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長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

「ケーキの切れない非行少年たち」宮内幸治著から

2020-02-07 10:01:56 | 読書




P75-78

 【不適切な自己評価】自分のことを知らないとどうなるのか?

 ある少年に不適切な誤りがあった場合、その少年がそれを正したいとう気持ちを
持つには、まず、”自分の今の姿を知る”といったプロセスが必用になります。自己の
問題や課題に気づかせ”もっといい自分になりたい”といった気持ちを持たせることが、
変化のおための大きな動機づけになるのです。
 ところが、もしここで、多くの問題や課題を抱える人が、”自分には問題がない”
”自分はいい人間だ”と信じていて、自己の姿を適切に評価できていなければどうなる
でしょうか?
自己へのフィードバックが正しく行えず、「自分を変えたい」といった
動機づけも生じないので、誤りを正せないばかりか対人関係においても様々な不適切
な行動につながってしまうのです。
 
 例えば少年院では、
・自分のことは棚に上げて、他人の欠点ばなり指摘する
・どんなにひどい犯罪を行っていても自分はやさしい人間だという
・プライドが変に高い、変に自身をもっている、逆に極端に自分に自信がない

といった少年たちがみられました。殺人事件を起こしている少年でさえも「自分は
やさしい人間だ」と言ったことに驚かされましたが、同時に「この自己への歪んだ
評価を何とか修正せねば更生させることはできない」と課題の所在も強く感じさせ
されました。

 なぜ、自己評価が不適切になるのか?
 ではなぜ彼らは適切な自己評価ができないのでしょうか?それは適切な自己評価
は他者との関係性の中でのみ育つから
です。

 例えば、
 ”自分と話しているAさんはいつも怒った顔をしている。自分はAさんから嫌われて
いる気がする。自分のどこが悪かったのだろう”
 ”あのグループのみんなはいつも笑顔で私に接してくれる。きっと私はみんなから
好かれているんだ。案外と私は人気があるのかも”

 といったように、相手から送られる様々なサインから、「自分はこんな人間かも
しれない」と少しづつ自分の姿に気づいていくのです。




 人も同様です。無人島で独り暮らしをしていると、「本当の自分の姿」は分かり
ません。つまり、自己を適切に知るには、人との生活を通して他者とのコミュニケ
ーションを行う中で、適切にサインを出し合い、相手の反応を見ながら自己にフィ
ードバックするという作業を、数多くこなすことが必要なのです。


 ところが、もしこちらが相手からのサインに注意を向けない、一部の情報だけ
受け取る、歪んで情報を受け取る(相手が笑っているのに起こっていると受け
取ったり、怒っているのに笑っていると受け取ったりする)とどうなるでしょうか?
自己へのフィードバックは歪んでしまいます。適切な自己評価には偏りのない
情報収取力が必要なのです。




”人が一人でいるのは良くない”
(創世記2:18)
・・・ホントにそうだナ~
と、思いつつ

「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)からー12-

2019-05-22 12:18:08 | 読書

4.真理としてイエスを見る (5

 

