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長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

ただ、清いものにあこがれて

2019-07-27 22:59:02 | ひつじかい日記(2)

2019年7月27日(土)

礼拝堂で黙想の時をもった。
40年の月日が走馬灯のように駆け抜ける。
何が私をこの40年走らせたのだろう。
ただ、きよいものにあこがれていた、
そう、それだけだったのかもしれない。




わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、
ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、
キリスト・イエスによって捕えられているからである。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。
ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
ピリピ3:12-14



神様は、与えようとして、追い求めさせてくださったのか、

トウザー聖書日課「日々、聖霊に満たされて」から

2019-07-22 09:36:29 | 聖書日課


「聖性は神である」

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
・・・手を洗いきよめなさい。・・・心を清くしなさい。   
              ヤコブ4・8


・・・キリスト者生活の聖性とは、降伏し、明け渡し、
(神に)頼っている信者に、神の御霊が住み、満たし、
満足させてくださることである。

私たちは、いつ神の臨在とともに聖性が与えられたと認め、告白するのだろうか。
私たちは、いつ神との真実の出会いによって、心の純潔が与えられた信じるのだろか。

キリストは単に私たちを聖化されるだけではない。
ご自身、私たちの聖性なのである。
まさに燃えている柴に火が宿ったように、キリストが私たちの心の内に生きておられるなら、
生きた出会いと経験によって、私たちは清められて純潔になる。
神聖で純粋なキリストが私たちの中に生きてくださるなら、
そういうこうことが起こらないはずがない。

🌹

私たちは清めの働きに同意しなければならない。
私たちは自分の罪深い心に判決を下し、それを清める権利を神に譲らなければならない。
私たちが全面的に自分を明け渡すまで、神は一歩も行動に出られることはない。

これって、台風効果?

2019-07-20 23:07:12 | ひつじかい日記(2)
 
2019年7月20日(土)

台風5号が五島沖を通過し、テレビで情報が全国に流れた様で、
思いがけない方々から電話やラインでメッセージが飛び込んできた。

日頃はだんまりを決めている固定電話も、今日だけはひきりなしで、
「あの音は、そうだ、電話の音だ!」と、
携帯と電話の間をいったり来たりした。

中には強力な「祈りの人」がおられて、2人の方に新たに
「長崎めぐみ教会祈りのサポーター」にご招待させていただいた。
「これって、ヤッパリ台風効果カナ??
時には、遠くの人に心配していただくのも、悪くはないかもしれない。」
などと思いながら、
土曜日の夜は、ムンクの叫び状態のはずの心が、
なぜか、今日だけはホカホカとしている。
明日が気になって眠れないのではなく、
嬉しくて、感謝が溢れて、暫く眠れそうにない。

こんな気持ちになれること、めったにないから、
チャンと日記に書き留めておかなければ、、、



幸福

2019-07-17 15:16:52 | ひつじかい日記(2)
 
2019年7月17日(水)


先日、一人の来訪者があり、
入ってこられるなり、
「ここの礼拝堂は本当にくつろぎますね、臨在を感じます」
と、言ってくださった。

図らずも、
今日の聖書研究祈り会は、「教会について」聖書神学事典から学んだ。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
エペソ1:23

祈祷会後、一人礼拝堂で雑務をしつつ
不思議な喜びが沸き上がり、
何かがあったわけではないのに、
なぜか幸せ感に満たされた。

「ああ、ヤッパリ、教会は、いっさいのものを満たす方の満ちておられるところなんだ!」
と思いつつ、礼拝堂がめぐみの家に移転されても、この主のご臨在がご一緒に行ってくださらなければ、
と、切に思った。

・・・
それにつけても、リフォーム会社の方からの連絡がないケドね、、、
締切日があるわけではないので、あせらないで、祈りつつ主の導きを仰いでゆくことにしよう。


(私の)ミッション

2019-07-15 03:54:12 | ひつじかい日記(2)

2019年7月15日(月)

うたた寝をしてしまい深夜に目がさめた。
なぜか心がざわめき、内に勝利がない。
街灯も消し、一人主の御前に静まった。

明らかに一つのことが心にひっかかっている。
それは、のどに小骨がひっかかっている様な状態、と言えば良いのだろうか?
具体的にと言えば無くもなく、
あれがこうで、これがこうで、それでここが気になっている。
と、言えば言えないこともない。

しかし、それが全てという訳でもないように思え、
暫くパットしない心を抱え、礼拝堂でため息をついていた。

・・・・・

どれくらい時間が経っただろうか、
フト、天が開かれるように、それまでとは全く違った思いが舞い込んできた。
「大切なことは、神様を示すこと。
私の立場でできることは、終極それだけかもしれない。
イヤ、それこそが最も重要だったんだ!」
と、思った瞬間、エンドレスに追いかけていた一つの思いは粉砕した。
(のどに引っ掛かっていた小骨がとれたのだ)


暗やみの中で講壇に立ってみた。
神様から与えられている働きの中心で、
「イエス様を人々に指し示すためには・・・・」
と、考え始めていた。