長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

4月12日イースターメッセージ「信じるなら神の栄光を見る」

2020-04-12 15:05:27 | 説教メモ
ヨハネ福音書11章1-25節
1.1節~
べタニアのマルタ、マリヤ、ラザロ兄弟の家は、主イエスがエルサレムに行かれる途中、たびたび立ち寄ってくつろがれた家でした。それゆえ、ラザロが病気になった時、姉妹たちはすぐにイエス様の元に使者を遣わし、「あなたが愛している者が病気です。」(3)と伝えました。それを聞いたイエス様は、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」(4)と答えられましたが、なぜか二日間その場所から動こうとされませんでした。
2.17節~
 イエス様が到着した時にはラザロはすでに墓に葬られた後でした。出迎えた姉のマルタはイエス様を見るなり、「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(21,22)と、主のみ力に対する大いなる信仰を言い表しました。しかし、「あなたの兄弟はよみがえります。」と宣言するキリストの言葉に対しては、半信半疑だったのです(23)。そのマルタにイエス様は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者はみな死んでも生きるのです。・・・あなたは、このことを信じますか」と、重ね尋ねました。
3.35節~
 私たちは、本当のところ、イエス様がどれだけ私たちを愛して下さっているかを量り知ることができません(35)。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いて下さり、「私たちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」(ヘブル4・15)お方。この果てしなく深いキリストの愛は、死んだラザロを訪ね、罪過に死んでいた者を生かし、人生の重荷に喘ぐ者たちの中に復活の力で新しい命と永遠の希望に溢れさせる。けれどもそこには不信仰の「石」が置かれていて、今信じることを阻みます。けれどその石を取り除けると、「ラザロよ、出てきなさい」との御声でラザロは墓から出てきたのです。私たちも、今「信じるなら神の栄光を見る」(40)のです。神の栄光を見る為のラザロの死でした。「あなたは、このことを信じますか。」(26)。    

4月5日礼拝メッセージ「十字架を負うことの意味」

2020-04-05 09:04:16 | 説教メモ
「十字架を負うことの意味」マタイ16:24-27

今日から受難週です。十字架の意味について、今朝のメッセージが黙想の糧になれば幸いに思います。

さて、ペテロは、イエス・キリストと侵食を共にし、この方こそ真の救い主だと確信したのですが、「律法学者によって苦しめれら、やがて殺される」と、イエス様が話されると、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(22)と、主のおことばを否定するのでした。その時の主イエスの言葉、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(23)との厳しい叱責。
そして、そこにいた弟子たち全員に向かって言われたのです。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(24,25)と。

  ここで言われた、主イエスの言葉、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」に焦点を絞って考えてみましょう。

まず1.「自分の十字架」ですが、
 私たち人間が負うべき十字架と御子イエスが負われる十字架は同じではありません。主イエスの全人類に贖いの十字架は、御子である主イエス様にしか負うことができないもの。ご自身がお架かりになられるその十字架を、私たち人間が負えるものではありません。
けれど、主についてゆく人に対して、「自分の十字架を負って」と、主イエスは言われました。主の十字架上の御苦しみは主イエスにしかわかりません。しかし、主に従いゆく者たち一人一人にも負うべき十字架があることをこのみ言葉は示しています。そして、私たちもまた、一人一人負い行く十字架は、誰も変わって負って頂くことはできないのです。私は私の十字架を、あなたにはあなたの負う、これが主の弟子の第一歩です。
 人生で負うべき「苦しみ」であるなら、クリスチャンであってもなくても人生の一様に全ての人にあるでしょう。けれど、私たちキリスト者が負うべきは単なる苦しみでなく、十字架を負う苦しみです。
 「私について来たいと思うならば」と、イエス様はいわれましたが、だれでも、人がキリストに従ってゆこうと決心すれば、メリットもあれば、デメリットもあります。そして、社会や人間関係における不具合が必然的に生じます。それが、キリストの弟子が負う、また、キリストの弟子でしか負えない十字架です。
 この十字架は熱心になればなるほど大きくなり、この世と迎合すればするほど小さくなります。インドで貧しい人たちの為に奉仕されたマザーテレサは、「人に与えたものと同じくらいの暗やみとの闘いがあった」と言われたそうです。
光の子とされた者は、その時から闇との闘いが始まります。光の存在を明らかにすればするほど、闇との一線がはっきりと分かたれます。(逆に、ボカしていきることもできるのです。)