 p81

 このような私たち自身と神とについての真理の啓示に対して、私たちはどのように応答しべき

でしょうか。神が私たちに求めておられる応答は、私たちが当然考えるようなものとはずいぶん

趣を異にしている。

 ヨハネによる福音書3章20節には、「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、その行いが

明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」としるしてある。

 このことは、私たちが隠したい罪をもっていると光をきらう、すなわち私たちの姿をむき出し

にするいっさいのものを避けるという意味である。続いて次の節には、「しかし、真理を行って

いる者は光に来る。その人の行いの神にあってんされたということが、明るみにされるためであ

る」とある。私たちは、「悪を行っている者は光を憎む」と書いてあったら当然続きの文は「善

を行う者は光に来る」であろうと想像する。確かに悪を行うことの反対は善を行うことである。

しかしここにそのような対比は見られない。神が言われるのは「真理を行っている者は光に来る」

である。神の示される、悪を行うことの対比は、善を行うことではなく、真理を行うこと、すな

わち私たちの悪に対して正直な態度をとることである。

 神は私たちが悪を行ったことに代えて善を行う努力をしたり、不親切であったことに代えて、

親切にしようと努めたり、批評的であったことに代えて親しくしたりすることを第一に求めてお

られない。そのようなことは、今までの行いを少しも悔い改めることなしに、また心のきよめと

平安とを少しも経験することなしに行うことができるだろう。

 神が第一に求めておられるのは真理である。すなわち今までになされた罪についての誠意に満

ちた明白な悔い改めと告白である。そのようにすることは、私たちをゆるしのためにイエスの十

字架に連れて行き、またもし必要なら、傷つけた相手の赦しを請うためにその人のもとに導くこ

とだろう。

 このようにへりくだって自分自身に真実であることにより、私たちは神と人との平和を見いだ

すのである。なぜなら、そこでイエスを新しい意味で見出し、かつてないほどの強く、彼が十字

架の上で私たちの罪のためになされたみわざをとらえるからである。少しの偽りもなく正直であ

あること、すなわち私たちの罪について「真理を行う」ことが、キリストの血によって私たちを

神と人との正しい関係に導くのである。しかしあらゆるこの世の「善を行う」ことは、そのよ

うな祝福を私たちにもたらしてくれない。

 きょうイエスを真理として迎え入れよう。彼があなたに示しておられる最初のものから始めよ。

たぶんそれは、この文を読むうちにあなたの思いの中に起こってきたものであるかもしれない。

あなたが光に従うことの報いは、さらに光が与えられて次の罪を知らされることである。彼は、

私たち自身の状態を一挙に示すようなことはなさらない。もしそうであったなら、私たちは耐え

ることができないだろう。彼はしだいに深く私たちを取り扱われる。一つの真理に従うことは、

いっそう進んだ自己の啓示をもたらすからである。

 

 苦痛に満ちた真理を宣言する十字架が、同時に罪の救治作であるという事実は、それの下す

診断に応答するための新しい心備えを与えてくれる。もしある病について絶対に失敗のない治

療対策わかっていれば、自分がその病にかかっていると言われても、ショックに耐えることが

できるだろう。罪と不潔のための泉があることを知っているかぎり、私は自分自身と自分の罪

を照らす光に直面することができるのである。

 しかもすばらしいことに、私たちが主イエスを真理として愛するようになると、彼はほかの

場合にも、罪と関連した場合と同じように貴重であることがわかってくる。真理としての彼に

怖れをいだかせるのは、暗くて偽りに満ちた私たちの心だけである。彼は私たちがこの面での

ご自分をこわがらないで、喜んで迎え入れることを望んでおられる。彼は「真理の御霊」と三

度にわたって叫ばれているご自分の聖霊を私たちに与えて、「あらゆる真理に導いてくれる」

のである。だから私たちは安心して御手の中に私たちの手を入れ、次のように言うことができ

る。

 「主よ、あなたがごらんになるいっさいのものを示してください。私が見ることを望んで

おられるいっさいのものを示してください。私はそれらのものを受けいれます。弁解したり

議論したりはしません。あなたがそれらのものを指摘なされば、私はそれらのものが実際に

あることを知ります。」と。


「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-11-

2019-05-17 10:54:29 | 読書

4.真理としてイエスを見る(4

p55

 

