祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第69回(加大在学中の親友のプロフィール(日本人学生)1)

2011-12-28 22:57:49 | 日記
 私は1912年(大正元年)に加大に入学して、1915年の十二月に卒業したが、この四ヶ年の間に苦楽を共にし、相助け合って勉学に励み、時にはクラブで寝食を共にし、風論談発、時の過ぎるのも忘れたこともあり、カンパスの芝生やCollege benchに座って、世も山の快談に勉学の悩みを慰められたこともあり、外国における親友こそ真にIntimated friendsにふさわしく、心の強い支えとなったものはない。彼等は皆世俗のpleasure(快楽)を顧みず、乏しきを憂えず、労働しながらも、東天に輝く希望の星(Cynosure)に向かって、専心一意学問に邁進して立派に大学卒業の栄冠を獲得した親友達である。
 持つべきは親友で、頼るすべのない外国での学生生活には一層その感を深くする。
 今や、六十年を閲して、彼等の何人かが、安らかに生存しているか知るすべもないが、願わくは彼等の上に神の栄光を垂れ給わんと祈って止まない。

1.進士 織平君 1912年卒 (農学 B.S.)1912年加大B.S. 、1913年加大M.S.、1916年ミゾリー大Ph.D.、1930年京大農学博士

 私が一年生の時に四年生で同年五月農学部を卒業して、更に大学院に在学していたので、時々彼の宿家を訪問したが、実に苦学して研学に励んだ人で、油虫を(aphisアリマキ)を飼って、薬を与えて眼の色を変える研究を大学院でやっていたが、その結果の中間報告をAmerican Scientific Magazineに発表して、なにがしかの原稿料が入ったと言ってその雑誌を見せてくれたことがあった。身なりなど一向にかまわず、本当に学者肌の人で、1913年に加大でMaster of Scienceの学位を取ったが、翌年私が三年生の時、コーネル大学(Cornel University)の大学院に入学しようとして汽車で出発したが、銭入れを落して引き返した逸話の持主で、一向平気であった。又再び加大で研究していたが、ミゾリー大学(Missouri)の大学院に入って、1916年農学博士になった。
 帰朝して盛岡高等農林の教授となったが、たまたま天皇陛下が同地方に順行の際に御前講演を行ったとのことを当時の新聞で知った。
 昭和九年(1930年)京都帝大で農学博士の学位を得た。東京高等農林学校の教授となったが、その後のことはわからない。私の一番印象に残る人である。
   
2.伊藤文四郎君 1914年建築科卒業 B.S. 伊藤文四郎建築事務所経営
  
 私が一年の時に二年生で長く交際した人の一人である。
 氏は長野県上伊那の人で、私の兄と同級生だったとのことで、よく兄の話しがでた。大学の三年頃日本から奥さんが来て、バークレーで一家を構えていた。
 建築科を出たが、在学中に設計した学生の作品の展示会がしばしば建築校舎で行われたので、見学したことがあった。クラブから大学の経済学校舎へ行く途中に立っていたので、伊藤君や小川裕三君や一年下の橘教順君の設計画も見たが、市役所の設計だったと覚えているが白人学生にひけを取らなかった。
 卒業後東京で建築事務所を開いたが、洋風建築の草分け時代であったためか、東京丸の内の郵船ビルの設計者の一人となって監督したとのことを聞き及んでいる。
 晩年になって日本大学工学部の工学の英語講師をしていると通知を受けたこともある。
 黄綬褒章を受けたと喜びの通知も受け取った。
 私より一,二年上で未だ健在で、加大卒業生で毎年賀状を交換しているのは伊藤君だけだ。氏の健在を祈る。

★上記の記載について。個人情報保護法では「生存する個人の情報だけを保護の対象としているが、たとえ故人の情報であっても、それが生存する個人に影響与えるような場合には保護の対象になる」ようです。そこで、祖父の友人の記載に関しては、ネットですでに公開されている情報がある等、生存する個人に影響を与えないであろうと判断できる方のみフルネームで記載させて頂きました。また、当時80過ぎの祖父の記憶であり記載の詳細に間違えがあるかもしれませんがご容赦下さい。★






第68回(卒業後3 東洋汽船株式会社入社~)

2011-12-27 10:21:38 | 日記


在職中に、日本人小学校の改築を断行して、日本人会の経営として、A砥先生夫妻を教員に迎えた。このため在留民より寄付金を集め、また華村日本語園創立費募集演芸会を一夜開催して私も出演した。(松田午三郎著 「静子」の中にある写真参照)。かくして学園の改築も竣工したので、花火の打ち上げをして祝賀式を挙行したので、米人も喜んで多数参観してくれた。華村は排日の最中にもその影響は少なかった。


