13.スクールボーイとして初めて米人家庭に入る
米国に来てから約十日目にスクールボーイの口が見つかった。懐も日増しに淋しくなるので、気が気でなく、アセリ出した時である。
三浦というクラブ員で、リック・ハイスクール(Lick High School)に通学している人がクラブに来て、「君に丁度よい口があるから行かないか。グリーンボーイ(Green boy新渡米者)を希望しているから」というので、早速その家を紹介してもらって、面会に行くことにした。
いくらグリーンボーイでも、家族の数や、仕事の難易や、自分の部屋の状況や、給料などについては、よく前もって交渉して置かねばいかんから、その要領を三浦から教わった。三浦は紙に英語で質問事項を書いてくれ、これを見て話せばよいと渡してくれた。そして先方が質問したら、“Yes, mam. Yes, mam”と答えよと教えてくれた。
しかし今まで一度もアメリカ人と話したことがないので、心配になったが、成るように成れと覚悟をきめた。
私はクレー街(Clay Street)の下町に近い何番地か主婦の名は忘れたが、その家のベルを鳴らした。
すると五十歳位の婦人がドアを開けて“Come in”(お入り)というので、恐る恐るホール(hall玄関)に入ると、“Take a seat”(お掛け)というので、“Sit down”(座れ)と同じだと感づいて腰をかけた。すると何か早口で云ったが、こちらには全く解らないから、“Yes, mam”と答えると、“Oh!”といって、うなずいた。
それからは無我夢中で質問どころか、黙っていると、“All right, boy. You are a green boy.“と笑って、直ぐ雇い入れてくれたので、ホッとした。早速夕刻から始めることになった
この婦人は前にスクールボーイを使った経験があるのであろう。
帰って三浦に話したら、「グリーンボーイを希望したので、反って良かった。少しでも英語が喋れるようなボーイは既に二、三軒行って経験しているので、君のようなボーイは云うなりになるから、反って使い易いのだ。良かった。良かった。」と喜んでくれた。
手荷物は小さなバック一個で不要な品は預けて置いた。行く前に日本人の雑貨屋へ行って、晩すぐ使う白いエプロン二枚と給仕の時に着る白色のウェーターコート一着を買って四時頃出頭した。
家では私の来るのを待っていたらしく、すぐ私に当ててくれた部屋に案内してくれた。部屋は台所の次の部屋で日本の女中部屋というわけだろうが、四畳半はあって、金製のベッドとビュロー(鏡台付きタンス)とテーブルに椅子も入っていて、今までいた協会の寮やクラブなどとは雲泥の差で、“This is your room.(お前の部屋だ)”といって“Here is a key.(鍵ですよ)”と部屋の鍵と戸口の鍵をも渡してくれた。
米国は鍵の国といわれる程あってプライバシーは厳重に守られていると同時に、初めて来たボーイをも信用して、戸の鍵をくれたのだ。これはどの家でも同じ風習だった。
私は時間に遅れまいと、台所に出ると夫人もいて、料理に取りかかって六時半頃にはでき上がった。私は気をきかして汚れ物を次から次と洗い上げたので、満足したようだった。
夕食ができたので、テーブルセットを教えてくれた。一度教われば誰にもできることだ。この家の家族は夫婦と子供二人の計四人だった。
いよいよ給仕をやったが、初めてのことだから、度々ヘマをやったが、別に咎めなかった。食事の最中にソーサー、ソーサー(saucer 小皿)というので、この言葉が解らず、困ってウロウロしていると、娘が小皿を持って来て“This is a saucer(小皿はこれだ)”と教えてくれた。一字新しい英語を初夜に覚えたのである。この言葉は今でも念頭を離れない言葉となった。
そういう風に自然と英語の単語を覚え、聞き慣れて、その内には簡単な日常の挨拶はできるようになった。
当夜の炊事を済ましたが、いつも夫人と一緒に働いて、仕事を教えてくれたから、滞りなく初夜のスクールボーイはパッスしたらしい。
八時頃自分の部屋に戻って、ヤレヤレと安堵の思いをして床についた。これでアメリカに私の寝城が定まった。
