長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

問題は神の御手に!

2016-04-30 10:45:00 | 聖書日課
2016年430日(土)

聖書日課「ロイドジョンス一日一言」から


神にゆだねる

私の目はいつも主に向かう
(詩篇25・15)


ひとたびある問題を神のもとに持って行ったなら、
そのことで気を揉むのはやめるべきである。
問題には背を向けて、
一心に神を見つめるべきである。

私たちは、あることで困惑していた。
様々なことを試みたが、満足もなく、なすべきこともはっきりと分からなかった。
…聖霊の導きを求めたにもかかわらず解決に達さなかったならば、
それ以上のなすべきことは、
祈りをもってそれを神のもとに持って行くことしかない。
しかし、あまりにもしばしば、祈りから立ち上がった瞬間に、
私たちは再びその問題の心配を始めるのである。


さて、そのようなことをするくらいなら、初めから祈らない方がましである。
あなたの問題を神のもとに持っていくとしたら、
それを神にゆだねるがいい。
あなたに、それ以上そのことについて考える権利はない。

…その問題は神にゆだねて、
見張りのやぐらに向かうがいい。
(ハバクク2・1)

…私たちは、意識的にそこなら抜け出して、
いわば、そこから自分を引き抜かなくてはならない。

…それから、神を仰ぎ見る位置に着くことである。
ーその問題を見るのではなく。

…かみを仰ぎ見るとは、問題を自分で扱わず、他の人々にも相談せず、
むしろ、全く神により頼んで、ただ神を「待つ」ことを意味する。…


それが、霊的平安の真の基礎である。
それこそ、まさにパウロがピリピ書で。
「何事も思い煩わないで」、
と述べた意味である(ピリピ4・6,7)。

…決してそうした不安な思い煩いをいだいてはならない。
それは単に霊的に大きな害を与えるだけでなく、
肉体的な衰弱をももたらす。

決して思い煩わずに、
「あらゆる場合に」ーこれはすべてを含んでいるー
「感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知って頂きなさい」。
…あなたの見張り所のやぐらに上り、
ひたすら神を仰ぎ見続けるがいい。

他の何も眺めてはならない。
とりわけ決してあなたの問題を眺めてはならない

ひつじかい日記

2016-04-27 13:31:09 | ひつじかい日記(2)
ひつじかい日記


2016年4月22日(金)

今年第一回目のK家集会。
庭先にドイツラベンダーが咲いている。
毎年、食べきれないほどの実をならせるレモンの木も健在である。
90過ぎのE姉のお顔が輝いている。
メッセージは、17日礼拝と同じ「祈りについて」。

帰路、
「九州キリスト災害支援センター長崎地区」開設のための集いに出席。
数分遅れで、長崎バプテスト教会着。
大変インターナショナルな教会。
牧師は韓国から来られたT先生。
かつては、あのリックウオーレンも若き日をここで過ごされたというビッグチャーチである。

4つの教団から5名が集い、熊本災害支援について話し合った。

さらに続いて、プラチナ新里病院にM姉を訪ねる。
「もっとはやく来て、ゆっくりしていって!」
と苦言を頂いた。
来週は必ず、と約束して立ち去る。



4月23日(土)


午前9時過ぎから3時過ぎまで礼拝説教に取り組む。
内容は黙示録から「サルデスの教会」への神様からのメッセージ。
なかなかまとまらなくて苦慮しているうちに、
だんだんと、様々な取組をしても霊的なものが欠けるサルデス教会への神様からの譴責は、
もしかしたら今の私への譴責なのかもしれない、と思い身がすくんだ。

5時、4月役員会。
「これから職場を出発します」と連絡を受ける。
新役員のI兄の遅れることへのお詫びのことばに、
神様からの祝福の兆しを覚えた。




4月24日(日)


礼拝後、誰かが「今日は男の人が多かった」と言った。
小さな私たちの教会は日ごろ女性ばかりであることが多い。
牧師の私も、言われてみて、今日は3人も男の人がいたことに気が付いた。

SG、英語圏から出席されている留学生のJ兄が、
先週はチョット鬱っぽい状態だったことを話されたので心配したが、
牧師と二人になって、その理由を話されたことには、
鬱っぽい中にも青年らしい良き体験されていることがわかり、
「若い時こそできる体験だから感謝だネ、」と言うと、
顔に明るさが甦った。

