2018年4月22日(日)
夜明け前にせき込む、これは一体何なのだろう。
自分の身体に起こってくる種々の変化に気持ちがついてゆけないまま、
教会総会の朝を迎えた。
今日は、K学園礼拝と重なって、新入生が10名ほど加わった。
メッセージは、
学生にとっても身近な、いじめの問題にも少し触れた。
「第一のものを第一に」マタイ6:33-34
証/ 私は4月から隣町の学童保育へ行っています。週に2回、それも数時間で、まだ7回ほどしか行っていませんが、現代の子ども社会を目の当たりに見ています。(それはまた、大人社会の縮小版、原型でもあります)
2回目行った時のことです。小3、4年生の男の子が4人で遊んでいました。一人の男の子が少し弱めの男の子に向かって「XXはバカだから」とか、「だからXXはダメなんだ」とか、ヒドイ言葉を連発していました。私は心の中で、「男の子の世界ってこんなものなのかナ?」と思って、気にはなりましたが、何も言いませんでした。
ところが最近その男の子が、私に向かって、「ただ見学にきている人だと思っていた」と、チョットバカにした様な言い方をしたのです。その時、その言葉に対して、大学生くらいの若い男の先生が、堂々とその子に向かって、「ちゃんとした先生なんだ」と言って叱ったのです。
ここ数日この事を思い巡らしていて、最初見かけたゲームの時のヒドイ言葉を私はその場で注意しなければならなかったこと。けれども、その場の空気に飲まれて、私自身がその時しなければならないことから逃げてしまっていたことに気が付き、何も言わなかった自分が、とても恥ずかしくなりました。
もし、教会でその様なことがあれば、神の国の法則に従って、弱い人の立場に立って、普通に注意したでしょう。けれど、教会から一歩出た社会では社会のルールがあることを知っているので、アッサリと神の国のルールよりも無意識の内に世のルールに乗り換えてしまっていたのだと思います。その時、私は神の国と神の義を第一にしなかったのです。
神の国とは神がご支配くださるところです。それに対して、世のルールは、力のある者が力のない人を支配する世界です。イジメの世界もまさに力関係で成り立たせる世の世界そのものと言えます。
主イエスは、「まず神の国と神の義とを求めなさい(第一にしなさい)。そうすれば、これらのもの(世にあって必要なもの)は、すべて添えて与えられるであろう。」(33)と、仰られました。ですから、もし、私たちの心が神様のご支配の中にあり、神様の御心に従うものであるなら、私たちの心はすでに「神の国」にあるのです。
・
・
と。
23日(月)
相変わらず微熱と咳がとれないので、
今日は、呼吸器内科を受診した。
「扁桃腺の腫れがとれると熱も自然に治まるでしょう」
との医師の見解に、
ホットしたのものの・・・
×××
微熱を抱えながら動き回ることにも少し慣れてきたので、
買い物や車の洗車までしてしまった。
じっとしていると、本当に病人になってしまうようで、怖かった。
▽
ほんの数週間前まで、
新たに出会った、子どもたちとの新鮮な世界に感動し、
この年になって、あれもこれもできる自分に驚いてもいた。
真剣に5月の休暇で海外へ旅立つことも模索していた。
けれど、
重たい体をひこづっていると、やはり、気持ちもなえてしまう。
今の自分はいったいどうしたのだろう。
どんなにしてもとれない微熱を抱えながら、
子どもクラブへ行き始めたことは、御旨に沿わなかったのだろうか?
などとアレコレ考えはじめ、
どこか、神さまの祝福に陰りがでてきているようにも思えたりして、
身体だけでなく心までだれてゆく、
そんな、「病」の本当の怖さを見せられている気がした。
24日(火)
朝、
大雨の中、教区の集いに出かけてゆく兄姉を見送って、
長崎駅のフードコートで朝食を済ませ、
本を1冊買って、教会に帰った。
この雨模様に対抗するかのように、
室内の電気をあかあかとつけて、出かけていった人たちのためにも静まりの時をもった。
☆
2時ごろだっただろうか、
チャイムがなったので、玄関にでると、かわいい女の子が2人、雨に濡れながら立っていた。
ただそれだけのことなのに、
私の心に新しい元気と喜びが帰ってきた。
暫く、わたしたちの教会には、子どもの姿がなく、
私が子どもクラブに行き始めた動機の一つもまた、
子どもとの接点を求めたからだ。
「教会に子どもを!」
これは、今の私の、また、私たちの教会の切願だった。
そのような中で、子どもたちの姿を現実にそこに見たとき、
「ア、神さまは生きておられる。私たちの祈りを聞いておられる。」
と、反射的に思ったのだ。
祝福が陰り始めていた雲間から、突然天の光がこぼれ落ちてきたようなきもちになった。
私は、スッカリ熱のことを忘れて、小2の女の子たちとの話に
夢中になっていた。
これは、落ち込みそうだった私への神さまからの「大丈夫!」のサインだったと、
今も、そう思う。
2018年4月13日(金)
夕、時津カナリーに、昔聞いたことのあるフォーク歌手(?)
