ーヨハネ福音諸に学ぶー 6章42~71節
題「命のパン」
私たちは日々の食物によって、その日その日の生きる力を頂きます。
しかし、私たちが食べる食物はその時々で尽きてなくなってしまい、肉の命そのものがやがて枯れて尽き果ててしまいます。
キリストは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27)と、仰れました。
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6章のはじめで、5つのパンと2匹の魚で5千人もの人たちの給食の奇跡を見た人たちは、
ガリラヤ湖の向こう岸までも、キリストについてゆきました。
彼らは更なる奇跡を期待していたからです。
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そのような中でイエス・キリストは、
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35)と言われました。
その答えは、はるばるガリラヤ湖を渡ってまでキリストについて来た人を失望させ、
奇跡を期待していた人たちは大いに躓き、つぶやき、
イエス・キリストに対して、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、
互いに激しく議論し始めた(52)と、ヨハネは書いています。
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彼らには、目に見える世界のことだけしか考えが及びませんでした。
毎日の生活の糧だけが彼らの注目の的でした。
見えない世界、霊の世界について彼らは目が開かれていませんでした。
ヨハネ1章では、この世界が神のことばでできたこと。
イエス・キリストは生ける神のことばとしてこの世に来た救い主であることが明記されています。
モーセはそのことを創世記の1章の天地創造のはじめの記事として書いていま。
しかも、そのモーセの書いた書こそが彼らの中心的な生活の信条でしたが、
ユダヤの人々は荒野でマナを食べたこと以上に生ける神のことばの重大さを理解しません。
イエス・キリストは荒野に於ける悪魔の試みの中でも、
「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでるひとつひとつの言葉によって生きる」
と、申命記のことばを引用しています。
神が指し示す信仰のあり方とユダヤ人の人たちの抱いていた信仰のあり方は大きく違っていたのです。
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その人たちに向かってキリストは、
マナを食べた先祖の人たちは死んでしまった(58)ように、たとえば奇跡的に肉の食べ物がどんなに沢山与えられたとしても、
それらはやがて朽ちてゆくものでしかない。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる」(54)と、
聖餐式の真意をさし示します。
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十字架前夜、キリストはご自身がやがて受くべき十字架を指し示し、パン裂きの儀式を行いました。
裂かれたパンは、やがて、ご自身が全人類の罪の身代わりに掛かられるご自分のお体を意味していること、
葡萄汁は、十字架の上で流すキリストご自身の血を意味していることを教えて、
後々、このパン裂きの儀式である聖餐式を記念として行うことをお弟子たちに伝えています。
ヨハネは第一の手紙1章9節で、
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
と明記していますが、自分の罪を認める人に対してイエス・キリストの十字架上での死と、蘇りは現実に力を表し、
「御子イエスの血はすべての罪からわたしたちをきよめます」(7)。
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”よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである」(47,48)
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かつて、「十字架をむさぼれ」ということばを残された聖徒がいましたが、
そのぐらい、十字架は真に人を生かす命の源なる食べ物であることを、
深く味わってくださいますように!
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