長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

行ってきました、パンダ館

2014-07-19 10:30:55 | 旅行

Der friends

申し訳ございません、

今週は礼拝メッセージアップが遅れています。

 

14日から18日 少し早めの夏期休暇を頂いて、

かわいいパンダに会ってきました(´・ω・`)

これが証拠の写真です。

 

かわいいジャイアントパンダの子どもたちლ(╹◡╹ლ)

野外で、お母さんとじゃれあうレッドパンダ( ◠‿◠ )☝

と、これは、渡航前日我が家で孵化するアブラゼミでした!

一日遅れで無事帰国しました。

お祈りに感謝しつつ。

 

 


7月3日(日)礼拝説教「最初の奇跡」

2014-07-08 16:48:35 | 説教メモ

- ヨハネ福音書に学ぶ ③ - 2章1-12節

   題「最初の奇跡」

荒野でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたイエス様は、

断食をされ、ガリラヤのカナで結婚式に出席されました。

「イエスも弟子たちも招かれていた」(2)

と、いうところからこの結婚式は、恐らく親戚筋の婚礼だろうというのが、大方の見方です。

イエス様は、この婚礼の席上最初の奇跡をされました(11節)。

ここでは「奇跡」と書かず、「最初のしるし」と書かれていますが、

この「最初のしるし」が神殿や祭壇の前でなく、

結婚式というごく一般的な家庭生活上のセレモニーの場で行われたことは、

神様はいかに家庭生活(日常生活)を重んじておられるかということを

暗に示しています。創世記もアダム、エバ夫妻の人類第一号家庭から始まっていることもしかりです。

この婚礼の食事関連はイエスの母マリヤに任されていました。

披露宴の中でぶどう酒がなくなり、困ったマリヤはそれをイエスに告げ、奇跡は起こったのです。

この出来事から、私たちは「信仰の法則」を学ぶ事ができます。

その第一は「危機的な状況」に遭遇する、ということです。

ユダヤに於いて、婚礼のぶどう酒は新生活の祝福を意味していました。

「ぶどう酒がなくなる」ということほどマズイ披露宴はなかったのです。

私たちの日常生活においても、「喜び」というぶどう酒が尽きることがあります。

仕事や人間関係、家族の中で、成り行き上途方に暮れることがあります。

その様な時に遭遇する時、その時がまさに「ぶどう酒」が尽きた危機的な状況に遭遇する、

という、信仰の法則の第一段階に突入したのです。

続いて、信仰の法則」第二は、それを「イエスに告げる」ことです。

すなわちそれは、「祈り」です。

母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました。」(3)

祈りは学校のチャペルや教会の礼拝の中だけでするものではありません。

道を歩きながら、バスに乗っていても、試験中でも、どこででもできます。

「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」

マタイ福音書6:5-8(参照)とも書かれています。

さらに、

「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたの必要なものはご存知なのである」(マタイ6:8)

とも聖書には書かれています。

 第三は、「神の時を待つ」ことです。

母マリヤの必要に対してイエス様は、「わたしの時は、まだきていません」(4)と、おっしゃられました。

私たちは自分の願いがすぐに叶えられることには関心がありますが、

「神の必要」、「神の時」ということに対しては非常に無頓着です。

しかしマリヤはここで、一見拒否とも思えるイエスのことばの中に「神の時」到来への信仰を抱きました。

「この方があなた方に言いつけることは、なんでもして下さい。」(5)と僕たちに伝えます。

詩篇31:14-15でダビデはも言っています。

しかし、主よ。私は、あなたに信頼して、言います。私は告白します。「あなたはわたしの神である」と。私の時は、御手にあります 。”

と。

「信仰の法則」その第四は、「主のことばに従う」ことです。

僕たちは、マリアに言われた通りに主イエスのことばに従いました。

「かめに水をいっぱいいれなさい」(7)と言われた主のおことばに、

僕たちはつぶやくことなく純真に水を汲みました。

(80リットルから120リットル入りの石の水がめが6つですからかなりの量です)

その水がめは、「ユダヤ人のきよめのならわし」(6)に使う水を入れるための水がめでした。

マタイ5:17で主イエスは、

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。

廃するためではなく、成就するためにきたのである。」おっしゃられましたが、

「きよめの水を満たす」ということは、「律法を成就する」ことを暗に示唆しています。

私たちもまた、祈ってそれで終わるのでなく、

「律法を成就する」即ち、「実際的に行う」のです。

一つ一つ示される主のお言葉に従って行う、その先方に祈りの答えはまっています。

言葉だけで何もしないのは、「何もない」という祈りの答えを刈り取っているのに等しいのです。

「信仰の法則」第五は、従うのは「今」です。

8節「さあ、くんで料理がしらのところに持って行きなさい」(口語訳)は、

新改訳聖書では、「さあ、今くみなさい。」と、「今」を挿入。

僕たちがイエス様に言われるまま、その水を汲んで料理頭のところに持って行ったところ、

水は上等なぶどう酒に変えられていました。

奇跡がおこったのです。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された」(11)のでした。

私たちの人生にも奇跡は起こります。

何もかも尽き果てた状態の中にあっても、

現状をイエス様にお告げし、信仰によって大胆に主のみ言葉に従ってゆく時、

空っぽの心に新しい喜びの天からのワインがれ、

悲しみが喜びに、憎しみは愛に、憤りはやさしさに変えられてゆきます。

その時、料理がしらは花婿を褒めて言います。

「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころわるいのを出すものだ。

それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」(10)と。

そうです、この世のぶどう酒は初めは素晴らしいもののようにに思われるかもしれません。

しかし、その終宴は失望と虚しさだけ。

けれども、神は、後になればなるほど、良いもので満たしてくださるのです。

「そして弟子たちはイエスを信じた」(11)

あなたの人生の上に、主の栄光が現されますように!