26.サンフランシスコの大地震
1906年(明治三十九年)四月十八日朝五時ごろ、私はグラ、グラ、グラと大きなショックを感じたと思った瞬間ベッドから床に放り出された。さては大地震だとわかったので直ぐベッドの下に潜り込んで避難した。まだ余震があって、家はミリッ、ミリッと震れてはいたが大丈夫だった。木造二階建ての古屋のクラブは倒壊だけは免れた。屋根はスレート葺きだったが無事だった。水道とガスは出なかった。
同宿者は私の外二名で、皆「大地震だ!大地震だ!」と驚いて裏口に出てみると、隣家の煉瓦作りの壁が倒れて、狭いクラブの庭に落ちていた。しかし附近の住宅は皆無事のようだった。クラブも土台が少し歪んで床板がぐらつく所はあっても住むには差し支えなく、皆安堵の思いをした。
朝食どころの話しでない。皆直ぐ洋服に着替えて表に飛び出した。
サンフランシスコでこんな大地震が起きるなどとは、誰一人想像した者はないであろう。南米のチリーやペルー等には時々大地震が起こるが、桑港では三十年目に一回位地震がある程度だとのことで、市民も日頃安心していた時に、突然起きたのだから、その驚きは大きかったであろうが、家屋の被害は外から見たところではないらしく、比較的冷静のようだった。
パイン街を下りてダウンタウン(下町の商店地域)に行ったが、市民は地震には怯えていた様子だったが、家屋の被害は殆どなく、開店時間前だったから、町の中も平常と変わりなかった。私は安心して、友人と別れてクラブに戻った。
クラブでは誰も自炊をしていないので、食料品は何一つなく、もし火事でも起きたら大変だと考えて、近くのグローサーリーに(grocery:食料品店)行って、せめて一日分の食物でも買入れようとしたが、戸を閉めて開けてくれなかったので、朝食は抜きにした。不要の物をまとめて全部トランクに入れて、地下の物置(cellar)に入れて保管した。
家にいても、話し相手がいないので、また町中をブラツクことにして、マーケット街の方面を見物した。ここにはシスコ市の誇る大会社、銀行、大商社など林立している繁華街だが、地震の被害など全然見られなかったが、電力がストップしたのであろう、電車の姿は皆無で、この被害は大きいらしかった。
マーケット街から波止場へ行く裏町は密集地帯で、ここは低所得者の住宅街であったが、この方面から火の不始末で出火したらしく、もう第五番街(The fifth St.)あたりから黒煙が上がっていた。市民はわいわい騒いでいるが、水道管が破裂して水はなく、消防車が来ても手を施すことができず、傍観している有様で、警官が大勢出動して、野次馬の近づくのを追い払うのが精一杯だった。
私は面白半分に野次馬に混じって見物していたが、火は海よりの強風に煽られて、見る見るうちにこの方面に燃え広がり、一面の焼野原となったが、まだ火災は衰えず、強風におしまくられて、マーケット街方面まで延びて来たので、軍隊が出動して全市一帯に戒厳令を布いて警戒に当たり、市民の避難するのを助力していた。こうなると自然に鎮火するのを待つより手はなく、この悲惨なること言語を絶した。
大正十二年九月の関東大震災の時、私は横浜で罹災したが、あの時の火事で横浜が全滅したが、あの悲惨な光景を自分も体験した一人であるが、地震後の火事は恐ろしいものだとシスコの火事を思い出して戦慄したことがある。火の始末は十分注意することが肝要である。
朝から燃え続けた火事は夕方までに市内の北部一帯を焼き尽くして、なおも衰えず、いくら呑気に見物していても仕方がないから、クラブに帰ったが、昼食も抜きにしているので、一時に疲れが出て、ベッドに横になったら眠ってしまった。
夜九時頃になったら同宿の連中が帰って来たが、私と同じように火事見物に飛廻っていたのだ。彼等の話では火はもうマーケット街に燃え移って、高層ビルが火を吹いているというので、私はそのような光景はまたと見られないからとマーケットへかけつけた。
軍隊が警戒に当たっていて、ツーブロック(two blocks:二町)以内に立ち入りを禁止していたので、遠くから眺めている群衆に混じって見物したが、十四階のUnion Buildings、十階以上の新聞社のCall Buildingなどの窓からは赤い火災がプープー吹き上がって、その凄まじい光景は今でもぞっとする。
