長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

心が燃える

2015-12-31 22:33:30 | 読書

2015年12月31日(木)22:35


明日の元旦礼拝の準備をしていて、
たまたま遭遇したHPで、
発見しました。
HP名がわからず、ご紹介できないのが残念ですが・・・・



心が燃える?

Ⅱコリント11:29を比較してみます。

口語訳

11:29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。

新共同

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

新改3

11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

岩波書店訳

11:29 誰かが弱っている。そうだとしたら〔この〕私も弱らない〔でおられよう〕か。誰かが躓いている。そうだとしたら〔この〕私も燃えないで〔でおられよう〕か。

NKJV

11:29 Who is weak, and I am not weak? Who is made to stumble, and I do not burn with indignation?

NIV

11:29 Who is weak, and I do not feel weak? Who is led into sin, and I do not inwardly burn?

口語訳は「わたしの心が燃えないでおれようか」、
新共同訳は「わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」、
新改訳は「私の心が激しく痛まないでおられましょうか」、
岩波書店訳は「私も燃えないで〔でおられよう〕か」と訳しています。

口語訳で「燃え」と訳されている言葉の限度は「ピュルーマイ」で、織田ギリシア語小辞典によると「①燃やす、火を付ける、焼く、〔受〕燃える、焼ける②灼熱する、火で精錬する③〔比喩的に〕〔中・受〕心情が燃え上がる、怒り(等の激しい感情)で燃え上がる、Ⅱコリ11:29、情欲で燃え上がる、Ⅰコリ7:9」とあります。

この辞書の意味からすると、口語訳、新共同訳のように燃えるという意味が正しいようですが、「心が燃える」という表現は、「気力・情熱・感情が盛んに起る」(広辞苑)というように使われます。

ちなみに、ルカの福音書24:32では

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

と書かれているように使われています。なお、ここで燃えると訳されている語はⅡコリント11:29で使われている言葉とは違います。

このように、Ⅱコリ11:29の表現では、人が弱っているときに自分も弱り、人が罪を犯しているときに自分の心が燃えている、というのはちょっと違和感があります。

ですから、新改訳は「心が激しく痛まないで」というように意訳したのでしょうか。

英語訳もNKJVは「burn with indignation」(憤りをもって燃える)は、その意味がわかるように訳しているように思われますが、NIVの「inwardly burn」(内部で燃える)は口語訳等と同じ表現ですね。





2015年「年の瀬」

2015-12-30 16:17:02 | ひつじかい日記(1)
2015年12月30日(水)



一人者の私は、
ふつうの人ならば、年末の一番忙しいハズの12月30日に、
30分のウオーキングコースを、
片道1時間ほどに設定して、
時津町を歩くことにしました。
9時少し前に我が家を出発、
15数分程先のジョイフルで、モーニング。





続いて
オランダウエストという花屋さんを右に見て、
20分ほど歩くと、



海辺の公園に到着

この公園に続く港は、かつて、
26名のキリシタンの人たちが殉教するために船から長崎に上陸した港です。



公園を出ると、
そこは、時津街道。


西彼杵郡という住所から、
多くの人が草深い田舎を想像され、
来られると、
「大都会」の連発は常です。

時津街道でJR長崎駅方面を見ると、


こんな感じです。
駅までは、交通渋滞がなければ、30分でもいけます。
現在の時津の難題は「交通事情」
年々増える大型店の導入で、
交通事情は最悪に近い状況です。

さて、
長崎名物数ある中で、



「かんころもち」も有名。
中にアンが入るとさらにグレイ度アップ、
ふつうのお餅よりも少し高めですが、
おいしいですヨ~

この通りにあるユニクロで買い物をして、

帰りはバスの予定でしたが、
お金がなくなったので、
また1時間歩くことになりました。



帰りは山側の道を歩きましたヨ。

しかし、
この街はホントに住みやすい、良き地です^^

「是非いっぺんおいでまーせ」
あれ、これは、長崎弁ではナカネ、


div style="text-align:center">さて、

大幅に遅れて、
1時に帰り着いたわたくしが、
遅めのお昼をひていると、
ピンポン、
(子どもたちの画像)
そしらぬ声で、「誰ですか?」
とお聞きする。
「あの、あの・・・」ばかり、

