっても本以外にはないので、不要なものは学生クラブに寄贈して、手軽にしてロス市を出発した。

 来市した時は避難民だったが、今度は晴れての旅行者で無事サンフランシスコに到着した。

 マーケットを通ってフェリー・ビルデイングへ向かったが、マーケット街のビルデイングも皆復興して、以前の殷盛を取り戻していた。

 フェリーから渡船でバークレーに着き、バージニア街(Virginia St.)の日本人大学学生倶楽部(Japanese University Student Club)に入った。学校の開校日までにまだ二週間ばかりあったので、正式に入会するまで客員として滞在することになった。 
 学生連中は休暇のため、倶楽部にいたのはK津猛君(大学院生)という一人で静かだった。しかし八月下旬には賑やかになった。

 この倶楽部はシスコ市を中心として在留邦人の寄付でできたもので、家屋も立派で室内の設備も完備して、大学生クラブとしても恥ずかしくないものだった。二階に寝室が三部屋あるので六人は裕に泊まれた。キッチンも広く勝手道具も揃っていたので宿泊者の学生が当番を定めて料理していたが、流石は皆苦学した人々だからクックの腕前は素晴らしく、実費で一日の食代五十仙、宿泊料は無料であった。

 学校が始まる前に総会があって、私は正会員になった。これで就職をやめたり、都合で泊まりたい時は、いつでも利用でき、学生間の相互親睦の向上と相互間の扶助関係も結ばれて、楽しく安心して学業を続けられた。

注)羅府とはロサンゼルスの異称