祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第31回(市立West Lake Grammar School 卒業(スモール家の思い出))

2011-11-17 09:54:17 | 日記
30.市立West Lake Grammar School 卒業(スモール家の思い出)



 新学期が始まる数日前に、是非良い家庭を探して落着いて勉強したいと、ブラリと日本人の周旋所へ行ったら、スクールボーイの求人が来ているから、交渉にいってはどうかというので、その口を紹介してもらった。
 家はロス市の西部に位するウェストレーキ・アヴェニュー(West Lake Avenue)とという閑静な住宅街で、中流以上の人が住んでいるらしく、家並みも立派で環境に恵まれていた処であった。
 この家の主人はスモール氏といって、米国南方横断鉄道会社(The Southern Continental Railroad-Santa-Fe)のロス・アンゼルス工場長(Master of Mechanics:技師長)で一流の技術屋であった。夫人(Mrs. Small)はこれまたアイオワ州(Iowa State)の名家の出で、家庭としてはまたとない理想的な家であった。 
 子供はジョン(John五歳)とロバート(Robert三歳)で、家族四名であった。
 家も新築まもない近代式のコテージの二階屋で庭も広く、今までサンフランシスコで世話になった家などとは比較にならない程立派であった。
 スモール夫人に面会して、私の希望や目的などを説明したら喜んで雇ってくれたので、いよいよこの家庭の一員となることができて、前途に明るい光明が輝き始めた。
 私はもう一人前の中堅スクールボーイとなっていたので、家事や炊事全般を引き受けて、誠実に勤めたから、皆から愛されてSaburo,Saburoと楽しく過ごすことができた。
 また私に与えられた部屋は道に面した八畳位の二階間で、私の来ない前は夫婦のchamber(部屋)であったということで、子供は次ぎの室にいた。
 私は朝食を作って、その後片付けをすませば、八時ごろから午後四時半まで自由時間が貰えるので、いよいよ学校へ入学する決心をした。夫人にも相談したら、この近くにハミルトン・グランマースクール(Hamilton Grammar School)でよければあるからと勧めてくれたので、校長に面会に行った。 
 前述したように、サンフランシスコでは、教育委員会が前年の十月に市立学校から日本人の児童を隔離する決議案を可決して日本人児童の入学を拒否しているので、この学校でも、校長の裁断で或いは許可してくれないのではないかと心配したが、校長は私の切なる希望を入れて快く入学を許可してくれて、最上級の八年に入れてくれた。
 これも偏にスモール夫人の賜であった。

 ハミルトン校の八年級の担任は男教師でよく面倒をみてくれて、親切に指導してくれた。生徒も皆従順で行儀がよく、シスコ市のラグナホンダ校のような腕白生徒もいなく、楽しい勉強ができた。これも生徒の家庭が立派で両親の躾がよく行き届いている結果であろう。またロス市地方では日本人排斥運動が台頭していなかったから、まことに幸せであった。
 学校の教科の方は、既にシスコで八年の上級を中途まで修得しているので、特に難しい学科もなく、全科をスムースに学ぶことができた。英語の学力がやっとここまでついたのである。
 ロス市の国民教育のカリキュラム(curriculum:課程)はシスコと大同小異であったが、内容はやや実用化されて、よくできていた。特に数学のテキストなどは、当時としては傑出していたと今でも考えているが、統計の作り方、幾何の作図、図解、測量、利子計算等などであった。また歴史の米国史もcivics(公民学)を加えて市民教育に努めていた。この他特に感じたのは午前に一回、午後に一回、音楽の女教師が大きな声で全教室に響き渡るように、”When the sun is low…”と歌ってくれると授業中に耳をすまして聞いた思い出が今でも残っている。今日のようにラジオやテレビのない六十年前にこういうレラックス(relax)を行ったことは、良い方法ではなかろうか。
 Hamilton Schoolをはじめ全市立の高小卒業者は校長の推薦で、市立ハイスクールに無試験で入学を許可されていたから、進学に対する特別補修指導もなく、補修授業もなく、生徒も安心して緩々と学校の教科を学べばよいので、試験地獄などは彼等の想像のできないことであった。従って父兄側も、家庭教師をつけたり、放課後私塾に通わせたり、受験書を買って、子供に勉強をせよ、勉強をせよと強いることは全然見られなかった。この点だけでも誠に恵まれた教育制度であった。
 私は幸いスモール家の厄介になって、1907年十二月卒業して、いよいよHigh School に無試験入学の資格を得た。当時この学校では始業式も卒業式も挙行せず、卒業証書をもらった。