・・・営所の外とは、「イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がない」(エペソ・

2・21)外国人の居住区であった。普通これらの外国人は営所に住むことを赦されなかったので

る。

 営所の外はツアーラト(ハンセン氏病)の人のいる所でもあった。この病の持つ伝染性のため

に、いっさいの生活の喜びから除外されていたのである。

 そこはまた、律法違反者および犯罪者を処刑する恐ろしい場所でもあった。モーセの律法によ

れば、姦淫の者、安息日を破った者、偶像礼拝者、殺人犯、石を投げて殺されることになって

おり、その処刑の場が営所の外であった。

 しかし、使徒はここで、おそらく営所の外の最も陰惨と思える面を描写しているのである。

そこは、人の罪のために聖所に注ぎかける血を提供した家畜の死体が、うず高い燃えがらの上で

焼かれた所である。犠牲をささげた者の罪を象徴的に負ったその家畜は、神にも人にも徹底して

忌み嫌われる、罪にのろわれたものとして焼かれたのである。来る日も来る日も営所の外には

煙が上がり、あたりは言いようのない悪臭に包まれたのである。

 以上、あらゆる面から見て、営所の外と呼ばる地域は決して好ましい所ではなかった。それは

外国人、感染性のある特別な病の人、犯罪者、罪にのろわれた燃えがらの場所であり、忌避

すべき所であった。しかし聖書は、主イエスが、この営所の外を霊的に描写した場所に、十字架

負い、ご自分の血をもって民をきよめるために行かれたとしるしている。彼が十字架につけ

られた場所には、昔の営所の外が連想させるものと同じように無気味で恐ろしい「されこうべ

の場」(マタイ27・33)という名前がつけられている。しかし福音書はイエスが行かれた所は

私たちの行くべき所であると告げられている

・・・

 

  p58

 まず第一に、彼は私たちのため、御父にすら外国人のように見知らぬ者となられた場、すな

わち神に見捨てられる場所に行かれた。彼は十字架にかかって、「わが神、わが神、どうして

わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。罪人が神を見捨てることに罪の始まりがあ

あるが、神が罪人を見捨てられることが罪のもたらす究極の刑罰であり、それは地獄にほかな

らない。イエスは十字架の上で神に見捨てられるその場所に行かれたのである。しかも彼は、

それが私たちの場所であるためそこに行かれたのである。私たちの分は彼が負われたのろいで

ある。私たちの分は彼が耐えられた神に見捨てられる状態である。この倫理をくつがえすこと

はできない。彼が私たちの場をとられた瞬間に、神に見捨てられたとしたなら、神の御前にお

ける私たちの真の立場はどのようなものであろうか。カルバリから輝いて来る真理は、神の御

前における私たちの戦慄すべき状態をなんと克明に描写していることだろう!


 次に、彼は私たちのため、道徳面での最も醜悪な者としてのの場をとり、あたかも

彼ご自身が罪の病に覆われた者であるかのようにふるまわれた。事実このことが、

「彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられた」(イザヤ53・4)という聖句の中で言及

されている。

   ・

  ・

 罪の始まりは、私たちの生活の中に小さな存在として表わされるが、頂点に達すると、神に

も人にも徹底して醜悪なものとなり、罪人を神との永遠の隔離に追いやる。・・・

・・しかし主イエスは、この道徳面での病人の立場を私たちのために進んでとり、神の目より

見て醜悪な姿をさらされたのである。なぜ彼がそのような立場をとられたかと尋ねるだろうか。

彼がそのようにされたのは、私たちがその立場にいることをごらんになったからである。私た

ちを救うためにその立場をとられる必要があったからである。したがって、道徳面での醜悪な

罪の病に覆われた者として、営所の外にある十字架に架けられたイエスの姿は、私の状態を明

白に宣言するものにほかならない。自分がそのような存在であることをほかの方法によって知

ることができなくても、イエスが私のためにとられた場を深く考えることによってそれがわか

ってくる。今の時代に、なんという不潔、不道徳、堕落の汚点が生きていることだろうか。

そしてそれらのものが巧みに隠されていることだろうか。しかしそれらのものは、イエスが私

たちのためにとられた場、すなわち十字架の上で、すべての人々の前に公表されているのであ

る。私たちは、それらのものがまだほかの人の場合のようには実を結ぶに至っていないと考え

るかもしれない。しかしカルバリは、それらのものが本質として、また芽の形で、私たちの

うちにあると宣言している。

 


 


 

 


 


「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-10-

2019-05-16 10:43:58 | 読書

4.真理として神を見る(3)

p51

 

