祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第14回(いよいよグリーンボーイ! “Yes, mam. Yes, mam”)

2011-11-02 15:11:29 | 日記
13.スクールボーイとして初めて米人家庭に入る


 米国に来てから約十日目にスクールボーイの口が見つかった。懐も日増しに淋しくなるので、気が気でなく、アセリ出した時である。
 三浦というクラブ員で、リック・ハイスクール(Lick High School)に通学している人がクラブに来て、「君に丁度よい口があるから行かないか。グリーンボーイ(Green boy新渡米者)を希望しているから」というので、早速その家を紹介してもらって、面会に行くことにした。
 いくらグリーンボーイでも、家族の数や、仕事の難易や、自分の部屋の状況や、給料などについては、よく前もって交渉して置かねばいかんから、その要領を三浦から教わった。三浦は紙に英語で質問事項を書いてくれ、これを見て話せばよいと渡してくれた。そして先方が質問したら、“Yes, mam. Yes, mam”と答えよと教えてくれた。
 しかし今まで一度もアメリカ人と話したことがないので、心配になったが、成るように成れと覚悟をきめた。
 私はクレー街(Clay Street)の下町に近い何番地か主婦の名は忘れたが、その家のベルを鳴らした。
 すると五十歳位の婦人がドアを開けて“Come in”(お入り)というので、恐る恐るホール(hall玄関)に入ると、“Take a seat”(お掛け)というので、“Sit down”(座れ)と同じだと感づいて腰をかけた。すると何か早口で云ったが、こちらには全く解らないから、“Yes, mam”と答えると、“Oh!”といって、うなずいた。
 それからは無我夢中で質問どころか、黙っていると、“All right, boy. You are a green boy.“と笑って、直ぐ雇い入れてくれたので、ホッとした。早速夕刻から始めることになった
 この婦人は前にスクールボーイを使った経験があるのであろう。
 帰って三浦に話したら、「グリーンボーイを希望したので、反って良かった。少しでも英語が喋れるようなボーイは既に二、三軒行って経験しているので、君のようなボーイは云うなりになるから、反って使い易いのだ。良かった。良かった。」と喜んでくれた。
 手荷物は小さなバック一個で不要な品は預けて置いた。行く前に日本人の雑貨屋へ行って、晩すぐ使う白いエプロン二枚と給仕の時に着る白色のウェーターコート一着を買って四時頃出頭した。
 家では私の来るのを待っていたらしく、すぐ私に当ててくれた部屋に案内してくれた。部屋は台所の次の部屋で日本の女中部屋というわけだろうが、四畳半はあって、金製のベッドとビュロー(鏡台付きタンス)とテーブルに椅子も入っていて、今までいた協会の寮やクラブなどとは雲泥の差で、“This is your room.(お前の部屋だ)”といって“Here is a key.(鍵ですよ)”と部屋の鍵と戸口の鍵をも渡してくれた。
 米国は鍵の国といわれる程あってプライバシーは厳重に守られていると同時に、初めて来たボーイをも信用して、戸の鍵をくれたのだ。これはどの家でも同じ風習だった。
 私は時間に遅れまいと、台所に出ると夫人もいて、料理に取りかかって六時半頃にはでき上がった。私は気をきかして汚れ物を次から次と洗い上げたので、満足したようだった。
 夕食ができたので、テーブルセットを教えてくれた。一度教われば誰にもできることだ。この家の家族は夫婦と子供二人の計四人だった。
 いよいよ給仕をやったが、初めてのことだから、度々ヘマをやったが、別に咎めなかった。食事の最中にソーサー、ソーサー(saucer 小皿)というので、この言葉が解らず、困ってウロウロしていると、娘が小皿を持って来て“This is a saucer(小皿はこれだ)”と教えてくれた。一字新しい英語を初夜に覚えたのである。この言葉は今でも念頭を離れない言葉となった。
 そういう風に自然と英語の単語を覚え、聞き慣れて、その内には簡単な日常の挨拶はできるようになった。
 当夜の炊事を済ましたが、いつも夫人と一緒に働いて、仕事を教えてくれたから、滞りなく初夜のスクールボーイはパッスしたらしい。
 八時頃自分の部屋に戻って、ヤレヤレと安堵の思いをして床についた。これでアメリカに私の寝城が定まった。


グリーンボーイ(Green boy新渡米者)