のコンサートに行った。
ピアノコンサートの時と来られている人たちの客層が何だか少し違っている。
始めから終わりまで、ギターとハーモニカ片手の一人トークのコンサートで、
殆ど私の知らない歌ばかりだった。
日本だけでなく、世界を行脚されている様子で、
昭和ギャグがそのまま受けて、
思わず吹き出す場面もあったが、
私にはなぜか、不燃焼感が残ってしまった。
▽
その方のお父様が、30才で突然キリスト教徒になり、
しかも、神学校に行き、牧師になられたため、
彼は、教会で育ったと言う。
大阪の神学校にまで行ったが途中でやめて、
歌を作り歌って、今の年齢に。
私の不燃焼感はきっと、そのあたりからきているのだろう。
「今からでも、遅くはない、残りの人生を主の為に生きて欲しい!」
と、なぜか、心で叫んでいた。
(他人の人生に干渉する権利は私にはないが・・・)
4月14日(土)
もしかすると、説教よりも、明日のためのお寿司づくりに心と時間を使い過ぎてはいないか、
心のどこかで気にはなっていたが、、、
15日(日)
朝、目覚めると、のどの痛みが普通でない。
花粉症とは何かが違う、それに、熱ポイ、
もしも、インフルエンザだと、コマッタことになるゾー☆
スマホで扁桃腺炎とインフルエンザの違いを調べるも、
今の私の違いが判断できない。
ともかく、インフルエンザは困るノダ!!
手を綺麗に洗い、
シッカリマスクをして、
慎重に、
お寿司の仕上げに取り掛かった。
(ここまできて、捨てるわけにはいかない)
▽
一体、私は、何をしているのだろうか?
と、自分にあきれてしまう。
実は、今日のお寿司も、何かがあったわけではなく、
ただ、何となくしたかっただけなのだ。
このように、いつも、自分がしたいことをしてきた結果がこれなのだろう。
「本心に立ち返って、」
そうだ、牧師の本業に立ち返らなければ・・・
▽
礼拝が終わると、
全身が熱に浮かれている様だったが、
ともかく、
一休みをおいて、
次週の教会総会の為の役員会だけはしなければ・・・
そんな中にも、
届けられた、愛のビタミンタップリフルーツジュースとパンで何とか持ちこたえて、
役員会を終了!
タダチに服のまま、ベッドに飛び込んだ。
心は「インフルエンザだったらどうしよう」
「みんなに感染してしまっていたらどうししょう」
そればかり。
夜、予約していた、
大村でのセミナーの欠席届けを電話とメールでした。
(楽しみにしていただけにタップリ未練を残しつつ、、、)
16日(月)
ナント、不思議なことに、
熱がだんだん下がり、ノドの痛みは残っているが、
インフルではないような未透視がでてきた。
しかも、予防注射の有効期間内でもあるようだし。。。
何となく体はだるいが、
心は軽くなった。
他の人たちの不安を長引かせてはいけない、
昨日礼拝に出席された方々に、ただちにラインとメール。
ともかく、今日は一日寝てよう。
何カ月、イエ、何年ぶりだろう、
一日ゴロゴロしていたのは、
寝すぎて、体がヘンになりそうな、月曜日。
17日(火)
起きてみれば、
熱はないのに、体がだるく、のどがきつい、
朝一番で、近くの耳鼻科を受診した。
抗生物質とそのために必要な何種類もの薬が渡された。
放っておいても治るかもしれないと思えば、飲む気がしないが、
午後からの子どもクラブのためには飲む必要があった。
今週は、お薬weekになりそうだナ~
けれど、この際、きちんと直しておこう。
扁桃腺は菌で腫れる、これは、人にうつるものではないが、
綺麗に完治していないと、またでてきて、悪さをするそうだ、
そう書かれているのを、ネットで見たが、
まるで、聖書にでてくる罪と良く似ているナ。
▽
不思議と、午後の子どもクラブが終わるころには、
全く体調が回復していた。
これは、薬だけのことでないと確信できる。
今、背後の祈りの篤さを全身が感じていて、
めぐみ教会のみなさまのお祈りに、ただただ感謝が溢れ、、、
長与、高田駅付近のみごとな桜並木
2018年4月1日(日)
Happy Easter
若き姉妹が、新しに主の道を歩み始められた!