火はマーケット街の目抜通りを焼き払って、マカレスター街一帯をなめ付くして、翌日の昼頃バンネス(Van Ness St.)で消えた。
バンネス街は上町でも富豪の住む住宅街で、道路が非常に広く大邸宅ばかりの所であったから、幸いここまで延焼して自然に鎮火したのである。幸い私のいるクラブは類焼を免れてよかった。鎮火と同時に市内は鼎の沸くがごとき大混雑で沢山の市民が罹災して市内を右往左往している。
水道もなく、ガスもなく、食料も少なく、上町の食料店は市民の暴動で略奪されるような事件も起きた。
市当局は早速市内にあるスクエヤー(四角の公園)を全部罹災者の避難にあてて収容することになり、無数の罹災者が集まった。
私はクラブから一番近い公園に避難した。(クラブは無事だが食物がないので、この場所へ行ったのである。)
この公園は上町にあって、比較的広い高台一帯を占めて、樹木も多くよい場所であった。四月中旬のシスコの気温は相当暖かく、雨は全然降らない時だから野宿しても風邪を引くようなことはないので安心であった。
私は着の身着のままで、公園の方へ歩いて行くと一人の婦人が重そうな大きなトランク(大きいツヅラ:trunk)に紐をかけて、苦しそうに坂道(シスコのup town=上町は皆坂道街)を公園の方へ引張っていくのに出会った。すると婦人は私を見て
“Say, boy. Would you carry this trunk for me to the square? I will give you five dollars.”(もし、ボーイさん。このトランクを公園まで運んでくれませんか。五弗挙げますよ。)というので、これは勿怪の幸いと
“All right ma’m. I will carry it for you.”(引受けました。運んであげましょう。)と引受けて三町ばかり運んで五弗もらって有難かった。パース(purse:財布)には五弗なにがししかないので倍になった。
公園に着くと、もう沢山の避難民が集まっていて、手荷物やトランク等を運んでいる人もあるので、処狭しと陣取っている。皆一夜のうちに資産を失った気の毒な人達である。これに引換え一文なしの私は呑気そのもので、
“Poor in possession, but rich in heart.”(持ち物は貧しくとも、心の富めるものは幸いなり。)と空うそぶいていた。
集まった婦人連中や子供連れの婦人はベンチやチェアーを占有しているので、私達は芝生のゴロ寝であった。
こうして一箇所に貧富の別なく、貴賎の別なく、白も黒も褐色も皆同じ天に輝く星を仰いで、明日の運命を夢見る一夜の仮寓は、人間として現代人が求めている理想の姿ではないか。しかしこんな惨事が二度と起きたら大変である。(関東大震災はシスコの地震よりも十六,七年も遅れて起きたが、市当局は避難民の処置を十分に講じなかったから、横浜では流言蜚語が流れて不安だった。しかも各所に略奪が起きて大騒ぎであった。食料品の僅かの米も三日目にやっとくれた。)
夕方近くになると、食料品がドンドン搬入されて、避難民の全部に配られた。私もパンやゆで卵等をもらって二日目に食糧にありついたのである。若い頃とはいえ、無茶をしたものだと、今苦笑している。それもアメリカであればこそ、こんなに迅速に避難民の救助ができるのだと感心した。
翌朝になって、パンや卵や牛乳などをもらって、皆元気を取り戻して公園もざわく様になった。
仮小屋の建設も軍隊が夕方から来て始めた。そのため早急に大小便所を作ることになり、私たちのような青年が何十人も徴集されて、二メートルも深い穴を掘った。できあがった時私にも牛乳とパンとミカン等くれて労をねぎらってくれた。
三日目になって避難民もぼつぼつ減り始めた。昼頃市の吏員が来て、「無賃で希望の所へ、何処へでも行かしてやるから早速申し出よ。」とアナウンスして廻って、案内書をくれたので、私は直ぐ園内の災害対策事務所へ行って相談したら、加州内は勿論のこと、他州でも汽車無賃切符を発行してくれるというので、これは有難いことになったと喜んだ。
何が幸いになるかわからんものだ。私はロス・アンゼルスに行く希望を述べたら、直ちに、ロス・アンゼルス行き鉄道無料乗車券と避難民証明書をくれたので、夕刻出発することになった。