玄関を開けると、
突然、
「メリー・クリスマス!!!」



「子どもクリスマス」のアノ元気な男の子たちです。

彼らのことばを通訳すればこうです。

「クリスマスのプレゼントがまだ欲しい」

・・・

X  X
 >  
心の中で、

「あるわけナイヤロ~」

と、ワタシ。

しかし、カワイくもありで、
籠の中を探すふりをしていると、
なんと、ひとつ残っていたので、
初めて来た子どもにあげた。


2015年末感謝礼拝

2015-12-27 20:15:45 | 教会イベント
2015年12月27日(日)

☀☁

聖書:詩篇103篇

詩篇103篇を読むにあたって、
101篇からの流れを振り返ります。

101篇は、ダビデが公儀を行うにあたって、いかに完全を求めていたかが伺えます。
けれども、完全を追い求めているさ中でダビデは、
「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか。」(2)と、
神に問いかけているのはなぜでしょうか。
伝道の書23章16節には、
「あなたは義に過ぎてはならない(正し過ぎてはならないー新改訳)。
また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。」
とも書かれています。

やがて苦難の時が訪れ、
詩篇102篇で、
「敵は絶えることなくわたしを辱め
 嘲る者はわたしによって誓う。
 わたしはパンに代えて灰を食べ
 飲み物には涙を混ぜた」(9.10)
とまで嘆き苦しむ自らを吐露するダビデです。
けれども、(口語訳で、)12節では、
「しかし主よ」と、俄然、大胆に逆転に向かう信仰に固く立つ、
神へのブレルことのないダビデの活きた信仰を垣間見ます。
「But you,O Lord,are king forever;」(TEV)

さらに、主によって勝利を得た103篇でのダビデの詩には、
苦難によって信仰が廃れる様子を微塵も感じさせません。
それだけでなく、
100篇での、天に抜けるような晴やかな感謝にとどまることなく、
103篇では、苦難を得た者らしい深みを帯びた語調が読む人の心に響きます。
(2)新改訳「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と、
自分自身に向かって、慎重に自戒します。

私たちの心は弱く、今、素晴らしいと思える信仰の高嶺を歩んでいるように見えても、
いつ、弱さが露呈されるかはわかりません。
しかし、真の弱さを知る場所、
実は、そこで主は待っておられるのです。
弱さを知らされたダビデの詩は読む人の心と信仰に慰めと希望を与えます。
私たちが今年受けた苦難は、誰かを慰めるための恵みの蓄えです。
今年受けた試練の数々を大切に受け止めたいものです。

2015年の最終を迎え、
一年終わる度に、
主に対する信仰が深められ、
更に深い感謝をもって、主に向く者とされますように、
と、願ってやみません。

新年に祝福を!

「自我のあり方」

2015-12-13 00:05:37 | デボーションノート

だれでもたしについて来たいと思うなら。
自分を捨て・・・てわたしについて来なさい。  
マタイ16・24


「自我のあり方」

自我は、その人のいのちの殻である。
それは、私たちを囲い、誤って用いるなら私たちを孤立させる。
自我は、その人のいのちを保護すつための、神によって造られた覆いである。
しかし、この自我は、真のいのちが内から出てきて、
神との交わりに入るために道を譲らなければならない。
肉に欲が愛を装うように、
自我は人格を装う。

神は私たちの人間性を、ご自分のために意図された。
しかし、自我はその人間性を堕落させた

自我の特徴は自己依存であり、擁護である。
私たちの霊的生命を妨げるものは、
何よりもこの自我から生まれる絶えざる主張である。
もし、あなたが、
「私は信じることができない」と言うなら、
自我がその道に立ちはだかっているのである。
自我は、決して信じることをしない。
しかし真のいのちは信じずにはいられない。
神の御霊が働かれるのをしっかり見よ。
彼はあなたを、
あなたの自我をぎりぎりのところまで追い込まれる。
その時、あなたは逃げるか、
それとも自我という殻を破り、
真のいのちを立ち上がらせるかである。
聖霊はつねにものごとをある一つのところにしぼられる。
あなたの兄弟と和解させないものも、
あなたの自我である。
(マタイ5・23,24)

神はあなたを、ご自身との全き一致にまで導きたいと願っておられる。
しかしあなたが自己の権利を捨てない限り、
それは不可能である。
「自分を捨てなさい」-
自己に依存する態度を捨てよ。
真のいのちが成長するために。



オズワルド・チェンバーズ
「いと高き方のもとに」
ー365日の黙想ーから