グリーンボーイ(Green boy新渡米者)
米国に来てから約十日目にスクールボーイの口が見つかった。懐も日増しに淋しくなるので、気が気でなく、アセリ出した時である。
三浦というクラブ員で、リック・ハイスクール(Lick High School)に通学している人がクラブに来て、「君に丁度よい口があるから行かないか。グリーンボーイ(Green boy新渡米者)を希望しているから」というので、早速その家を紹介してもらって、面会に行くことにした。
いくらグリーンボーイでも、家族の数や、仕事の難易や、自分の部屋の状況や、給料などについては、よく前もって交渉して置かねばいかんから、その要領を三浦から教わった。三浦は紙に英語で質問事項を書いてくれ、これを見て話せばよいと渡してくれた。そして先方が質問したら、“Yes, mam. Yes, mam”と答えよと教えてくれた。
しかし今まで一度もアメリカ人と話したことがないので、心配になったが、成るように成れと覚悟をきめた。
私はクレー街(Clay Street)の下町に近い何番地か主婦の名は忘れたが、その家のベルを鳴らした。
すると五十歳位の婦人がドアを開けて“Come in”(お入り)というので、恐る恐るホール(hall玄関)に入ると、“Take a seat”(お掛け)というので、“Sit down”(座れ)と同じだと感づいて腰をかけた。すると何か早口で云ったが、こちらには全く解らないから、“Yes, mam”と答えると、“Oh!”といって、うなずいた。
それからは無我夢中で質問どころか、黙っていると、“All right, boy. You are a green boy.“と笑って、直ぐ雇い入れてくれたので、ホッとした。早速夕刻から始めることになった
この婦人は前にスクールボーイを使った経験があるのであろう。
帰って三浦に話したら、「グリーンボーイを希望したので、反って良かった。少しでも英語が喋れるようなボーイは既に二、三軒行って経験しているので、君のようなボーイは云うなりになるから、反って使い易いのだ。良かった。良かった。」と喜んでくれた。
手荷物は小さなバック一個で不要な品は預けて置いた。行く前に日本人の雑貨屋へ行って、晩すぐ使う白いエプロン二枚と給仕の時に着る白色のウェーターコート一着を買って四時頃出頭した。
家では私の来るのを待っていたらしく、すぐ私に当ててくれた部屋に案内してくれた。部屋は台所の次の部屋で日本の女中部屋というわけだろうが、四畳半はあって、金製のベッドとビュロー(鏡台付きタンス)とテーブルに椅子も入っていて、今までいた協会の寮やクラブなどとは雲泥の差で、“This is your room.(お前の部屋だ)”といって“Here is a key.(鍵ですよ)”と部屋の鍵と戸口の鍵をも渡してくれた。
米国は鍵の国といわれる程あってプライバシーは厳重に守られていると同時に、初めて来たボーイをも信用して、戸の鍵をくれたのだ。これはどの家でも同じ風習だった。
私は時間に遅れまいと、台所に出ると夫人もいて、料理に取りかかって六時半頃にはでき上がった。私は気をきかして汚れ物を次から次と洗い上げたので、満足したようだった。
夕食ができたので、テーブルセットを教えてくれた。一度教われば誰にもできることだ。この家の家族は夫婦と子供二人の計四人だった。
いよいよ給仕をやったが、初めてのことだから、度々ヘマをやったが、別に咎めなかった。食事の最中にソーサー、ソーサー(saucer 小皿)というので、この言葉が解らず、困ってウロウロしていると、娘が小皿を持って来て“This is a saucer(小皿はこれだ)”と教えてくれた。一字新しい英語を初夜に覚えたのである。この言葉は今でも念頭を離れない言葉となった。
そういう風に自然と英語の単語を覚え、聞き慣れて、その内には簡単な日常の挨拶はできるようになった。
当夜の炊事を済ましたが、いつも夫人と一緒に働いて、仕事を教えてくれたから、滞りなく初夜のスクールボーイはパッスしたらしい。
八時頃自分の部屋に戻って、ヤレヤレと安堵の思いをして床についた。これでアメリカに私の寝城が定まった。
グリーンボーイ(Green boy新渡米者)