それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第31号(88年11月5日発行)「日本の禁忌と死刑」

2017-01-24 15:10:51 | 会報『沈黙の声』(その3)

永山則夫支援者だった武田和夫さんが永山さんから追放された後、武田和夫さんが「風人社」という死刑廃止団体を立ち上げ、『沈黙の声』という会報を発行してました。その内容を載せます。

…今思ったんだけど『沈黙の声』…「沈黙の艦隊」っていう漫画を思い出した…


 

『沈黙の声』第31号(88年11月5日発行)

「日本の禁忌と死刑」

″異常気象”に呼応するかのように、「Xデー状況」が列島を吹きすさんでいる。 政府・マスコミに先導された「自粛」さわぎは。主導者の予期以上に全国津々浦々に広がり、日本の国民がその内面に如何に大きな「タブー」をかかえているかを、短期間のうちにあらわに示してくれた。 

「タブー」=禁忌とは、ある社会共同体で、成員が日常的活動から特定の事物。・行為を排除することで共同性を維持するという、社会成立の原初的在り方である。禁制の対象は「神聖」なるものとその対極の「不浄」なるもの。国家共同体の成立につれてタブーが「法」にとって代わられて以降も、それは支配内部でくり返し再生産されていく。その再生産度の強い国家社会ほど、国民の精神的自由度が低く、差別排外意識は強烈なものとなる。 

「タブー」が一挙に顕在化したこのかんの天皇現象の中で、天皇とは切っても切れない「戦争責任」の問題も改めて噴出した。土砂降りの雨の中で皇居に土下座する国民の姿は、四三年前の敗戦時を思わせ、「無反省な日本人」との印象を諸外国に与えた。

「反省」とは自立した自由な精神においてはじめて真に可能となるものである。

「天皇を中心とする同心円的無責任の体系」とは、「無責任」以前の「責任無自覚」の体系に他ならなかった。自らの戦争責任を自覚した主体にしてはじめて、その体系の中心たる天皇の戦争責任をも十全に追及しうるのだが、責任無自覚の国民と責任無能力の天皇とは隷属と寄生の相互関係の中で、「平和」ムードに埋没して戦後をなれ合ってきた。「象徴」―それは人格的には「無」たる存在である。同心円の中心にあって、全てを吸収し無化する絶対的「無」。

―どのように茶化そうと、椰揄しようと、「無」は「無」として生き続ける。(「もう死んでるんじゃないか」と電車の中で一般市民が語り合う状況こそ。象徴的”である)それを真に「無化」しかえすには、われわれ自身が、われわれの生の全ゆる局面に生起する、人間として真に生きるための闘いをつうじて、自己をとり戻していく事が不可欠である。 

「Xデー状況」は死刑との闘いに「恩赦」というひとつの問題をつきつけた。まず10月15日、死刑控訴中の北海道の二被告が控訴を取り下げたあと、22日には東京の死刑上告被告が上告を取り下げ、「恩赦期待?」との報道がなされた。 

死刑囚に対する恩赦(無期への減刑)は戦後で総計25人前後といわれており(処刑者総数は87年迄に五八一名)、憲法発布('46)、対日平和条約発効('47)など国家的事件に際しある基準を満たせば一律に適用される政令恩赦(戦後8回)による減刑はそのうち約半数(残りは個々に申請する個別恩赦)という。恩赦自体は、それがかってどのようなものであろうと、法的にも実体的にも今や死刑囚にとっての生きるための権利に他ならない。

然し現在の審理を中止して自ら刑を早める取下げを行なうのは、慎重にというしかない。そして問題は、将来の可能性がどうかというようなことではなく、死刑囚の仲間の真に生きるための闘いとは何か、という根本のところでたてられねばならないだろう。それが踏まえられた仲間に動揺はない。そして、現実をよくみれば、まさにその様にして「Xデー状況」は、仲間を屈服させてその処刑を早める、というひとつの「死刑攻撃」にほかならないのである。

 諸外国では「ヒトラー、ムソリーニと並ぶ戦争犯罪人」という見方が当然の「天皇」の前に、ひれふし自粛する日本人。―その人間観の違いは当然人権感覚一般における日本と諸外国との極端な落差となってあらわれる。

今年7月、ジュネーブで開かれた国連人権専門委で「〝発展途上″」と評された、日本における人権保障は、代用監獄制度、差別、民族差別など各領域で各国の批判の〝嵐〟にさらされ、死刑問題においても、昨今の「死刑ラッシュ」は、日本政府がその時期以前の85年までの統計を示して「死刑の運用は厳格かつ慎重」と虚偽の報告を行なった事も相まって、つるし上げに近い追及がなされたという。

(この報告集会は11月26日(土)6時より飯田橋セントラルプラザ12F2号室で、政府報告への反論レポー卜を収約提出した社会党政策審議会より関係者を招いて行なわれます。死刑廃止の会・麦の会共催)

″外交面でI〇~二〇年では消えない失点を残した″(朝日ジャーナル9月16日号28ページというその結果を予測すら出来ない日本政府代表の感覚こそは、「天皇制」に育まれ、「天皇制」を支えてきた日本的「責任無能力」の反映であろう。

「Xデー状況」とは、日本人の日常に潜在していたものが一挙に顕在化した状況である。顕在化することによってそれは新たに再編され、強化されていくだろう。そしてそれは、日常的な全ゆる領域-教育の場で、地域で、労働過程で人々を分断し疎外する差別・選別の現実に対応しているのである。それらの諸関係総ての収約点として、わが国の死刑制度は存在している。〈究極の差別〉であるそれは、天皇国家日本を根底で支える「夕ブー」の体系の、もう一方の極に巣食った人間抹殺の制度なのだ。

(抜粋以上) 

 

 



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