第13回(いよいよスクールボーイ!) スクールボーイ=学校へ行ける奉公人

2011-11-02 15:11:29 | 日記
12.スクールボーイの生活


 スクールボーイとは日本の学僕とは相当違った職業であって、一言にして言えば軽い女中の家庭労働を日本人の青年がやって、主婦の掃除仕事や炊事の手伝いをする家内労働者である。普通の家内労働者(domestic worker-maid)は女子や婦人で男子は殆どこういう仕事はしなかったので、日本人の青年をその代わりに使った。アメリカの太平洋沿岸、特にカリフォルニアの都市の米人家庭で働いたスクールボーイと称した奉公人であった。
 スクールボーイと呼んだのは、仕事が朝と午後とに限られて、学校に通学し得る時間を与えられるので、「学校へ行ける奉公人」とでも解せられる、一種独特の職種であった。
 アメリカでは家内労働者の賃銀が高くて、普通の家庭では中々雇えないので、経済的に有利な労銀が安くて、勤勉で、忠実で、コザッパリした若い嘗ての学生だった日本人を使うようになったのだ。
 一方我々の側からいえば、誠に有難い仕事であって、朝夕軽い家内労働をして、食事や寝室をもらって、週給一弗五十仙から二弗はもらえるのだから、どうにか、こうにか倹約すれば小遣には差し支えなかった。
 その上、米人家庭の家族の一員となって、日夜生活を供にするので、英語会話の修得には、またと得難きチャンスである。それに炊事の手伝いをするので、料理一般の調理法も会得するので、やがては家庭のクックとしても一本立ちの腕前になれるのであった。
 尚、間接的効果としては、米人家庭の生活程度や生活様式や風俗習慣や彼等の国民性や家庭内に於ける親子関係なども会得することができて、よい社会学的の勉強もできるのだ。
 仕事の内容を述べれば、朝は家のものより一時間位前に起きるので、大体六時には起床して、先ず家の前の道路と階段を掃除する。
 終われば石炭レンジ(炉―大型のストーブ。当時はガス・レンジのある家は殆ど少なかった。)に点火して朝食の支度にかかる。慣れた経験のあるボーイは全部自分で料理して任せきりだが、経験の浅いボーイには主婦が料理してその手伝いをする。
 仕事ができれば、ボーイは食堂のテーブルセット(table set)をして家族にその旨を伝える。呼びリンを鳴らす家もある。
 “Breakfast is ready, sir.”朝食ができました。”Come down to breakfast, sir.”朝食においで下さい。
 一同食卓につくと給仕をして、すんだらテーブルを片付けて、朝の食器等を洗い終われば、後は自由時間で、学校に行くものも、行かないものも大体八時にはすむようにする。学校に行かないものはパートタイムの仕事もできた。
 午後は学校が終わって帰宅する時間が標準で四時半頃に帰って、五時頃から夕食の支度をして朝食と同じ仕事が終われば後は自由時間で外出も許されていた。
 スクールボーイの一番の厄日は土曜日で、この日は学校が休日だから、終日家の掃除をしなければならなかった。普段の日は台所の仕事で、家の者の寝室や客間やその他室内の掃除はしないので、この日ばかりは終日働くことになっていた。また家によっては洗濯もさせられたから、この日に自分のものも洗えるので都合がよかった。アイロンは主婦がした。
 日曜日は、一般の家庭では遅く起きて、朝食をすましてから教会の礼拝に行き、昼食は晩餐として二時頃とるので、スクールボーイの自由時間は普段より少ないが、午後の仕事が早くすむので、その後の自由時間は長かった。
 以上のような生活が所謂School boy’s lifeで私も長年やって辛うじて学業を卒えたのである。


ドル・・・記号は$。漢字では、字形の似た「弗」を宛てる。


 

第12回(日本人学生クラブへ)

2011-11-02 09:07:38 | 日記
11.日本人学生クラブへ移る


 私は翌日教会の本間幹事に挨拶してクラブに移った。このクラブはサンフランシスコにいる邦人の有志者の醵金でできたもので、学業を志す青年のための憩いの場所であった。
 建物は古い木造二階屋であったが、二階に寝室が二間あり、四、五人は宿泊できた。設備は貧弱であったが、失職したりして泊めてもらうには、好適の場所であった。別にクラブを監督する人もいず、泊まっているものが掃除をしたりして、自由勝手に使っていた。
 私が行った時には、藤井さんという人が泊まっていた。クラブの会員は皆働いていたので、訪れる人もなかった。藤井はここに泊まって、今バイオリンの稽古をしていた。アメリカには七、八年にもなるので、呑気に毎日遊んでは、時々バイオリンの練習をしたり、芝居見物などをしていた。芝居や音楽会のティケットやプログラムを沢山集めて集印帖を作っていたのを見せてくれた。クラブの変わり者だとの評判であった。
 食事は相変わらず外出したが、二町ばかり行った所に日本人の家があり、パートタイムをしている者を二、三人下宿させて、食事の賄いをしているので、私も頼んで仲間に入れてもらった。一日の食代は三食四十仙位だった。
 最初にスクールボーイの家を見付けるまでに、五日ばかりクラブにいた。この間は毎日退屈で、する仕事もなく話合う人もいないので困った。それかといって、土地不案内の町をブラブラ歩くわけにもいかず、時間働きの家内仕事はやる気なら、いくらでも周旋屋に行けばあるとは聞いたが、これも新米ではできないのである。
 今ではラジオでもテレビでもあるから、この点は実に便利で進歩した世の中となったものである。
 娯楽のない生活ほど孤独感を深くするものがないと、しみじみ思った。それかといって勉強するのも、こういう環境に置かれると、そういう意欲も起こらないものだ。私は再渡米した時、長い船旅を無為に送るのはつまらないと、本を二冊買い入れて、船中で読みこなしてやろうとやって見たが、遂にできなかった。デッキチェアーに腰掛けて海を眺めるのが落ちだった。
 人間は働く動物だ。「一日作らざれば食わず」と禅宗の古哲が謂ったというが、衣食足りて尚且つしかりだ。況や一日働かざればその日の糧に事欠く自分には死活の問題であった。学問も大切であるが、先決問題は日常の糧を得る道を講じて、しかる後になすべきだと、心はスクールボーイ、スクールボーイと囁いた。