 私はここに、スモールの家庭にいた時の思い出を記して忘れな草にする。
 私はこれまでに働いた家には小さな子供がいなかったので夕餉の後に家族と一緒にテーブルを囲んで、楽しく語り合うような機会に恵まれず、ホントに米人家庭の団欒を味わうことができなかった。
 しかしスモール家に来てからは、可愛い三つのロバート(Robert)や五つのジョン(John)がいて、私によく懐いでくれるので、私は子供たちの遊び相手になって、オモチャ遊びをして楽しんだ。子供たちは、終日家にいて、遊びには行かないので(アメリカの子供は道路などでは遊ばせない習慣で、公園や遊園地で遊ばせる。)私がフレンドの代わりをやっていたのである。
 ジョンは腕白盛りで、ハタキなどで客間(パーラー:Parlor)のピアノやテーブルをトントン叩いたりして遊び回るので、お母さんが、
“Hey, you are a naughty boy.”と捕まえて尻をポンポン叩くと(アメリカの子供の躾は中々厳しい)泣いて、私のところへ飛んで来てはしがみつき、
“Oh, pardon me mammy.”(母さん許してね)と私に向かってあやまるので、私がお母さんに代わって、
“Don’t do it again, John. You are a good kid, aren’t you?”
(また、やらないでね。よい子供じゃないの。)というとキッスして、その場はケリとなるのだった。
 晩は一家とテーブルを囲んで、ジョンは私の膝の上に乗って、日曜新聞の漫画を見ては(carton:漫画)私に読んでくれとせがむので、読んでやると、キャ、キャといって喜んだ。
 お蔭で英語の朗読の練習にもなった。
 日曜の午後には子供を連れて月に二,三度この当たりのピクニックに出て、丘を一巡りして、小さな池の辺で楽しく遊んで帰ったが、この町のWest lakeという名はここからつけられたものだと知った。
 ジョンとロバートは両親の寝室から離れて二階の私の隣の部屋で寝ているので、夜は淋しいのであろう、時々私の部屋に来て、勉強している私に
“Don’t you go to bed, Saburo?”(寝ないの?)
“May I sleep with you?”(一緒に寝てよいの?)
などいって、私のベッドに潜り込んで三人一緒に寝たこともあった。子供は実に無邪気で可愛いものだ。
 北部地方では日本人の排斥運動が、段々盛んになってきたので、連邦政府でも、これに同調して、今年の三月頃に米国大統領の命令で、日本人移民の渡米を禁止したという新聞の記事を見て、私は良い時期に渡米したことを喜んだ。
 また同年十月にはサンフランシスコで暴動が起きて、日本人のゴールデン・ゲートという洋食店が一夜のうちに暴徒の襲撃で、メチャメチャに壊されてしまったということも知って驚いた。ロス市に来て良いことをした。
 今頃はシスコ市に居れば学校は愚か、うっかり夜道も歩けないだろうし、こんな良+い家庭を見付けられるなど、到底思いもよらんことで、シスコ市に残っている友達などのことが心配だった。
 第四回目のクリスマス・イブはスモール家で楽しい一夜を送ってキリストの降誕を祝福した。 
 私はスモール夫人にクリスマスのプレゼントを、何にしようかと色々考えたあげく、日本人の美術店(Curios store)に行って日本の古い鉄瓶を一個、なにがしかの金を出して買って来た。それをクリスマス・ツリーの下に置いて、二十五日の朝差し上げることにした。 
 子供たちは、朝早く起きて、サンタクローズの翁の来るのを喜んで待っている。ベッドにつるされた両親からのサンタの贈物がストッキング一杯で、皆キャーキャー喜んで、客間に下りてくると、クリスマス・ツリーの下に摘んである、家からと、友人たちから送ったプレゼントを配ったが、私には夫人からスコットの詩集(Scott’s Poem)を一冊くれた。 主人からは万年筆をくれたが共によい記念品となった。私は、
”A merry Christmas to you.”(クリスマスおめでとう)といって
“Please accept this old Japanese kettle.”(どうぞ、この古鉄瓶を受納下さい)と差し上げたら、非常に喜んで、
“It is very kind of you.”(ありがとう)といって受け取ってくれ、客間の飾り物にしてくれた。アメリカでは存外こういう骨董品(curios)が好かれるのである。
 クリスマスが過ぎて1908年(明治四十年)の新年を迎えた。私は在米生活満三年八ヶ月となり、満二十一歳となった。
 スモール氏は一月に入って、会社から、同鉄道会社のアリゾナ(Arizona)のフェニックス(Phoenix:アリゾナ州の首都)の工場長に転勤することに定まったので、私は残念ながら仕事を止めねばならぬことになった。
 折角新学期からハイスクールの進学が決まって喜んでいる矢先のことで失望した。
 夫人はアリゾナに一緒に来たければ来いと、言ってくれたが、当時のアリゾナ州は全米でも最も開発の遅れた州で、農工業には適せず、鉱業が主要生産業で、アリゾナなどへ行くものは「ブランケットを担いで死に行くものだ」とも言われていた所だった。それで残念ながら断わって、別れを惜しんでスモール家を去った。
 夫人は私に固い握手をして「将来折もあらば、また会おう。お前の成功を祈る」といってくれたので、目頭があつくなった。
 それにしても、JohnもRobertも今無事に暮らしておれば、二人とも、もう六十歳の老紳士になっている。Mrs. SmallとMr. Smallはこの世には、居られないと思うと悲しくなる。
 私は今遠い六十年前の時代を懐古して、ただただ感謝の外はない。