出発に先立ち、今日まで御世話になった、K藤詳三郎氏にお礼の傍ら別れの挨拶をしたいと、氏が働いている主人の邸宅を訪れた。この家は郊外であったので被害を蒙らず、氏も元気に働いていてよかった。別れに餞別だといって五弗くれた。これでロス行きの金も十五弗となり心強くなった。ロス市へ行っても直ぐ金には困ることはなかろうと安心した。
「閑語休題」
私はここに、K藤詳三郎氏の事を書いて、氏の冥福を祈って止まない。私が書かなかったら誰一人彼の事を知る者はいないから。
私はロス・アンゼルスへ行ってからは彼に面会する機会もなく、大学へ入学のため再びサンフランシスコへ戻って来た時は、シスコを去ってオレゴン州のポートランド(Portland, Oregon State)へ行ったとの話しを、もと勤めていた家の夫人から聞いて残念に思った。
私も彼のお蔭で、辛うじて大学へ入学できるようになったので、せめてそのお礼やら、喜んでもらおうと期待していたのに、とうとう会えなくなってしまった。
彼はこの家に十年以上も勤務して、独力で勉強に励み、十分な学資金を貯蓄して、主人の弁護士の紹介でオレゴン大学の法学部に入学しているとのことであった。
私が1916年(大正5年)に帰朝した時、兄より聞いた話によると、詳三郎君はアメリカの大学を卒業して、私より二年ばかり前に帰国して、東京の生命保険会社に就職していたが、外交官を志して、会社を辞めて東京帝大の聴講生となって勉強をしていたとところ、飯田近在の久堅村(?)で製糸業を営んでいた宮沢家に養子の口があり、学校を止めて飯田に帰って結婚式を挙げた。ところが厳寒の候で気の毒にも風邪を引いて肺炎になり、数日後に死んだとのことで返す返すも惜しいことをした。死ぬために結婚しに来たような結果となり、氏の永年にわたるアメリカの苦学で立派にBachelor of Low(法学士)となってこれから大いに活躍してもらいたかったが、実に残念である。
私は帰国した時、氏の霊前に額づいて氏の冥福を祈った。願わくは霊安かれと祈る。
注)画像は、サクラメント通りの惨状http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87より引用
1906年(明治三十九年)四月十八日朝五時ごろ、私はグラ、グラ、グラと大きなショックを感じたと思った瞬間ベッドから床に放り出された。さては大地震だとわかったので直ぐベッドの下に潜り込んで避難した。まだ余震があって、家はミリッ、ミリッと震れてはいたが大丈夫だった。木造二階建ての古屋のクラブは倒壊だけは免れた。屋根はスレート葺きだったが無事だった。水道とガスは出なかった。
同宿者は私の外二名で、皆「大地震だ!大地震だ!」と驚いて裏口に出てみると、隣家の煉瓦作りの壁が倒れて、狭いクラブの庭に落ちていた。しかし附近の住宅は皆無事のようだった。クラブも土台が少し歪んで床板がぐらつく所はあっても住むには差し支えなく、皆安堵の思いをした。
朝食どころの話しでない。皆直ぐ洋服に着替えて表に飛び出した。
サンフランシスコでこんな大地震が起きるなどとは、誰一人想像した者はないであろう。南米のチリーやペルー等には時々大地震が起こるが、桑港では三十年目に一回位地震がある程度だとのことで、市民も日頃安心していた時に、突然起きたのだから、その驚きは大きかったであろうが、家屋の被害は外から見たところではないらしく、比較的冷静のようだった。
パイン街を下りてダウンタウン(下町の商店地域)に行ったが、市民は地震には怯えていた様子だったが、家屋の被害は殆どなく、開店時間前だったから、町の中も平常と変わりなかった。私は安心して、友人と別れてクラブに戻った。
クラブでは誰も自炊をしていないので、食料品は何一つなく、もし火事でも起きたら大変だと考えて、近くのグローサーリーに(grocery:食料品店)行って、せめて一日分の食物でも買入れようとしたが、戸を閉めて開けてくれなかったので、朝食は抜きにした。不要の物をまとめて全部トランクに入れて、地下の物置(cellar)に入れて保管した。
家にいても、話し相手がいないので、また町中をブラツクことにして、マーケット街の方面を見物した。ここにはシスコ市の誇る大会社、銀行、大商社など林立している繁華街だが、地震の被害など全然見られなかったが、電力がストップしたのであろう、電車の姿は皆無で、この被害は大きいらしかった。