更に一人、礼拝後面談の時をもったが、
言葉にできない中に、
確かに、今この群れの中に働かれる御聖霊を覚えた。

心密かに、「Aさんがバイト終了後来られないだろうか」、
と、思っていると、本当に来られた。
母国で誕生したばかりのカワイイ姪御さんの写真を見せてくれた。
夕拝のメッセージは「まいごの羊」
私たちの真の羊飼いでいらっしゃるイエス様が心にとどまってくださいますように!
と、祈りつつ見送った。



4月25日(月)

久しぶりの歯医者さん。


夕刻、予定通り、KGKのM主事に祈りの中にあるTさんを紹介させて頂いた。
Tさんが神と出会い、神と共に今夏渡航できますように、
と、あとは委ねて祈るのみ。

KGK主事は長崎の大学生たちとの集いを終えて、
今晩は「めぐみの家」泊。




4月26日(火)

朝M主事先生を送り出し、
久しぶりに、掃除機かけ、洗濯、庭いじり、事務雑多等を楽しんだ。
こうしたゆったりした気分も良いものだ。

熊本で被災されたO師に近況をお聞きした。
声がかすれているのが痛ましい。
見舞い客の対応に追われているご様子だ。

新任のS師の声を初めてお電話でお聞きした。
新任地の野菜の高さに驚かれている。
お元気でまずはこの一年のご奉仕を全うして頂きたいと祈るのみ。
ありがままでいいからね!
ガンバって、S先生!!

感動を伝えたい、

2016-04-23 22:57:40 | 聖書日課
2016年4月22日(金)

聖書日課、「アパルーム」から


傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、
裁きを導きだして、確かなものとする。 (イザヤ書42:3)



 夫が癌で闘病中、私たちは癒されると信じたい気持ちと
不安とが入り混じり、感情は大きく揺れ動いていました。
癌を与えた神に対して怒りが募り、爆発寸前になっていました。
 
 そのような時、私はある聖書講演会に出席致しました。
腕を組み、拒絶的な態度で座っていました。
講演の中で講師は、「神に対して腹を立てたてたことはありますか?」
と、出席者に向かって質問をしました。
この質問は深く私の心を惹きました。
実際私は神に対して腹を立てていたからです。
続いて講師は、イザヤ書42章3節の聖書のことば(上記)を読み上げました。

 帰路、私は「神様、この葦はもう折れそうです。灯心に灯が
少しでも残っていたとしても、私には見えません」と、
切に訴えていました。
 家に着き、私はヨブ記23章を1節づつ読みながら、
思わず開いた聖書のページを叩いていました。
ところが、「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。
わたしを試してくだされば、金のようであることがわかるはずだ」
と言う10節のみ言葉まで来たとき、私の目と心は釘付けにされました。

 金は、不純物を除去するために非常な高熱にさらして製錬されることから
今の私の状況のつながりが見えてきました。
そして、突然私の中にある不純物に気が付いたのです。
それは、妬みや恨み、自己憐憫などが私の内に潜んでいたことに気がついたのです。
私は神に助けと赦しを求めました。やがて、怒りは消え、気持ちは落ち着き、
恐れは平安に代わりました。

 それから数週間後、私は自分の態度を吟味し、赦しを求め続けました。
神の言葉によって状況が変えられたわけではありませんが、
私の心が変えられたのです。
 神は、葦が傷つかないとも、ろうそくが短くならいとも、言っておられませんが、
神はいつも共にいて、戦いに勝利する力と誠実さを与えると
誠実に約束しておられるのです。

ひつじかい日記

2016-04-21 10:32:34 | ひつじかい日記(2)

ひつじかい日記


2016年4月18日(月)


九州全県を網羅した熊本災害支援会立てあげの会出席のため、
油山シャローム教会へ。
Y師呼びかけのもと、
40名以上とも思える人たちが、
教団教派を超えて、九州だけの枠を大きく超えて
集まった。
被災された地域を代表してN牧師が生生しい体験を話された。
「地が沸騰して吹き上げるようだった」と言われた。
また、長らく東北支援に注いでこられた方だったたが、
「実際体験してみれば、
どのように被災者と関わってみても、
実際とはかけ離れている、体験してみなければわからない」
といった旨も話された。
「そうだろうな」と思いながら、
聖書の伝えている終わりの時代のことを考えていた。



19日(火)

朝からバタバタとここ数日のしわ寄せを解消することで、
動き詰めて、一日が終わった。

「フー」と一息!!



