9月17日にニューヨークから時津の我が家に来た留学生のサムは、
こんなにかわいいおみやげをせっせと買ってきています。
12月23日final-dayまで、残り一ヶ月を切りました。
21日クリスマスはfinal-partyを行います。
ブログ来訪の皆様も来てくださいネ!
飛び込みも大歓迎ですから( ◔ิω◔ิ) でも、いなくなると、(>ω<)さみしぃナ
9月17日にニューヨークから時津の我が家に来た留学生のサムは、
こんなにかわいいおみやげをせっせと買ってきています。
12月23日final-dayまで、残り一ヶ月を切りました。
21日クリスマスはfinal-partyを行います。
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飛び込みも大歓迎ですから( ◔ิω◔ิ) でも、いなくなると、(>ω<)さみしぃナ
クリスマスがやってくる☆.。.:*・
welcome めぐみ教会のクリスマスへ☆.。.:*・
13日(土)15:00 クリスマスガーデンサービス(Kids)
14日(日)10:30 クリスマスさんび礼拝 ゲスト/福永実枝先生(キリスト兄弟団福岡教会)
21日(日)10:30 クリスマス礼拝&留学生送別Party
24日(水)19:30キャンドルサービス
ーヨハネ福音諸に学ぶー 6章42~71節
題「命のパン」
私たちは日々の食物によって、その日その日の生きる力を頂きます。
しかし、私たちが食べる食物はその時々で尽きてなくなってしまい、肉の命そのものがやがて枯れて尽き果ててしまいます。
キリストは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27)と、仰れました。
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6章のはじめで、5つのパンと2匹の魚で5千人もの人たちの給食の奇跡を見た人たちは、
ガリラヤ湖の向こう岸までも、キリストについてゆきました。
彼らは更なる奇跡を期待していたからです。
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そのような中でイエス・キリストは、
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35)と言われました。
その答えは、はるばるガリラヤ湖を渡ってまでキリストについて来た人を失望させ、
奇跡を期待していた人たちは大いに躓き、つぶやき、
イエス・キリストに対して、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、
互いに激しく議論し始めた(52)と、ヨハネは書いています。
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彼らには、目に見える世界のことだけしか考えが及びませんでした。
毎日の生活の糧だけが彼らの注目の的でした。
見えない世界、霊の世界について彼らは目が開かれていませんでした。
ヨハネ1章では、この世界が神のことばでできたこと。
イエス・キリストは生ける神のことばとしてこの世に来た救い主であることが明記されています。
モーセはそのことを創世記の1章の天地創造のはじめの記事として書いていま。
しかも、そのモーセの書いた書こそが彼らの中心的な生活の信条でしたが、
ユダヤの人々は荒野でマナを食べたこと以上に生ける神のことばの重大さを理解しません。
イエス・キリストは荒野に於ける悪魔の試みの中でも、
「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでるひとつひとつの言葉によって生きる」
と、申命記のことばを引用しています。
神が指し示す信仰のあり方とユダヤ人の人たちの抱いていた信仰のあり方は大きく違っていたのです。
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その人たちに向かってキリストは、
マナを食べた先祖の人たちは死んでしまった(58)ように、たとえば奇跡的に肉の食べ物がどんなに沢山与えられたとしても、
それらはやがて朽ちてゆくものでしかない。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる」(54)と、
聖餐式の真意をさし示します。
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十字架前夜、キリストはご自身がやがて受くべき十字架を指し示し、パン裂きの儀式を行いました。
裂かれたパンは、やがて、ご自身が全人類の罪の身代わりに掛かられるご自分のお体を意味していること、
葡萄汁は、十字架の上で流すキリストご自身の血を意味していることを教えて、
後々、このパン裂きの儀式である聖餐式を記念として行うことをお弟子たちに伝えています。
ヨハネは第一の手紙1章9節で、
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
と明記していますが、自分の罪を認める人に対してイエス・キリストの十字架上での死と、蘇りは現実に力を表し、
「御子イエスの血はすべての罪からわたしたちをきよめます」(7)。
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”よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである」(47,48)
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かつて、「十字架をむさぼれ」ということばを残された聖徒がいましたが、
そのぐらい、十字架は真に人を生かす命の源なる食べ物であることを、
深く味わってくださいますように!
ヨハネに学ぶ⑮「朽ちる食物のためではなく」ヨハネ6:22-40
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「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い」(27節)
と言われた主イエスのおことばの真意は、
「朽ちる食物のため」の「朽ちる」は、「滅びる」「失う」とも訳せることばです。
イエス様はここで単に、やがて腐って無くなってしまうような食べ物を指して言っわれたのではなく、
やがてむなしく失われてゆく人生のことをも示されて言われたのでした。
また、「永遠の命に至る朽ちない食物」とは、「いつまでも無くならないで、永遠の命に至る食物」
のことですが、このことばはまた「永遠の命に留まり(つながり)続ける食べ物」とも訳されます。
この「留まる(つながる)」ということばは、ヨハネ15章のぶどうの木のたとえ話でも使われています。
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15章5節で主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(新共同訳)
と、仰られました。
幹に接ぎ木された枝は、そこに留まり(つながり)続けるだけで、
幹から樹液が流れてきて実を結ぶように、
わたしたちも、幹であるイエス様につながっているだけでイエス・キリストから新しい命が流れ込み、
永遠に至る神の命によって生きる者とされますネ、
ですから、「永遠の命に至る食べ物」とは、キリストにつながり続けていることによって、
キリストのもとから流れてくる、キリストの樹液とも言える「聖霊」を指していることに気がつきます。
▼
主イエスは、「なくてならぬものは多くはない、いや、ただ一つ」であると言われました。
肉体を生かす食べ物を得る為にだけ働く(生きる)のでなく、
命の根源である、霊の糧のために働く者にされることこそが、人生で最も大切であると、
パンの奇跡を見て、キリストについて来ている人たちに向かって
更に良きものを示されたのでした。