・・・真にイエスを見ることは真理を見ることにほかならない。

真理としてのイエスをどこで見るかと尋ねられたら、その至高の姿はカルバリの十字架上に

あると答えたい。私たちはそこにおいて、罪、人、および人の対決すべき神についての裸の

真理を彼のうちに余すことなく見る。十字架は人に対する最も豊富で甘美な神の恵みを現わ

すと同時に人間についての真理を最も鮮明に描写している。もし恵みがカルバリより流れ

て来るとしたら、真理もそこから来るに違いない。なぜなら「めぐみとまことは、イエス・

キリストをとおしてきたのである」から(ヨハネ1・17)。

 

 ここで以上のことを例証してみよう。患者は医師の異常な関心と最悪を予想させる処置を

見て初めて、自分の病気の重さがわかる。まだ検挙されていない法律違反者は、自分と同じ

罪状を持つ他の者に科せられたきびしい判決を読んで、その時までは自分の犯行を軽く見て

いたのが、どのようにきびしい態度で法律が時分に臨むかを知る。また無頼のむすこは、自

分のために母親がどのように苦しみ悲しんでいるかを知って、自分の歩いている道の実情を

判断するようになる。

 

 イエスは十字架の上から、「ここを見て、あなた自身の状態を知りなさい。私はあなたの

ためにこのような恥を負わなければならない」と言っておられる。きよきおかたが私たちの

立場をとって罪を負われた瞬間に、御父に罰せられ、そのお苦しみの時に捨てられたとした

なら、私たたちの真の状態はどのように恐ろしい審判を引き起こすだろうか。

 聖書は、イエスが「罪の肉の様」(ローマ8・3)をとられたとしるしている。このことは彼

私たちの似姿として十字架につかれたことを意味する。しかしもし彼がその似姿になった

瞬間に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と

叫ばざるを得なかったとすれば、神の目より見た私たちの姿はいったいどのようなもので

あろうか。神が御子を私たち人間として見捨てられたのである。似姿の上になされたことは、

いつでもそれが代表する者の上になされたものとみなされる。神の憤りの下にあって苦悩す

るあの見捨てられた像は、最悪の者も最善の者も総括しての私たち自身をさしている。私た

ちは皆、そこに、キリスト者と非キリスト者を問わず、私たち全体についてのむき出しの真

理を見る。人についての神の評価が他のどこにもないとしても、十字架だけにはそれが見

いだだされる。私たちをへりくだらせる苦痛に満ちた真理は、まことにイエス・キリストに

よって来たのである。それは私たち自身についてのあらゆるむなしい錯覚をくずすのに十分

である。

 

 私たち自身についての真理がイエス・キリストによって来ただけではなく、神についての

真理と私たちに向かう神の愛もまた彼によって来たのである。もし私たちが自己の判断に任

せられていたら、私たちの罪意識は、神が私たちの敵であって大きなつえを持つおかたであ

ると私たちに知らせるだけであったろう。(※神様は裁き主であることしか判断できなかっ

たであろう)私たちは神を見るのに、人のためさまざまな道徳の標準を定め、しかもそのほ

とんどがあまりにも高いので、もし私たちが失敗したらとがめざるを得ないおかたとしてだ

け考えることだろう。そこには私たちを神に引きつける何ものもない。

 しかし主イエスの十字架は、このような考えが皆誤っていることを指摘し、神の真の御姿

を示してくれる。私たちは予想い反して、神が私たちを罪のために責めるのではなく、私た

ちのために、ご自分の御子を責められるのを見る。「神は、キリストにおいて世をご自分

に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをされなかった。」(第二コリント5・19)

 私たちが大きなつえ(神の裁き、または、律法など、私たちの罪を知らせるもの)と考え

ていたものは、実は私たちをご自分のもとに招き寄せるための、伸ばされた愛の御腕であっ

たのである。

 私たちのためにそこなわれたイエス・キリストの顔の中に、私たちは神が罪人に対抗する

おかたでなくて味方であること、敵ではなくて友であることを知る。また神がキリストにあ

って、及ぶことのできない新しい標準を定められたのではなく、既存する律法のあらゆる標

準に及びえない人々に、ゆるしと平和、新しいいのちを与えとして近づかれたことを知る。

「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてき

たのである」。ある著者はこの箇所を読んで、「十字架の示す驚くべき寛大さ」と言った。

それは私たちの罪意識を驚かせるばかりでなく、私たちを溶かして引き寄せる。そして、私

たちを待つものは神のあわれみだけであることを知らせ、私たちが誠実と悔い改めとをもっ

て神のみもとに帰るようにと促すのである。


「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-9-

2019-05-15 09:28:10 | 読書

4.真理として神を見る(2)

p48

 