神埼桑港日本人会幹事もワッソビル日会の活躍を喜んでくれ、今後も日本人同胞のために尽力してくれと要望されたが、私は1917年三月一日付けを以って東洋汽船株式会社に東郷正作氏の尽力で入社することになって、サンフランシスコ支店勤務を命ぜられ、俸給百弗(六ヶ月後に正社員となって百二十弗を支給された。幹事の二倍の俸給)を支給されて、いよいよサラリーマンとして出発することが出来た。このため楽しかったワッソンビル、特に松田午三郎氏の親交と松田夫人静子さんの温情は終生忘れることの出来ない思出の一つである。


私は、大正八年、社船天洋丸で、一月四日帰社、金沢市のK本栄作氏の妹恵以と横浜で二月七日結婚して、根岸に一家を構え、横浜営業所に勤務、俸給当時百十五円(大学出は初任給三十~四十円)を得た。横浜在勤三ヶ月にして、Captain Filmerから、是非とも、私のシスコ市の店に帰るよう度々電報で要請あり、やむなく五月一日 日本丸で再渡米して、サンフランシスコ支店に勤務し、フィルモーア港湾船長のassistantとなって、社船並びに邦船の荷役の監督、税関移民局との折衝、出入港の手続き等を行ったので、多忙を極めたが、やりがいのある仕事でよかった。

私が外国勤務中は、恵以は、横浜に一家を構えていたが、私の本俸とボーナスは全部支給してやったので、裕福に暮らすことが出来た。私の母も半年位同居したこともあった。私は在外手当金百四十弗で、バークレーのFisher夫人の家に、社員K瀬谷英彦君(故人)と一緒に下宿して出社していた。

大正十年一月下旬、恵以、社船天洋丸でK瀬谷夫人一枝さんと一緒に渡米した。私の本俸は百四十円に昇給した。サンフランシスコ市のポスト(Post Street)に一家を構えた。同年五月頃横浜正金銀行桑港支店の三島君がニューヨーク支店に転勤することになり、氏のアラメダ市の借家が空くので、私が入ることになった。二階建ての1戸建てで庭も広く、家具つきの家で家賃四十五弗だった。家の近くがサウザン・パシフィック鉄道会社のアラメダ・ターミナルで通勤には便利だった。

同年十月二十六日、平伍サンフランシスコのポスト街村山産院で出生、アラメダの家で成長。

 大正十一年八月本社の命で、社船大洋丸で帰社。横浜営業所文書課勤務となったので、本牧町天徳寺に一家を構えた(当時家賃二十五円)。

同年十一月二十六日平冶出生。

 大正十二年九月一日、関東大震災に合って横浜市全滅、会社も倒壊したが九死に一生を得た。

 一先ず、社船大洋丸で避難民と共に神戸支店に出頭して後、金沢のK本栄作氏の所に妻子を託するため出発した。妻子を金沢に残して再び神戸支店に出社、たまたま浅野良三取締役が来社中であったので、正式に神戸支店勤務となった。

 神戸市石井町の社宅を割り当てられたので、十月上旬金沢から妻子を呼び寄せた。

 大正十三年一月、本社に転勤を命ぜられたので、妻子を金沢市に居住さすことにした。(東京では家がないので)恵以は材木町に居住して、私は東京のK本利作氏の深川の家に寄寓して通勤したが、震災後のことでもあり、丸の内の本社に通うのには大変だった。

 大正十三年三月三十一日付けで、一身上の都合で退社、同年四月一日付けで中外商業学校に就職、大阪市西成区の粉浜(現住吉)に一家を構えて大阪玉江橋の学校に通勤した。平造粉浜で出生。

 大正十四年夏、学校は塚口に移転し、私も伊丹市に家屋を新築して移住し、以来今日に至った。

 昭平以下秀子まで凡て伊丹で出生。

 私は学校の教頭、教務主任、高校主事、中学高校の副校長、校長代理、理事となって、在職二十八年間勤務、この間一年、梅花女子専門学校の講師をして、昭和二十六年六月、中外商業高等学校を尼崎市に移管の件を処理して退職した。
                             

第67回(卒業後2 殺人事件の通訳)

2011-12-26 11:51:54 | 日記


私が赴任して半月余りたった或る夜、七時半頃、一台の自動車が日会の前に来て、あわただしくドアを開けて事務所に入って来て

”Say, come on, secretary”(おい。幹事さん来てくれ)と、わけも話さずに、私を自動車の中に押し込んだ。この男はワッソンビルのコンステーブル(Constable巡査)で、車中での話では、ネルソンという果樹園に働いているO木という労働者が同僚のN川(?)という男を斧で頭を打って殺害して逃げる所を捕らえているので、通訳として立会ってくれとのことだった。