マーケット街から波止場へ行く裏町は密集地帯で、ここは低所得者の住宅街であったが、この方面から火の不始末で出火したらしく、もう第五番街(The fifth St.)あたりから黒煙が上がっていた。市民はわいわい騒いでいるが、水道管が破裂して水はなく、消防車が来ても手を施すことができず、傍観している有様で、警官が大勢出動して、野次馬の近づくのを追い払うのが精一杯だった。
私は面白半分に野次馬に混じって見物していたが、火は海よりの強風に煽られて、見る見るうちにこの方面に燃え広がり、一面の焼野原となったが、まだ火災は衰えず、強風におしまくられて、マーケット街方面まで延びて来たので、軍隊が出動して全市一帯に戒厳令を布いて警戒に当たり、市民の避難するのを助力していた。こうなると自然に鎮火するのを待つより手はなく、この悲惨なること言語を絶した。
大正十二年九月の関東大震災の時、私は横浜で罹災したが、あの時の火事で横浜が全滅したが、あの悲惨な光景を自分も体験した一人であるが、地震後の火事は恐ろしいものだとシスコの火事を思い出して戦慄したことがある。火の始末は十分注意することが肝要である。
朝から燃え続けた火事は夕方までに市内の北部一帯を焼き尽くして、なおも衰えず、いくら呑気に見物していても仕方がないから、クラブに帰ったが、昼食も抜きにしているので、一時に疲れが出て、ベッドに横になったら眠ってしまった。
夜九時頃になったら同宿の連中が帰って来たが、私と同じように火事見物に飛廻っていたのだ。彼等の話では火はもうマーケット街に燃え移って、高層ビルが火を吹いているというので、私はそのような光景はまたと見られないからとマーケットへかけつけた。
軍隊が警戒に当たっていて、ツーブロック(two blocks:二町)以内に立ち入りを禁止していたので、遠くから眺めている群衆に混じって見物したが、十四階のUnion Buildings、十階以上の新聞社のCall Buildingなどの窓からは赤い火災がプープー吹き上がって、その凄まじい光景は今でもぞっとする。
火はマーケット街の目抜通りを焼き払って、マカレスター街一帯をなめ付くして、翌日の昼頃バンネス(Van Ness St.)で消えた。
バンネス街は上町でも富豪の住む住宅街で、道路が非常に広く大邸宅ばかりの所であったから、幸いここまで延焼して自然に鎮火したのである。幸い私のいるクラブは類焼を免れてよかった。鎮火と同時に市内は鼎の沸くがごとき大混雑で沢山の市民が罹災して市内を右往左往している。
水道もなく、ガスもなく、食料も少なく、上町の食料店は市民の暴動で略奪されるような事件も起きた。
市当局は早速市内にあるスクエヤー(四角の公園)を全部罹災者の避難にあてて収容することになり、無数の罹災者が集まった。
私はクラブから一番近い公園に避難した。(クラブは無事だが食物がないので、この場所へ行ったのである。)
この公園は上町にあって、比較的広い高台一帯を占めて、樹木も多くよい場所であった。四月中旬のシスコの気温は相当暖かく、雨は全然降らない時だから野宿しても風邪を引くようなことはないので安心であった。
私は着の身着のままで、公園の方へ歩いて行くと一人の婦人が重そうな大きなトランク(大きいツヅラ:trunk)に紐をかけて、苦しそうに坂道(シスコのup town=上町は皆坂道街)を公園の方へ引張っていくのに出会った。すると婦人は私を見て
“Say, boy. Would you carry this trunk for me to the square? I will give you five dollars.”(もし、ボーイさん。このトランクを公園まで運んでくれませんか。五弗挙げますよ。)というので、これは勿怪の幸いと
“All right ma’m. I will carry it for you.”(引受けました。運んであげましょう。)と引受けて三町ばかり運んで五弗もらって有難かった。パース(purse:財布)には五弗なにがししかないので倍になった。
公園に着くと、もう沢山の避難民が集まっていて、手荷物やトランク等を運んでいる人もあるので、処狭しと陣取っている。皆一夜のうちに資産を失った気の毒な人達である。これに引換え一文なしの私は呑気そのもので、
