祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第29回(ロス・アンゼルスで働く)

2011-11-15 09:23:45 | 日記
28. ロス・アンゼルスで働く


 数日間サンペドロ街の日本人旅館にブラブラ泊まっていたが、前述したような良くない地帯で、こんな所に金もないのに長逗留していると、いつしか身を崩して、ロス市に来た甲斐もないので、働き口を見つけて出て行こうと決心した。
 こんな腐敗した所に来るなら、米人のYMCAに世話をしてもらった方が良かったと後悔した。
 東洋ホテルは田舎から出てくる農園の日本人労働者のボス連が泊まる定宿らしく、百姓の仕事口ならいつでもあると宿屋の主人が言っていたが、いくら足掛けでも農園仕事はしない方がよく、私がシスコにいた時一度農園に行って経験した結果、身を落として農園に住みつくと、足が洗えなくなって、一介の季節労働者となって、一生を過ごすことになりかねない。現に農園に行って働いている者を見ると、学生崩れが相当にいて、もう将来の希望もなく、その日その日を無為に働いている状態であった。
 それでやはり金は入らなくても、またスクールボーイをして学業を続け、なんとしてもロス市でハイスクールだけは卒業しなければ、ロス市に来た意義がないからだ。
 一度日本人の周旋屋へ行って相談して見ようと考えていた矢先、シスコ市にいた時二,三度合ったことのある、信州小諸の出身者で佐々木(名は忘却)という人がホテルに泊まりに来た。
 佐々木は日本の大学の中退者で資産家の息子だとの評判だったが、私より半年ばかり遅れて渡米し、シスコで家内労働をしていたが、地震に合って南下したとのことだった。
 今度佐々木の友人で菱木という人がロス市で飲食店-レストランを開業するので、そのヘルパー(手助人)としてやって来たのだが、君も暫く一緒に働いてくれないかと頼まれた。
 私は来る八月の学校の新学期からまたスクールボーイをして学業をどうしても続けたいから、これから良いアメリカ人の家庭を探そうとしている所だと断わったが、学校の始まるまででもよいから是非働いてくれ、給料もスクールボーイより良いので学資を作るのにも都合がよいであろうと、頼み込まれたので働くことにした。懐中も段々淋しくなっていた。
 菱木はシスコ市にいた時にクラブで会ったこともあり、人物は良い男で、英語も達者で永年アメリカにいたのでクックの腕前は一流であった。聞くところによると、佐々木と共同出資でレストランを始めるらしく、既にロス市の下町の所にあった米人のレストラントの跡をそのまま安く借り受けて店を開くとのことで、五月一日頃には開業するというので月末から働いてくれと頼まれた。
 店へ行って見ると、この一帯は低所得階級者の住宅街でロスの停留所から七,八町横道に入った所で、店には古テーブルが八脚位で椅子も16脚で、これでは商売にならんと思った。
 料理場には菱木がチーフ・クックで私が助手クックという役目で、給仕は佐々木独りというサービスであった。
 開業した当座は客も相当にあってマーマーの成績だった。菱木は料理も上手で、表に掲げるメニュー(Menu:献立表)の、その日の料理名も中々凝っていて、字も上手で値段は一皿二十仙から二十五仙位だったから、客も来てくれたので、佐々木一人ではサービスも悪いというので、白人の娘を一名雇い入れて給仕させ、佐々木は会計を兼務していた。私の仕事は副食物の調理一切と皿洗いの仕事だったが、飯時以外の時間には客がないので、そうえらい仕事ではなかった。
 どうしたことか、段々客足が減ってきて、七月頃には飯時でも十名も入らないことになった。客種は労働者や老人が多かったが、これでは商売がなりたたず、佐々木は毎晩算盤をはじいて、赤字続きだとコボシ出した。
 これでは女の給仕と私の給金(週五弗)も出ないようになり、家賃も出ないようになって、女は解雇した。
 九月末になって菱木は店を閉じるといい出した。私もいつまでもくだらぬクックなどして義理に働くのも馬鹿らしく思っていた時だから喜んだ。
 幸い五ヶ月ばかり働いたので、新しい洋服と見廻り品調達ができて幸いであった。それに加えて料理の作り方の骨を覚えて良いことをした。クックもアメリカでは生計を立てる時の一つの手段となるからだ。