22.初めて農園に働く
カルフォルニア州は、全米で最も有名な農業州であり、殊に果樹の栽培が盛んで、蜜柑の生産額は他州を凌駕してサンキスト.オレンジ(Sunkist Orange)として海外にも輸出せられていた。その他林檎、梨、葡萄、アンズ等は品質の優秀なることを誇っていて、これらを摘み取る初夏には多数の季節労働者を必要としていたのである。従って農園に行けば、いくらでも仕事があった。白人労働者は農夫の仕事を忌避していたので、この労働力の不足は日本人が補っていた現状だった。
農園の仕事を探すのは、極めて簡単で日本人のボスが泊まっている宿屋へ行けば、沢山のボスが来ていて、募集しているので、引っ張り凧であった。一人でも多く雇い入れなければならないから、直ぐ交渉がまとまった。
私はなるべくシスコに近い農園を希望したので、サンニー・ビル(Sunny Ville)という田舎の村へ行くことになった。
この地方は梨とアンズが有名で、私の働いた農園も主にアンズの摘収であった。終われば梨や桃等を摘んだ。
日本人のボス(Boss)というのは、園主が雇い入れた日本人労働者の親方で、キャンプの面倒をみたり、食事を作ったり、給料の支払いなどをする監督者で、労務者からコンミッション(commission:手数料)を取って暮らしている親分であった。園主を直接代表して、労務者の仕事振りを監視するものを、フォーマン(foreman:監督)といって、たえず農園を廻って仕事の能率を調べたり、勤怠の状況を監視したりするので、コッソリ仕事をサボルようなことはできなかった。農園における日本人労務者の生活は加州の至る所で、ほぼ一様であったので、記すことにする。
キャンプ(宿舎)は粗末なバラックで、ただ板張りだけの二メートル位に仕切った部屋が沢山できており、床は板敷きで電灯もなく、通り道に二,三ケしかあるだけだから、夜は本も読めないような飯場という憐れな部屋に住んでいたのである。
食事はどこでも簡単な日本料理に米飯で一日の賄料は五十仙で、皆これで我慢していた。これ以外の食品は手に入らないからだ。
勤務時間は朝八時から十七時までで、昼食の時の休時間が一時間だったから、就労時間は正味八時間であった。賃銀は一日一弗五十仙から二弗であったが、請負仕事でプラム(西洋梅)拾いや蜜柑などを摘んだら、時間をかまわず働くので裕に二,三弗にもなった。
日本人労働者は、最初から農園働きの人々が多く、こういう人達は季節を追って転々として各地方に移動して働くので、定着者は殆どなく、こういう人達の間にスクールボーイが混じっているのである。果実の摘み取りには、経験がいらないから新参も古参もないのである。
この園主は二代目で、父親がゴールドラッシュ(Gold rush)時代に東部より先駆者(pioneer)としてカルフォルニアに来て、このサンニー・ビル地方に定着して、果樹の栽培を始めて、大農園主となって今日の大をなしたのであるとの話しであった。
彼がこの地方に定着を始めた頃は、土地所有権が確立していない時代であったから、自由に縄を張って、どの位占有すればよいと、思う存分に土地を手に入れたのだとのことである。
かくして加州は農業国として逐次発展して偉大な発達を遂げたのである。それで日本人でも早く渡米して農業に従事した成功者は各地にいたが、中でもスタックトン(Stockton市)よりサンウオーキング河(San Joakin River)の下流で馬鈴薯の栽培を始めた牛島謹爾は”Potato King”と称せられた。大成功でまたフレスノ地方(Fresno-Kern Countryにある町)には神川というレージン葡萄を作った大成功者がいた。牛島の農園は大学生時代に視察したことがあったから、後で述べることにする。
幸い健康に恵まれて、六、七、八月の約六十日余り農園で労働した結果、相当の蓄えもできたので、洋服や身廻り品を新調することができ、一年そこそこで身なりも良くなった。
しかし、たとえ二,三ヶ月でも、ブランケットを担いで、田舎生活をしていると、世間の事情に疎くなって、地方の出来事は愚か、国内のことも、まして海外の状勢など全く知ることができず、生きている一労働者のスケルトン(skeleton:骸骨)と化してしまうのである。
八月にサンフランシスコに帰った。その時米国大統領のセオドル.ルーズベルト(President Theodore Roosevelt)がポーツマウス軍港(Portsmouth)で日露両国の平和会議の斡旋に乗り出したことを知って、いよいよ平和が克服するのも近いと喜んだ。
日本の全権は小村寿太郎外相と駐米大使高平小五郎で、ロシヤ全権はウイッテで、もう講和会議が始まっているということだった。
私ですら、こんな状態だから、百姓で牛馬のように働いていたら、こんな重大な問題でも、自ずと無関心になって、いつかは祖国のことを忘れてしまうのではあるまいか。
