祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第23回(Sunny Villeの農園にて)

2011-11-08 11:08:13 | 日記
22.初めて農園に働く


 カルフォルニア州は、全米で最も有名な農業州であり、殊に果樹の栽培が盛んで、蜜柑の生産額は他州を凌駕してサンキスト.オレンジ(Sunkist Orange)として海外にも輸出せられていた。その他林檎、梨、葡萄、アンズ等は品質の優秀なることを誇っていて、これらを摘み取る初夏には多数の季節労働者を必要としていたのである。従って農園に行けば、いくらでも仕事があった。白人労働者は農夫の仕事を忌避していたので、この労働力の不足は日本人が補っていた現状だった。
 農園の仕事を探すのは、極めて簡単で日本人のボスが泊まっている宿屋へ行けば、沢山のボスが来ていて、募集しているので、引っ張り凧であった。一人でも多く雇い入れなければならないから、直ぐ交渉がまとまった。
 私はなるべくシスコに近い農園を希望したので、サンニー・ビル(Sunny Ville)という田舎の村へ行くことになった。 
 この地方は梨とアンズが有名で、私の働いた農園も主にアンズの摘収であった。終われば梨や桃等を摘んだ。
 日本人のボス(Boss)というのは、園主が雇い入れた日本人労働者の親方で、キャンプの面倒をみたり、食事を作ったり、給料の支払いなどをする監督者で、労務者からコンミッション(commission:手数料)を取って暮らしている親分であった。園主を直接代表して、労務者の仕事振りを監視するものを、フォーマン(foreman:監督)といって、たえず農園を廻って仕事の能率を調べたり、勤怠の状況を監視したりするので、コッソリ仕事をサボルようなことはできなかった。農園における日本人労務者の生活は加州の至る所で、ほぼ一様であったので、記すことにする。
キャンプ(宿舎)は粗末なバラックで、ただ板張りだけの二メートル位に仕切った部屋が沢山できており、床は板敷きで電灯もなく、通り道に二,三ケしかあるだけだから、夜は本も読めないような飯場という憐れな部屋に住んでいたのである。
食事はどこでも簡単な日本料理に米飯で一日の賄料は五十仙で、皆これで我慢していた。これ以外の食品は手に入らないからだ。
勤務時間は朝八時から十七時までで、昼食の時の休時間が一時間だったから、就労時間は正味八時間であった。賃銀は一日一弗五十仙から二弗であったが、請負仕事でプラム(西洋梅)拾いや蜜柑などを摘んだら、時間をかまわず働くので裕に二,三弗にもなった。
日本人労働者は、最初から農園働きの人々が多く、こういう人達は季節を追って転々として各地方に移動して働くので、定着者は殆どなく、こういう人達の間にスクールボーイが混じっているのである。果実の摘み取りには、経験がいらないから新参も古参もないのである。
この園主は二代目で、父親がゴールドラッシュ(Gold rush)時代に東部より先駆者(pioneer)としてカルフォルニアに来て、このサンニー・ビル地方に定着して、果樹の栽培を始めて、大農園主となって今日の大をなしたのであるとの話しであった。
彼がこの地方に定着を始めた頃は、土地所有権が確立していない時代であったから、自由に縄を張って、どの位占有すればよいと、思う存分に土地を手に入れたのだとのことである。
かくして加州は農業国として逐次発展して偉大な発達を遂げたのである。それで日本人でも早く渡米して農業に従事した成功者は各地にいたが、中でもスタックトン(Stockton市)よりサンウオーキング河(San Joakin River)の下流で馬鈴薯の栽培を始めた牛島謹爾は”Potato King”と称せられた。大成功でまたフレスノ地方(Fresno-Kern Countryにある町)には神川というレージン葡萄を作った大成功者がいた。牛島の農園は大学生時代に視察したことがあったから、後で述べることにする。
幸い健康に恵まれて、六、七、八月の約六十日余り農園で労働した結果、相当の蓄えもできたので、洋服や身廻り品を新調することができ、一年そこそこで身なりも良くなった。
しかし、たとえ二,三ヶ月でも、ブランケットを担いで、田舎生活をしていると、世間の事情に疎くなって、地方の出来事は愚か、国内のことも、まして海外の状勢など全く知ることができず、生きている一労働者のスケルトン(skeleton:骸骨)と化してしまうのである。
八月にサンフランシスコに帰った。その時米国大統領のセオドル.ルーズベルト(President Theodore Roosevelt)がポーツマウス軍港(Portsmouth)で日露両国の平和会議の斡旋に乗り出したことを知って、いよいよ平和が克服するのも近いと喜んだ。
 日本の全権は小村寿太郎外相と駐米大使高平小五郎で、ロシヤ全権はウイッテで、もう講和会議が始まっているということだった。
 私ですら、こんな状態だから、百姓で牛馬のように働いていたら、こんな重大な問題でも、自ずと無関心になって、いつかは祖国のことを忘れてしまうのではあるまいか。


