祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第37回(1911年:第四学年時代)

2011-11-22 08:11:21 | 日記
36.1911年:第四学年時代


 1911年(明治44年)私のハイスクールの学生生活もいよいよ最終学年を迎えた。
これが最後の仕上げで、成績の上でも有終の実を挙げなければならんと頑張った。
 教科は、

1.English Literature 
Cooper先生:ShakespeareのAs you like it. Romeo and Juliet.
Sullivan先生:MiltonのParadise Lost and Regained.
2.Spanish 
Avery先生:UmphreyのSpanish Prose and Composition、GaldosのMarianela等
3.History
McCoy先生:Civics(公民学)
4.Economics 
Oliver先生:Principle of Economics.
Jhonston先生:Industrial History 
5.Electives(選択科目) 
 等々で単元36ユニット

 暑中休暇の利用も最後であるから、今度は田園に労働して見たいと考えていたところ、友人のS本義孝君がエルモデナ(ロスから五十分位電車で、徒歩一時間かかる田舎村)へ行くから、君も一緒に行かんかと勧められたので、行くことにした。
 エルモデナに行く沿道の畑にはクルミ(Walnut)の大木が栽培せられていて驚いた。
私の郷里でもクルミを生産しているが、こんなに大規模に栽培しているのは、初めて見たのである。
 私達は炎天に晒されて、埃っぽい道を一時間も歩いてやっと日本人のキャンプに着いた。ここでは蜜柑の摘み取りをした。この時の思い出を、中外商業学校で教鞭を取っていた時、同校の校友会雑誌に寄稿したものがあるから再録しておく。これによって農園の一端を窺がうことが出来るであろう。


「在米の思い出

 思い起こせば、私が天涯の孤客として、アメリカのハイスクール時代の暑中休暇のことでした。夏休みの二ヶ月間を利用して、学資の一端を稼ぎに学友のY君と一緒に南加州ロス・アンゼルスから約十数哩の地にある、サンタアナの田舎に農園労働に行ったことがありました。Y君は、上海同文書院の出身で、異郷稀に見る人格者で、敬虔なクリスチャンで私の常に欽慕した一畏友でした。
私らの行った農園は、蜜柑畑であって、何百英町と続く広々としたプランテーションで、日本人労働者も三,四十名程働いていました。
この中に風変わりな学生労働者が雑じって夏蜜柑のバレンシアを摘んだのでした。
暁に露を踏んで、緑葉滴る樹間に、黄金成すオレンジを摘んだ時の愉快さ、夕日西に傾く時、仕事を終えて疲れたる足をキャンプに引く時の労働の尊さは今尚忘れんとして忘るる事の出来ない在米の思い出の一つです。
終日汗に塗れて働く労働者にとって、最も嬉しきことは一週一度の日曜日であって、この日こそは、如何に仕事が忙しくても休日です。騒々しいキャンプもこの日ばかりはヒッソリ閑として、皆揃って朝寝をする。一週の疲れを一日に慰む真の安息日でした。十時ごろからぼつぼつ食堂に集まる。食事が済むと、皆テーブルを囲んで色々の娯楽が始まる。時には風論談発大いに議論に花が咲き、全く異郷の空を忘れるのでした。
Y君は文学に趣味を有し、キャンプの人々が雑談に耽っている際にも、独り戸外に出て畑の側に積み重ねられた塀の上に座って詩の国に心行くまで憧れるのでした。彼が好んで口ずさんだ詩はバーンズの”The Cotter’s Saturday Night”で、私も彼に和して歌ったそのリズムが今尚耳に響いています。
永いと思った休暇も何時しか過ぎて、後一,二週となりました。いよいよ最後の日曜日の夕方、Y君は私を誘って村の教会に出掛けました。
村人に道を尋ねて、約二哩余り行きますと、三,四十家の村落があって、その中に教会堂のスピヤーが星空を浴びて微かに聳えているのが見え出しました。辿りついた時には、もうサービスが始まっていましたから私共は恐る恐る遠慮して後方の空席に静かに腰を下ろしました。
私等の入って来たのに感づいた村の善男善女は一様に異様の感に打たれた面持ちで、この二人の若者の上に瞳を注ぎました。
やがてコワイヤーが済み、牧師がチャペルに立って黙祷を捧げて、いよいよ説教が始まった。牧師の声は朗らかに教会の隅々までも響き出しました。神の栄光を賛美するアーメンの声は各所に起こりました。
牧師の説教が進むにつれて、私共も感動させられ遂に私の如き信者ならざる異端者までも感涙の下るのを禁じ得なかったのでした。それに牧師の神々しい態度と人種を全く超越した人類愛とに燃えた彼の人格の弧線に触れる事を得たからでありました。 
『私は十数年来この村の教会を主宰して、朝夕神に祈りを捧げて来たが、今宵ほど感激の念に充たされた、真に神の栄光を賛美した事はない。この村には常に数十名の日本人を見受けるが、吾等と共にこの教会堂に集まって、共に神の御名を讃へたる事はなかった。今宵は遠き日本の愛する青年を迎えて茲に吾等と共に一夜を歓喜の中に過ごす機会を神より下し給わった事を感謝します。』
言々句々述べるに伴われて教会の雰囲気はその絶頂に達し、牧師の両眼は愛の涙で曇っていました。
嗚呼永らく異郷の空で全く米人から日頃排斥せられ虐げられ、日陰者扱いにされて来たのであるから、その感激は到底今日では筆紙のよくする処ではありません。
思うに宗教に国境なく、人種なく、一視同人でありません。吾等人間社会においても最も尊ぶべきはこの愛の精神であります。約言すれば敬天愛人の精神であります。
吾等が天地宇宙に直面して人間社会に踏み行くべき道を探求する時には実にこの敬天愛人の四字の外には何にものもなき事を発見しました。
私は当時学資の一端を稼がんが為に、農園で労働して多少の黄金は掴み得ました。労働の尊さも体験しました。しかしこの黄金律にも優りて更に更に尊きは人格の輝き、愛の精神である事を体得ししました。
私は過去を追想してはたまた感慨無量に堪えず、Y君並びに無名の一寒村牧師の上に神の御恵豊かならん事を祈って止みません。
              完」