20日(水)

午前「聖書研究祈り会」
3名で「ヨハネによる福音書1章6-13節から学んだ。

二千年前、人の姿となって地上に現れた神の御子イエス・キリストが、
ペテロに話しかけられたことは、
天地万物を造られた全能者からの語りかけだったということを
ペテロは果たして、どこまでそのことを知っていただろうか、意識していただろうか。

2000後の現代に生きるキリスト者とされている私たちもまた、
霊的な世界で生かされているということに関して、
これは、生きながらにして、
神の世界を共有していることに他ならない、ということに関して、
どこまで、認識があったか?



21日(木)

深夜、町内放送で「暴風注意報」があった。
暗いうちは至って穏やかだったが、
開け方雨が降りがはじめ、
午前11時、大雨の中このブログを書いている。

熊本の被災地の事が気になり、朝から熊本の為に祈る。
電話で共に祈っている姉妹の口からでた祈りもまた、
熊本の為だった。
地盤の緩んでいる道路がごそっと陥没したり、
緩んでいた山肌が雪崩のような状況になったり、
救援活動をしている南阿蘇地域の地面がドロドロの底なし沼のようにならないのだろうか?
と、経験のない中に色々思い巡らしてみている。

K教会のO先生はか弱い女性の身で、
ひっくり返ったようになっている教会を今後どのように建て直されてゆくのだろか?
・・・
思うだけでは、どうにもならないことを知りながらも、
ついつい考えてしまう。

ひつじかい日記

2016-04-17 18:49:10 | ひつじかい日記(2)

ひつじかい日記


2016年4月15日(金)


午後、
M姉とRさんを高齢者施設に訪問。
M姉は先客があり、大変うれしそうでイキイキしていた。
感謝の他なし。
今日のメッセージは「良きサマリや人」
「オマエハどうか?」と、神様は私に語っておられる様にも思えた。

Rさんは、孫がクリスチャンになって変わったことをしきりに話された。
熊本地震に深い同情を馳せておられた。

とても90歳を超えておられるとは思えない若若しさ!



深夜、再び揺れ始める。
警報は鳴りっぱなし。

机の下に潜り込んだりしたものの、
ひきりなしの揺れなので、
後は全部神様にお任せしてベッドにもぐりこんだ。




2016年4月16日(土)
…そして、気が付けば朝。

昨夜の揺れは一昨日の揺れより激しい気がしていたが、
ワンセグ情報によれば、
どうも、昨夜のが本震だろうとのこと。
「そうだろうなあ~」
と、思った。

明日はK学園の礼拝日で中高生がたくさん来られることを想定して、
何とかわかりやすく、心に残るメッセージを、と午前午後を費やして、
「祈りに学ぶ」というメッセージ用紙を準備した。
メッセージ準備は、いつもは深夜に及ぶのだが、
12時で切り上げて、寝た。



17日(日)

予想に反して、
9時半の第一礼拝は、予ねてから来ている二人組だけだった。
「小さな祈り」と「父の涙」のゴスペルをPCから出して歌うも、
今にもあくびをしそうな雰囲気だったので、
今自分たちが好きな曲をきくと、
「三人組」という。
ユーチューブで聞いてみたが、
思わず、「イマノコハ!!!」と思ってしまった。
確かに、彼らのスピード感覚では、
「小さな祈り」や「父の涙」は、
あまりにもテンポが緩やかすぎてもたないだろう、と思う。
けれども、
40歳過ぎのお姉さんには「とても良い曲だ!」と喜ばれた。


午後、
お母さんと子どもさんが礼拝に出席できなかったご挨拶に玄関先を訪れた。
子どもさんに向かって、
「学校楽しいですか」
「楽しいです」
「お勉強は好きですか」
「好きです」
確かに、お勉強に注いでおられそうな学生さんに見えた。
続いて、来てくださると嬉しいのだが・・・


嬉野教会のF先生から、
佐賀では震災の影響で水が手に入りにくくなってきているので、
長崎方面から届けてほしいとのメールが入っていたので、
第二礼拝後会衆の方々に訴えて募金をした。
第二礼拝に出席されたK学園の学生方が、
ポケットからおこずかいを出して募金に加わられる姿が目に留まった。

58本のペットを嬉野教会を訪ねてF先生に託した。

私はどこまで良きサマリや人になれるだろう。