 2.「十字架の報奨」
 この十字架には「永遠の命」という報奨がかかっています。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」と、イエス様は仰られました。
 例えば、ビルを建てる人は完成されたビルの完成図をもって工事を始めるでしょう。ランナーは、目標を目指して走るでしょう。私たちキリスト者の歩みに対してもまた、永遠の命という確かな目標があるのです。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(25)と、主は仰せられました。十字架の道は、空しいつくりごとの世界ではありません。今、していることには、すべて、神からの報奨がかかっているのです。
 
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(24,25)と。
この主の呼びかけに私たちは、今朝、どの様に向かうことでしょうか。


「信仰の心備え」8日礼拝メッセージ

2020-03-11 08:58:44 | 説教メモ
マタイ25:1-13「信仰の心備え」

アメリカの科学雑誌が世界終末時計を、1947年から掲示しています。
この時計でいくならば、終末まで人類に残されている時間は、
ホントに後わずかです。

マタイ24-25章は、終末の時についてイエス様が仰られた内容が書かれています。
イエス・キリストが十字架に架かられる前の一週間、即ち、受難週の火曜日に語られたもので、
十字架を前にして、神の裁きはエルサレムに留まらず、全人類に及ぶものと預言されました。

当時、エルサレムには紀元前20年からヘロデ王が建てかけて、まだ完成していない神殿がありましたが、
それが破壊されることをイエス様はここで預言されました。
そして、その事は現実となり、ヘロデ王が建てかけた神殿は
紀元70年にローマの攻撃により破壊され、預言は成就致しました。

24章で、弟子たちは更に、再臨のキリストのことや、世の終わりの兆候などについて尋ねていますが、
その時の徴についてイエス様は、偽預言者の到来、民族戦争がおこること、
ルカ伝21章11節では、「また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起こり、
いろいろ恐ろしいことや天からの物スゴイ前兆があるであろう」と仰られましたが、
これは、まさに今の時代の姿と言わざるを得ません。

今、私たちにとって大切なの事は、その日への備えです。
その日がいつ来ても良いように、備えていなさいと、ここで強く奨めておられるのです。
24章45節からは、その備えの中でも、まず大切なことは、
忠実な思慮深い僕であることです(42-44)。   
25章に入りメッセージは展開し、
1-13節では、結婚式の付き添いの乙女を通して、さらに語られます。
ここでの花婿はキリスト、教会は花嫁、クリスチャンは10人の娘に譬えられています。
賢い5人の娘は、花婿の到着が遅くなっても大丈夫なように予備の油を用意していましたが、
愚かな娘は、そのようなことを考えてもいなかったので、花婿が到着した時には大慌てをしました。
油は聖霊を指しています。

Ⅰヨハネ2:26-28では、「油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます」(27)と書かれていますが、
私たちキリスト者は、キリストのうちにとどまり続ける時、
キリストが再臨される時にも、キリストの油により、確信をもってその日を迎えることができるのです。
ですから、再臨への備えの第一歩は、まず聖霊の油を頂き、
ご聖霊の油から教えられる者とされることです。
主が再臨されるその日まで、花嫁の付き添い人の賢い乙女のように、
クリスチャンは聖霊の油を切らすことなく、
主を待ち望みましょう。
その為に、今私たちにできる事は、
日ごとに、み言葉と祈りの祭壇にゆき、
聖霊の注ぎを頂くことです。
朝毎に、夕事に、み言葉と祈りの生活を心がけることです。
そして、キリストの油のあるところにいつも留まって、
霊の目を覚まして、主を待ち望もうではありませんか。


「水の中、火の中を通れども」(大いなる救い)イザヤ43:1-4

2020-03-03 16:14:26 | 説教メモ
2020年3月1日礼拝メッセージ

イザヤ43:1-4「水の中、火の中を通れども」
            -大いなる救いー  

今、全世界が、小さなウィルスの存在によって、果てしも無い不安に包まれようとしてます。
そのような中にあっても、神様は変わることなく、「恐れるな」と語りかけておられます。
その神様からの語りかけを、今私たちは、どのように聞き、
また、そこからどれ程の平安を得ていることでしょう。