第22回(スペイン系米人家庭へ)

2011-11-08 09:04:16 | 日記
21.スペイン系米人家庭に働く


 ユダヤ系の家庭をやめて、今度行った家はガルフ街(Gulf Street)にあった家で、夫人に面接して交渉したときに感づいたのは、夫人は小柄でデップリ肥っていて、髪の毛が黒いので、イタリヤ人か、それともスペイン人ではないかと考えたが、学校も八月下旬でないと入学できないし、六月からは学資を稼ぐために、農園に季節労働者に行く計画をしていたので、一時、足掛けとして働くことにして、六月上旬にはやめさせてもらう条件で住みこんだ。
 主人は医者で下町で開業しており、スペイン系米人としては中流階級に属しているらしく、人柄も上品で、顎ひげをはやした典型的スペイン人の紳士であった。
 家には年頃の娘が二人いて、黒髪の美人だった。私は朝外出して夕方帰っていたので、勤めに出ているかどうかは分からなかった。
 この家の料理は殆どスペイン風で、肉もスチュー煮のものが多く、肉汁をたっぷり作って、それにペパーやケエン胡椒をたっぷりふって仕上げる料理で味は実に旨かった。 
 この外スペイン人はピースや大豆や菜豆等を非常に好んで食べ、中でもチ・チャラスと呼んだ油いための煮豆は毎日欠かさずに食膳にのせていた。またポーク・エンド・ビーンズ(pork and beans)という大豆の煮豆に豚のこま肉を入れて味をつけ、これを天火で蒸し焼した料理は、いつも大きな壷の中に入れられて用意されていた。「ところ変われば品変わる」というが、アメリカに来て純粋のスペイン食を毎日食べられてよかった。
 料理は全部夫人がしてくれたので、私の仕事は石炭炉の火付けや掃除と、薪作りや、家の掃除と炊事の始末だけだので、いわば雑仕事をするボーイであった。
 娘も時々台所に来ては母親の料理の手助けをしていた。親子はスペイン語を話すので、私はいつも、まごついていると、”Carbon”(カルボン)というので、困っていると、それは英語のCoal(石炭)で、cerveza(セルヴェザ)というのはビールで、卵がhuevo(ウェボー)、バターがmantequilla、(マンテキーラ)、コーヒーがcafé、肉がcarne(カーネ)、馬鈴薯がpotata(ポタタ)、ミルクがleche(レッチェ)、ぶどう酒がvivo(ヴィノー)、夕飯がceva(セバ)、スープがsup(サップ)等等、一応料理に使う品物や食品などの言葉を教わって、まごつかなくなった。
 晩の休むときには”Good night”と言わずに”Buenos noches”(ブエノス・ノチェス:お休みなさい)、朝は”Buenos dias”(ブエノス・デイアス:お早よう)、Thanksは(グラシアス・セニョーラ:有難う、奥さん)等とも挨拶できるようになった。
 アメリカの家庭で計らずも、スペイン語を学ぶなどとは想像もしていなかったが、良い勉強になった。赤子が母に抱かれて、日に日に言葉を覚えて、片言をいうようになるのは、つまり私がスペイン語の単語を覚えたように、ナチュラルに入っていく言葉は忘れないものである。語学修得の秘訣がここにあるのだ。
 後年私がハイスクールに入学して学んだ外国語はラテン系のスペイン語であったが、私のスペイン語に対する興味はその時から起きたのである。
 このスペイン人の家庭には小説本が沢山あり、面白そうなものを選んで借りて読んだが、中でも”Ramora”はカルフォルニア地方をエスパニアが統治した時代の物語で感動した。
 主人のドクターも私の勉強好きには感心してくれて、どんな本でも快く読ましてくれたので、楽しく仕事の余暇を過ごすことできて幸せであった。
 時は5月末たまたまクラブを訪れた所、友人連中が、東郷平八郎海軍総督の率いる日本連合艦隊が対馬海峡沖でロジェストウェンスキーのロシア艦隊を全滅して空前の大勝利を博したとの話しを聞いて感激した。以前の元旦に知った旅順口陥落の吉報とともに我々在留邦人が一段と肩身が広くなって、闊歩できるようになった。一同戦勝祝いをしようと、シナ町へ行って上海楼(Shanghai Chop Sues House: シスコ一番の店だった)で南京料理を食べて祝杯をあげた。 
 いよいよ六月上旬この家を辞して、田園労働に赴くことになった。去るに先だって、代人を推薦して私の責任を果たした。家の人々は残念がって、また機会があれば来てくれと別れを惜しんでくれた。