 悪魔は今もなお私たちの回りに相変わらず偽りのくもの巣を巻き付けている。彼は私たちが

善良な人間であり、敬虔なキリスト者であるから、自分自身の生活について気にかけることは

少しもないと言っている。また神というおかたは額面どおりにはきよくなく少しぐらいは妥協

されるかただと偽り、あるいは神は私たちを愛しもせず、公平に扱ってはおられないと言う。

そしてこの言葉を信じてしまうところに、相変わらず私たちの悲劇がある。そのため私たちは

物事のありのままを見る視力を失い、自己について全くの錯覚状態に陥っているのである

 

 とは言うものの、この責任が皆悪魔にあると、彼だけをきめつけてはならない。私たちの心

の中には彼の忠実な味方がいるからである。ヨハネ第一の手紙1章には、私たち自身についての

錯覚状態を築き上げる段階が三つしるされている。

 その第一は、6節の「偽っているのであって、真理を行っているのではない」という句にでて

いる。これは言い替えれば、ありのままでない自分自身についての印象を他に与えるということ

である。このようにして、私たちはたとえ実際には偽りを言わなくても、偽りを演出しているの

である。おそらく私たちのうちには長年の間仮面をかぶり芝居を続けている者がいることだろ

う。そのようにすることは少しも不思議ではない。なぜなら「悪を行っている者はみな光を憎

む。そて、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」

(ヨハネ3・10)と言われているからである。私たちは自分自身について隠しておきたい多くの

ものを持っているのである。

 次の段階は8節にしるされている。「自分を欺く・・・・・・、真理はわたしたちのうちにない」。

この句は、私たちがあまりに長い間偽りを演出してきたので、自分自身の偽りを信じ込むように

なったことを意味している。他を欺いていたのが、自分自身を欺く結果を招いたのである。私た

ちは今まで(うわべを)繕っていたとおりの人間であると信ずるようになる。私たちは「だれも

傷つけたことはない」こと、他の者のようにねたみ深く高慢でもないこと、全く主にささげられ

た者であることを確信している。ほかの者のようではないことを神に感謝したパリサイ人は、自

分がほんとうのことを言っていると思い込んでいた。彼はほかの者同様、貪欲な者、不義な者、

不品行な者であったけれども、その心は自分自身を偽っていた。彼は私たち同様、錯覚の世界に

住んでいたのである。

 第三は10節の「神を偽り者とする」という段階である。今までの状態は、神が私たちの罪と

私たちの真の姿をお示しになる時に、「主よ、そうではありません」と自動的に答える場所に

私たちをく。私たちは神が間違ったことを言われたのだと思う。神は自分ではなく、他の者を

さしておられるのだと考える。もちろん私たちは皆、理論の上では、自分自身が罪人であること

を認める。しかし神が私たちに接近して、説教や友人の忠実な勧告により、私たちの心が「よろ

ずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17・9)こと、特に私たち

人格の一定の面でそうであることをお示しになると、そのとおりであると認めることができ

ない。しかし私たちが罪を犯したと神が言われる時に、そうでないと言うことは、神を偽り者と

することになる。私たちの盲目状態はいつでもこのような結果をもたらす。しかも私たちがこの

ような状態にあるかぎり、神は私たちに対してどのようになさることもできない。私たちは神に

ついてだけでなく、自分自身についても、見知らぬ他人となっているのである。

 以上の理由によって、私たちの最初にして基本的な必要は、まず自分自身に紹介されることで

ある。すなわち神の目より見た真理を知るということである。