カルフォルニア州は、全米で最も有名な農業州であり、殊に果樹の栽培が盛んで、蜜柑の生産額は他州を凌駕してサンキスト.オレンジ(Sunkist Orange)として海外にも輸出せられていた。その他林檎、梨、葡萄、アンズ等は品質の優秀なることを誇っていて、これらを摘み取る初夏には多数の季節労働者を必要としていたのである。従って農園に行けば、いくらでも仕事があった。白人労働者は農夫の仕事を忌避していたので、この労働力の不足は日本人が補っていた現状だった。
農園の仕事を探すのは、極めて簡単で日本人のボスが泊まっている宿屋へ行けば、沢山のボスが来ていて、募集しているので、引っ張り凧であった。一人でも多く雇い入れなければならないから、直ぐ交渉がまとまった。
私はなるべくシスコに近い農園を希望したので、サンニー・ビル(Sunny Ville)という田舎の村へ行くことになった。
この地方は梨とアンズが有名で、私の働いた農園も主にアンズの摘収であった。終われば梨や桃等を摘んだ。
日本人のボス(Boss)というのは、園主が雇い入れた日本人労働者の親方で、キャンプの面倒をみたり、食事を作ったり、給料の支払いなどをする監督者で、労務者からコンミッション(commission:手数料)を取って暮らしている親分であった。園主を直接代表して、労務者の仕事振りを監視するものを、フォーマン(foreman:監督)といって、たえず農園を廻って仕事の能率を調べたり、勤怠の状況を監視したりするので、コッソリ仕事をサボルようなことはできなかった。農園における日本人労務者の生活は加州の至る所で、ほぼ一様であったので、記すことにする。
キャンプ(宿舎)は粗末なバラックで、ただ板張りだけの二メートル位に仕切った部屋が沢山できており、床は板敷きで電灯もなく、通り道に二,三ケしかあるだけだから、夜は本も読めないような飯場という憐れな部屋に住んでいたのである。
食事はどこでも簡単な日本料理に米飯で一日の賄料は五十仙で、皆これで我慢していた。これ以外の食品は手に入らないからだ。
勤務時間は朝八時から十七時までで、昼食の時の休時間が一時間だったから、就労時間は正味八時間であった。賃銀は一日一弗五十仙から二弗であったが、請負仕事でプラム(西洋梅)拾いや蜜柑などを摘んだら、時間をかまわず働くので裕に二,三弗にもなった。
日本人労働者は、最初から農園働きの人々が多く、こういう人達は季節を追って転々として各地方に移動して働くので、定着者は殆どなく、こういう人達の間にスクールボーイが混じっているのである。果実の摘み取りには、経験がいらないから新参も古参もないのである。
この園主は二代目で、父親がゴールドラッシュ(Gold rush)時代に東部より先駆者(pioneer)としてカルフォルニアに来て、このサンニー・ビル地方に定着して、果樹の栽培を始めて、大農園主となって今日の大をなしたのであるとの話しであった。
彼がこの地方に定着を始めた頃は、土地所有権が確立していない時代であったから、自由に縄を張って、どの位占有すればよいと、思う存分に土地を手に入れたのだとのことである。
かくして加州は農業国として逐次発展して偉大な発達を遂げたのである。それで日本人でも早く渡米して農業に従事した成功者は各地にいたが、中でもスタックトン(Stockton市)よりサンウオーキング河(San Joakin River)の下流で馬鈴薯の栽培を始めた牛島謹爾は”Potato King”と称せられた。大成功でまたフレスノ地方(Fresno-Kern Countryにある町)には神川というレージン葡萄を作った大成功者がいた。牛島の農園は大学生時代に視察したことがあったから、後で述べることにする。
幸い健康に恵まれて、六、七、八月の約六十日余り農園で労働した結果、相当の蓄えもできたので、洋服や身廻り品を新調することができ、一年そこそこで身なりも良くなった。
しかし、たとえ二,三ヶ月でも、ブランケットを担いで、田舎生活をしていると、世間の事情に疎くなって、地方の出来事は愚か、国内のことも、まして海外の状勢など全く知ることができず、生きている一労働者のスケルトン(skeleton:骸骨)と化してしまうのである。
八月にサンフランシスコに帰った。その時米国大統領のセオドル.ルーズベルト(President Theodore Roosevelt)がポーツマウス軍港(Portsmouth)で日露両国の平和会議の斡旋に乗り出したことを知って、いよいよ平和が克服するのも近いと喜んだ。
日本の全権は小村寿太郎外相と駐米大使高平小五郎で、ロシヤ全権はウイッテで、もう講和会議が始まっているということだった。
私ですら、こんな状態だから、百姓で牛馬のように働いていたら、こんな重大な問題でも、自ずと無関心になって、いつかは祖国のことを忘れてしまうのではあるまいか。