”主がなたを祝福し、あなたを守られるように。”
受洗おめでとう、Y姉!
夢の実現のためにも祈ります。
2日(月)
休養に継ぐ休養の一日!
長与のさくらが目にやさしい。
3日(火)
子どもクラブ支援初日(15:00-18:00)
小2の男の子4人のじゃんけんの中に入っていって、グーを出したところ、
「オジャマダ!」と言われた。
4日(水)
久しぶりに、遠くに住む一人の姉妹とラインで繋がった。
春の息吹の中で、新芽がでている様だ!
嬉しいニュースに喜びが沸々と湧き上がる。
5日(木)
子どもクラブ2日目(10:00-13:00)
小2女子3人組のおままごとを端で見ていると、
一人の女の子の状態が少しへん。
AとBの間で、女の子Cが、
「こんな時にはそっとして何も言わない方がいいよ」
と私の耳元でささやいた。
そのおことばに忠実に、ずーーと、見て見ぬふりをしいてたら、
先輩格の先生が、
「あれ、何かヘン」
と、言って、ヘンになった女の子Aに近づき、
しっかりと時間をかけて、その子の言い分を聞いていた。
・・・私、これで、ホントに良かったのカナ??
6日(金)
確かに、少し、体がギシギシしているようだけど、
でも、久しぶりの子どもの世界にenterして、
新しい世界が眼前に広がり、私の心は舞い上がっていて、
疲れが疲れでなくなっているようだ。
7日(土)
N夫妻と出会い、新な関係がスタートした!
ちなみに、私の人生訓は、と言えば、
それは、「出会い」。
105才でご逝去された、故日野原重明氏は、
人生の最後の名著「生きていくあなたへ」の中で、
「別れとは、出会いのなかにあり」と書いている。
どんなに心に感動を覚えた人たちであっても、
「出会った」と言うことは、「別れ」の時がセットされているのだから、、、
と、しっかりと、自分に言い聞かせること。
8日(日)
M姉最初、めぐみ教会礼拝後のスモールグループの中で。
歓迎のランチは五島名物「五島うどん」鍋。
話が尽きなくて、とうとう、お母さんを待っていた娘が悲鳴をあげた。
(反省)
9日(月)
朝目覚めて、「今日かな」「ヤッパリ、今日ですよね、」と、
一人ごとの果て、神様との話し合いの末、
雲仙にお住まいの教会員のご両親を訪問することに!!
雲仙の山に入る前に、島原牛を食べ、
雲仙名物の「小池地獄温泉」につかり、
もしかすると、訪問よりも、チガッタ楽しみに現を抜かしてはいまいか??
(これもまた、反省と共に、感謝)
10日(火)
今日一人の姉妹が飛行機でお里帰りをされた。
良き、帰省とされますように。
私は第三回目の子どもクラブへ。(15:00-18:00)
ともかく、名前が覚えられなくて、メモ用紙片手に必死で子どもをおいかけたのだが、、、。
11日(水)
M姉と共に、全てのことに感謝しつつ祈る。
2018年教会総会を控え、心をからっぽにして、
主の導きを仰ぐ。
私の頭の中は、と言えば、
朝目覚めてより、
「わたしは福音のためにどんなことでもする」と言った
使徒パウロのことばが鳴りぱなし。
全てが終わり、帰り際、
喜ばしいニュースをポンとM姉が話される。
「そ、そんな嬉しいことが・・」と、感謝が胸いっぱいに広がるが、
「何で、また、そんな嬉しいこと、一番に話さないの?・・?」と、思うも、
これがまた、この姉妹のナントモ言葉で表現できない
魅力なのでス。
12日(木)
子どもクラブ④
子どもが耳元でささやくことばは、
時にやさしく、時に厳しく、時に悲しい。
🌸
子ども「先生、偉い先生なんでしょ」
私「・・・普通だけど、、、」
(心当たりがナクテ返事のしようがない)
🌸
子ども、、、私の顔をジッ~と、見て、
「メガネ、、、おばあさんダ~」
私・・・「○×▽(´・ω・`)□×△・」
🌸
子ども「お父さんにネ、早く帰ってきて、ってお電話したのに、帰ってきてくれない」
私「お仕事忙しいんだヨ」
子ども「お正月もかえってこなかったんだヨ」
私「・・・・」
13日(金)
天気快晴、花粉少々、とっても心地よい金曜日、
午前、総会資料作成、久しぶりのブログ更新。
・・・来てくれるカナ~tearoomへ