“Poor in possession, but rich in heart.”(持ち物は貧しくとも、心の富めるものは幸いなり。)と空うそぶいていた。
集まった婦人連中や子供連れの婦人はベンチやチェアーを占有しているので、私達は芝生のゴロ寝であった。
こうして一箇所に貧富の別なく、貴賎の別なく、白も黒も褐色も皆同じ天に輝く星を仰いで、明日の運命を夢見る一夜の仮寓は、人間として現代人が求めている理想の姿ではないか。しかしこんな惨事が二度と起きたら大変である。(関東大震災はシスコの地震よりも十六,七年も遅れて起きたが、市当局は避難民の処置を十分に講じなかったから、横浜では流言蜚語が流れて不安だった。しかも各所に略奪が起きて大騒ぎであった。食料品の僅かの米も三日目にやっとくれた。)
夕方近くになると、食料品がドンドン搬入されて、避難民の全部に配られた。私もパンやゆで卵等をもらって二日目に食糧にありついたのである。若い頃とはいえ、無茶をしたものだと、今苦笑している。それもアメリカであればこそ、こんなに迅速に避難民の救助ができるのだと感心した。
翌朝になって、パンや卵や牛乳などをもらって、皆元気を取り戻して公園もざわく様になった。
仮小屋の建設も軍隊が夕方から来て始めた。そのため早急に大小便所を作ることになり、私たちのような青年が何十人も徴集されて、二メートルも深い穴を掘った。できあがった時私にも牛乳とパンとミカン等くれて労をねぎらってくれた。
三日目になって避難民もぼつぼつ減り始めた。昼頃市の吏員が来て、「無賃で希望の所へ、何処へでも行かしてやるから早速申し出よ。」とアナウンスして廻って、案内書をくれたので、私は直ぐ園内の災害対策事務所へ行って相談したら、加州内は勿論のこと、他州でも汽車無賃切符を発行してくれるというので、これは有難いことになったと喜んだ。
何が幸いになるかわからんものだ。私はロス・アンゼルスに行く希望を述べたら、直ちに、ロス・アンゼルス行き鉄道無料乗車券と避難民証明書をくれたので、夕刻出発することになった。
出発に先立ち、今日まで御世話になった、K藤詳三郎氏にお礼の傍ら別れの挨拶をしたいと、氏が働いている主人の邸宅を訪れた。この家は郊外であったので被害を蒙らず、氏も元気に働いていてよかった。別れに餞別だといって五弗くれた。これでロス行きの金も十五弗となり心強くなった。ロス市へ行っても直ぐ金には困ることはなかろうと安心した。
「閑語休題」
私はここに、K藤詳三郎氏の事を書いて、氏の冥福を祈って止まない。私が書かなかったら誰一人彼の事を知る者はいないから。
私はロス・アンゼルスへ行ってからは彼に面会する機会もなく、大学へ入学のため再びサンフランシスコへ戻って来た時は、シスコを去ってオレゴン州のポートランド(Portland, Oregon State)へ行ったとの話しを、もと勤めていた家の夫人から聞いて残念に思った。
私も彼のお蔭で、辛うじて大学へ入学できるようになったので、せめてそのお礼やら、喜んでもらおうと期待していたのに、とうとう会えなくなってしまった。
彼はこの家に十年以上も勤務して、独力で勉強に励み、十分な学資金を貯蓄して、主人の弁護士の紹介でオレゴン大学の法学部に入学しているとのことであった。
私が1916年(大正5年)に帰朝した時、兄より聞いた話によると、詳三郎君はアメリカの大学を卒業して、私より二年ばかり前に帰国して、東京の生命保険会社に就職していたが、外交官を志して、会社を辞めて東京帝大の聴講生となって勉強をしていたとところ、飯田近在の久堅村(?)で製糸業を営んでいた宮沢家に養子の口があり、学校を止めて飯田に帰って結婚式を挙げた。ところが厳寒の候で気の毒にも風邪を引いて肺炎になり、数日後に死んだとのことで返す返すも惜しいことをした。死ぬために結婚しに来たような結果となり、氏の永年にわたるアメリカの苦学で立派にBachelor of Low(法学士)となってこれから大いに活躍してもらいたかったが、実に残念である。
私は帰国した時、氏の霊前に額づいて氏の冥福を祈った。願わくは霊安かれと祈る。
注)画像は、サクラメント通りの惨状http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87より引用