祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第40回(1912年の1~7月まで:羅府新報の記者となる)

2011-11-25 08:14:06 | 日記
39.1912年の1~7月まで:羅府新報の記者となる


 
 1912年(明治四十五年)正月元旦はDunn家で迎えた。幸いハイスクールは卒業したものの、目指すカリフォルニア大学はバークレーにあるから、どうしてもサンフランシスコに出て、それから就職口を得て大学に入学するまでには、相当の金を必要としていた。それかといって借金をすることは本来の意志に反するのでしなかった。
 本音を吐くと、汽車賃を払えば明日の糧にもこと欠いていたから、邦字新聞の羅府新報の招きに応じて、八月の大学開校日まで就職した。
 私の友人でS野好平という人が、新聞社に外事記者として勤めていたが、都合で止めることになり、私を代わりに推薦してくれたので直ぐに定まった。四年も御世話になったDunn家より新聞社に移った。

 羅府新報は、南部カリフォルニアで唯一つの邦字新聞で発行部数は僅かに一万紙足らずだったが、評判が良かった。サンフランシスコにある日米朝日新聞と新世界新聞に次いで第三の邦字新聞だった。
 私は外事記者として、夕刊紙四頁の内の第一面頁を沢山受け持って毎日埋めねばならぬから大変な仕事だった。小さな新聞社で共同通信とか何々通信社とは通信の連絡をしていないので、全部の記事は、朝刊の英字新聞の重要記事を即刻翻訳して、文選部に廻すのだから忙しい仕事であったが、自分の書いた記事が印刷されたのを見ると愉快でもあった。さらに校正も自分でした。
 新聞社といっても主筆の馬場氏(後に満州の新聞社の主筆になった)と私(風越)と、もう一名の社会記者の三名で、外に各地方の現地の通信員(地方の日本人会の幹事や役員等)が置かれて、地方の記事は細大洩らさず通信してくれるので、この点は地方の人に好感がもてて喜ばれた。
 地方の通信には同胞の動静はもとより、出産、死亡に至るまで悉く(ことごとく)地方欄で報道するので人気があったが、全く今日から見れば田舎新聞の域を脱せず、糊と鋏から出来た夕刊紙だった。
 私も時々随筆などを書いたり、「ペンのしずく」という小欄を設けて毎日数行づつ担当した。炎天に狭い室の中でペンを振るうのはえらい仕事なので、「夏の日や水瓜も切れぬ 筆の鉾」という狂歌じみたものを書いたりした。また一度英文の論説を掲げようというので私は満州問題Manchurian Questionと題する記事を書いたこともあった。

 記者生活を七ヶ月余り続けたので、今まで全く忘れかけていた日本語が甦り、実に良い勉強をさしてくれた。

 明治天皇は同年七月三十日崩御せられたという報に接したので一同哀悼の意を表して東方に向かった遥拝した。

 年代は改まって大正元年となった。
 七月三十一日の朝刊英字新聞Los Angeles Examiner は天皇の記事を大々的に報道して大帝の崩御を悼んで、生前の偉業をたたえる記事で一杯なので、私は襟を正して、この記事を翻訳して直ちに号外として夕刊をロス市在留民の各家に配達して裳に服するよう要請した。
 在留民の悲しみはひときわ多かった。羅府日本人会の追悼式が挙行されたので私も参列して、亡き大帝の偉徳を偲んだ。

 八月上旬新聞社をやめて、大学入学のためサンフランシスコに向け出発した。




注)羅府新報とは、1903年にカリフォルニア州ロサンゼルスで創刊された。第二次世界大戦下で日米間で開戦したことを受け、日系人の強制収容が行われたことから1942年以降数年間強制的に休刊させられたものの、その後復刊し、2003年には創刊100周年を迎えた。

現在は毎日45,000部発行されており、アメリカ国内で最も多く購読されている邦字新聞である。また、ウェブサイトでも記事を閲覧することが可能である。本社はロサンゼルス中心部のリトル・トーキョーにある。

「羅府新報」の名前は、かつて中国語でロサンゼルスを表記した「羅省枝利」の最初の文字「羅」、日本語で地域行政(県など)を表す「府」、新聞を表す「新報」を合わせて命名された。