 現場に行って驚いた。O木はN川を斧で、三箇所、頭を叩き割って殺していた。その場で自白したので、一先ず、郡の未決監獄に連行された。死体検察官(coroner)もその残虐さには驚いていた。数日経ってから、ワッソンビルの法廷でシェリフ(Sheriff郡の司法官)から尋問があって、私はO木側とシェリフ側の通訳をやったが、沢山の日本人も参観した。また証人として、雇主のネルソンも出廷したが、O木は、ネルソンが、N川を信頼して仕事を与えるのに、自分には冷たく当たるので、それを恨んでの仕業であるらしく、三日の間、時々斧を出しては刃を磨いていたと証言した。O木は殺害したその夜、室の戸の入口の所に隠れていて、N川が、戸を開いて入る途端に一撃を加え倒れるところを更に追撃したと。の告白をしたが、彼は広島県人で、もとは船乗りでメキシコから密入国した事実をも告白したならずものだった。

法廷の尋問は約一時間余りで済み、私もほっとした。

翌日は、身よりのないN川の埋葬を日本人会の手で行い、サリナスの墓地にアンダーテーカー(Undertaker葬儀屋)の手で執行した。

その後、重罪犯人であるから、サンノゼ市の法廷で裁判が開かれ、法廷弁護士もついて、また、私が通訳で結局老齢のため懲役十五年に処せられた。

この事件で、ワッソンビルの在留邦人は、私を信頼して未納者もどんどん会費を納付してくれたので日会の会計も黒字に転換した。私はもう自転車を使わないで馬車(bogie)に乗って悠々馬に手綱をあてて、田舎廻りが出来るようになった。

時たまたま、明治神宮外苑の寄附募集の件が、シスコ総領事館より要請があり、私は事件を契機として多数の醵金を集め、五弗以上の賛助会員数五百余名で、加州日本人会のうちでも最も優秀なる成績を挙げた。

また、日本人の農耕者が土地借入れの期限が経過して、農作物の未回収の問題で紛争している事件も、雇主に交渉して円満なる解決を見たので皆に喜ばれた。



注)醵金とは、「拠金」とも書く。ある事をするために複数の者が金を出しあうこと。また、その金。




第66回(卒業後1)

2011-12-25 10:40:38 | 日記
私は1916年五月下旬挙行されたカリフォルニア大学の卒業式に臨み、蛍雪の功空しからずして、デプロマを手にして、いよいよ実社会に出て活動できることになった。

 最も大学を卒業するまでには、あらゆる労働と職業について実社会の経験は味わったのではあるが、これは学業の傍らのアルバイトであった。

 今後は、学校を離れての全くフリーの身として社会に活躍しなくてはならん時が来たのである。このままアメリカに留まるか、それとも帰朝して日本において活躍するかは、時の流に委ねるとしても、故国に帰るには相当の資金を貯えなければ帰るにも帰れない状態にあった。

 当時は在留同胞の社会的、経済的地位は低く、大学卒業生を採用し得るような会社は皆無だったから、就職を欲すれば、在留者が組織設立していた各種団体、例えば日本人農業協会とか、商工会とか、邦字新聞社とか、在留邦人が多数居住する地方にある日本人会等に限られており、それらも幹部や幹事の仕事も一、二名に限定されて、中々空席がない状態だった。従って我々は日本人の大会社でサンフランシスコに支店を開業しているこれらの会社、銀行に就職したいと願っても、東洋汽船会社と三井物産、横浜正金銀行の三社だけだった。それであるからこれらのビッグスリーには余程のチャンスがなければ不可能だった。

 そのため大学の卒業者は悉く(ことごとく)日本に帰って職を求めたのであった。当時は今日と違って外国大学卒業生の評判は高く、就職にはあまり困難はなかったのである。

 私も勿論アメリカでこのまま留まっていようとは思っておらず、早晩帰れる金が出きれば帰朝したいと決心していた。

 同年八月上旬、桑港日本人会幹事神埼駿一氏(故人―加大卒業後帰国して関西学院高等商業の校長から同大学の総長)からワッソンビル(Watsonville)日本人会の幹事に就職しないかとの相談があったので、早速引き受けることにした。

 このワッソンビルという町は桑港から汽車で約二時間余り海岸沿いに南下した所にあるWatsonville Junctionという駅から自動車で十五分間行った所にある町で当時人口約二万五千位の田舎町であった。

 しかしこの町は気候温暖でパハロー谷(Pahalo Vally)の中にあって、町の北部にはパハロー河が流れて、景色もよく、しかも加州唯一のリンゴの生産地で特にペピン(pepin)というリンゴはこの地方のみに限られて生産され、イギリスに輸出されていたのである。