私は八月中旬に農園の仕事をやめて、S本君と共にロス市に帰った。労働のお蔭で卒業の際は、せめて洋服なりとも新調して晴れの卒業式に望みたかった希望もかなえられた。洋服は浦田毛佐太郎という長野県人会長をしていた洋服店に注文して作ってもらったが、浦田さんにはロス市で並々ならぬ御世話になった。浦田夫人は、私の卒業の祝品として、金の名前入りのカフスボタンを送ってくれたが、このカフスボタンはよい記念物として、帰国後も長く愛用して、夫人の親切の心をいつまでも感謝した。
農園の労働は蜜柑の摘み取りで仕事も楽であった。これがロス市での最後のアルバイトであった。再びダン家に戻っていよいよ四年最後の学期を迎えた。
幸い健康に恵まれて、学業の方もダン家の御蔭で安心して継続出来た。
十二月上旬に期末考査があって、全部パッスした。これで私は学校が所定していた四年間の単元総計最低135ユニット以上で卒業することが出来た。その上カリフォルニア大学が文理科若しくは社会科大学へ入学するに要する所定学科の科目45単元を全部B以上でパッスして、ハウシ校長並びに副校長ドーシー夫人の連名で、無試験入学の資格を与えられて、長年の苦心が酬いられた。


第36回(1910年:第三学年生時代)

2011-11-22 08:07:40 | 日記
35.1910年:第三学年生時代



 私はもうアメリカに来て、第六回の新年を迎えて、満二十三歳になった。月日のたつのは早いものだ。幸い今まで健康に恵まれて、前途の光明も輝き出した。希望の彼岸も段々近づいて来ている。私もハイスクールのJunior Course(下級コース)は全部修得して、今度からはSenior Course(上級コース)に進むのであるから一層の努力がいる時となった。
 ジュニアコースの学科も前述したので、三学年のコースも思い出のままに書いておく。


1.English Literature 
Sullivan先生:Contemporary Poems、ElliotのRomola
Jones先生: ShakespeareのMacbeth 
2.Spanish 
Avery先生:文法書~作文:Ford のA Spanish Grammar 、Doce Cuentos Escodigos (十二の有名物語)
3.History
Galpin先生 Myers Modern History
4.Mathematics  
Oliva先生 Solid Geometry 
5.Physics and Biology 
Head先生 
6.American History 


以上に選択科目で単元三十六ユニット
この期間は何事もなく坦々として進学した。暑中休暇の二ヶ月余りはクックとして金融業者のネルソン(Nelson)の家庭で送って、またダン家に帰った。学校は全部スムースで全科目Bでパッスして、いよいよ最終学年の四学年に進級した。クリスマスも新年もダン家で迎えた。尚書き忘れたが、私の学校には修学旅行も遠足も秋季大運動会などはなかった。