イザヤ書43章1節は、神様がイスラエルに対して「恐れるな」との語りかけです。
この時、イスラエルは霊的に非常に堕落した状態でした。神の言葉に耳を傾けず、
目先のことしか考えられない状態に陥り、右往左往しているような中にありました。
そのような中、神様は、
「恐れるな、私はあなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(1)と
語りかけられたのです。
「贖う」とは、「代価を払って買い取る」という意味です。
イスラエルは、神様が代価を払って贖われた民でした。
それ故に神様は、どんなことがあっても、彼らを見放さず、
見捨てることはされないと言われているのです。
それはまた、新約のイスラエルとされた私たちへの語りかけでもあります。


「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」(3節/新改訳2017)
3節は、神様がイスラエルに対してなされた「贖い」が具体的に書かれています。
神さまは、イスラエルを奴隷のくびきから解放するために、
エジプトでありクシュ(エチオピア)でありセバ(エジプトからさらに南方の地域)を、
犠牲とされたのです。
それは、バビロン捕囚70年の時が満ちる頃、
エチオピアやエジプトを征圧する強国ペルシャ帝国を勃興させ、
バビロン帝国の奴隷であったユダヤ人は紀元前537年ペルシャ王クロスの命により
解放されたのです。
究極、このことは、私たちの罪の贖いとなって十字架にかかってくださった
イエス・キリストのことを指しています。
イスラエルを救うために
エジプトやクシュがイスラエルに代わって、ペルシャ帝国の犠牲になった如くに、
紀元1世紀、罪の奴隷状態にある人を罪から救うために、
御子イエス・キリストが、人類を罪の支配から解放して下さる為に、
十字架の上で、人類の罪の身代わりに犠牲となりました。
(ヨハネ3:16)
 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」
(4節/新改訳2017)
私たちはいろいろな目に取り囲まれていますが、
一番重要な目は「わたしの目には」と言われる神の目です。
神様の目には、(私たちがどんな状況の中にあっても)
高価で尊く写っているのです。
それは、御子の命の代価が支払われているからです。
ですから、決して自分の目による判断を基準においてはいけません。
また、他人の目線を基準にしていると罠に陥ることがあります。
大切なのは、神様がどのようにご覧になっているかです。
ご自分のひとり子を十字架におかけになるほどに愛して下さっている
神の愛の眼差しを
いつも意識することができますように。

「あなた水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。
川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。
あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」
(2)。
神に贖われ、神のものとされたものは、いつでも、どんな時でも、神の御手の守りがあると、
み言葉は語りかけています。
奴隷の地エジプトを出立したイスラエルの民の前に立ちはだかった紅海も、
モーセが祈りの手を上げると水が真っ二つに分かれ、
彼らは乾いた紅海の海底を歩いて渡り終えました。
神の導きに従っている人の祈りはきかれるのです。
また、
バビロンで捕囚人だったシャデラク、メシャク、アベデネゴの三青年は、
金の像を拝まなっかったので、燃える炉の中に投げ込まれましたが、
まったく無傷で炉から出てくることができました。
よく見ると、その炉の中には彼らのほかに神の子のような方がもうひとりいたとあります。
その方こそ、受肉前(クリスマスでご降誕される前の)イエス・キリストでした。
主が炉の中の三青年と共にいたので、彼らは火で焼かれることもなく、
また、焦げるにおいさえも衣服につかなっかたのです。
神のものとされた者には、何時いかなる時にも、神の見守りと保障があるのです。




”心の奥底から流れ出る愛”ヨハネ7:38

2019-02-20 05:46:43 | 説教メモ

 

2019年2月19日(火)教区総会

y教区長から(教区長としてさいごの)開会礼拝メッセージをお聞きする。

 

ヨハネ福音書3:38

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の奥底から、

生ける水の川が流れでるようになります。」

ルツ記2:12

「あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、

豊かな報いがあるように。」

ルツは夫の死後も義母を愛し続け、義母の故郷までついてゆく。

けなげに落穂ひろいをしつつ生計を助けるルツの姿を見て、

「あなたのがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、

豊かな報いがあるように」と後に彼女の夫となるボアズは祝福する。

ルツは「その翼の下に身を避けようとして来た主」から愛を受け(たので)

義母に対しても変わらない愛を保ち続けることができたのだろう、、

(と、Y教区長)

主イエスもまた、

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の奥底から、

生ける水の川が流れでるようになります。」と言われた。


私たちもまた、十字架のもとに身を寄せ、

聖霊により、愛し続ける者とされたい。

長崎の26聖人の碑には、

「愛は死よりも強いということを証した生涯」

と書かれている。

(彼らは、心の奥底から来る愛により神を愛した)