 在留同胞の定着者も百戸位あって、白人のリンゴ園の定雇いとなったり、自作農として、野菜や苺などを栽培している者もおり、摘み取りの時期には五、六百人の日本人労働者が入園していたので、町にも労働者を泊める簡易宿屋や洋食店や食料品店、洋服屋などもあって、四、五百人は定住していたので、日本人小学校、仏教寺院(立派なものであった)キリスト教会などもあって、日本人会としては加州でも十指に数えられる日本人の活躍していた町であった。近郊のサリナス(Salinas)も沢山の邦人が定住していたのである。

 会長は、長野県人の松田午三郎氏で洋服屋兼ニューヨーク生命保険会社のこの地域の代理人として中々盛んに営業をやっていた。

 私の前の幹事はK野晃冶氏といって同志社の出身で神戸で高等女学校の英語教師をしていた人で、夫人を呼び寄せて一家を構えていた。K野氏はワッソンビルの新世界新聞社の地方支社に主任として就職するため辞職したので私が代わって新幹事として八月上旬赴任したのである。

 日本人会はユニオン街(Union St.)にあって、松田会長宅と向かいにあって、事務の連絡には都合が良かった。

 家は平屋だったが、室は四間あって一室を日会の事務室に使い、私が寝泊りしていたが、二室も空いているので、その後、I藤晴之(加大出同県人)氏という歯科医の治療所に貸与したので、淋しくなくなった。

 さて、日会の幹事の職務は、


1.在留同胞対米人との雇用関係の紛争調停

2.土地借り入れの際の交渉や契約書の作成

3.警察との連絡、通訳

4.妻子呼び寄せの手続き書類の作成、領事館に提出 

5.再渡米者に必要な書類作成、領事館に提出

6.出生、死亡に関する手続き作成、領事館に提出 

7.統計の作成、桑港日本人会への連絡

8.その他一般在留者の家庭的相談等

 幹事の俸給は、六十弗で日会には基金はなく、会員の会費で家賃、光熱費などを賄うのであるから、幹事は先ず仕事の隙をみて、会費の徴収に努めなければ自分の俸給も手に入らないのであった。

 それに日本人農家はこのパハロー谷の各地に散在しているので、一々歴訪して会費を集めることは大変な仕事であった。

 それに日本人農民は仕事に熱心で余程切迫した日会の用事がなければ滅多に顔を出さないので、毎週二日は会費の徴収に管内隈なく歴訪した。そのため日会管轄の地域は私の在職中全部視察することが出来た。

 就職した時は、数十弗の赤字であったが、新幹事が来たというので訪問先は未納の会費(年五弗)を払ってくれて段々黒字となった。

 就職のときの条件には、自転車に乗ることという話しだったから、日会に行った翌日自転車を一台購入して、練習を始め数日で田舎へも乗回せるようになった。私が農家を次々と訪れると、新任の幹事さんが来たと言って、どんどん会費を納めてくれた。

 松田会長も私の努力には感謝してくれ、私も夜は行く所がないので、よく松田宅へ行っては静子夫人(松田午三郎著 静子参照 家に一冊ある)よりいつも歓待を受けた。



第65回(日本人学生クラブ(Berkley Japanese University Student Club)が創立第五十周年)

2011-12-25 10:35:59 | 日記
補 稿
 
1915年(大正五年)私が第四学年生になった時、バークレーの日本人学生クラブ(Berkley Japanese University Student Club)が創立第五十周年を迎えたので、記念号の”Berkley Lyceum”と題する会誌を出版することになったので、私が選ばれて編集長となった。

 私は当時の米国大統領タフト氏(President Taft)に本誌に何か寄稿して頂きたいとお願いしたが、秘書から折角だが多忙のためにその求めには、応じ兼ねるので、悪しからずとの返書に接したため、残念ながら誌上に花を添えることは出来なかった。しかし私はこの返書を会誌の第一頁に掲げて大統領の厚意を謝した。

 クラブ員の学生諸君から各学研に関する論文やその他随筆などの日英どちらかの原稿を提出するよう依頼したところ七,八名の方から、彼等の専門に関する寄稿があったので、それに私の”Pioneer Spirit and Exploitation of California”を加えて十一月末までに原稿をまとめて、桑港日米新聞社に依頼して出版した。
 各クラブ関係者並びに在留の同窓生や加大日本学生クラブと親交のあるアメリカ各地の大学校のCosmopolitan club員などに配布したので、多忙を極めて正月を迎えた。

 出版費は、在留者有志からの寄金と邦人の商社などの広告料と新聞社の特別の厚意で五百部をカバーしたので、部員から感謝された。
 これも私にとっては、良い思い出の一つとなった。この会誌は関東大震災の時、横浜で失ってしまったが惜しいことをした。