祈りの祭壇 創世記12:1-8
2017年明けましておめでとうございます。
私たちはまず、年の初めに、ご一緒に神様を礼拝できたことを感謝します。
さらに、日本では、一年の計は元旦にあり、と言われてきましたが、
今年、私たちは、信仰の祖であるアブラハムに習って、
神さまの前にまず、祈りの祭壇を築くことから一歩を始めることに致しましょう。
では、祈りの祭壇を築くためにまずしなければならないことは、何でしょうか。
それは、
一、 神のことばに聞くことです。
カルデヤ人のウルというところに住んでいたアブラムに、ある日神の言葉が臨みました。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなく国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。
あなたは祝福の基となるであろう」(1,2)と神が語られたのです。
それは、父親のテラが死んだ後のことでした。
人生の転機で神の言葉を聞き歩むことはとても大切なことです。
神は語られますが、しかし、多くの人はその言葉に従いません。
時に言葉に従って祝福を得た人の話などを聞いて、
では従おうか、と思う人もいないわけではありませんが、
信仰の祖アブラハムは、バベルの塔事件以後、
人々は散らされ、神のことばを聞くということが暫くなかった時代のさ中にあって、
突然臨んだ神の言葉に従いました。
しかも、語られたその言葉は、「国を出、親族から別れ、家族を離れる」という内容です。
その頃の彼らの生活様式は、家畜を飼いながら生活する遊牧民のような在り方で、
常に他民族が攻め入る可能性を秘めていましたから、
親族から離れるということは、生活の保障が箕臼になり、
絶えず危険にさらされることを覚悟しなければなりませんでした。
今も神のことばに従うとはそのようなことを意味しています。
肉の糧、肉の支えから離れ、霊のことば、霊の導きに歩み始めるわけです。
ヘブル11:1には、
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と書かれていますが、
現実を見て計算したらとうていできないことがらを、神の計算にお任せする。
アブラムはそれをしました。
信仰は人間の計算、即ち肉の方法から離れて、神の言葉に従う事実とも言えます。
「主が言われたようにいで立った」(4)アブラムに、
主は再び現れて「あなたの子孫にこの地を与えます」(7)と、主は語られました。
「カナンの地」は彼が一歩踏み出さなければ与えられる地であったかどうかわからない地でした。
そこを出でよと語られた主のみ言葉にただ従った、
そこにカナンの地はあったわけです。信仰とは見えない形、従うとは、見える形での信仰です。
信仰の世界のできごとは、見えない世界でのできごとが見える形にされる。
そのカナンの地に戦後イスラエル国は建国され、
現在においても世界の焦点とされている事実を今も私たちは見ています。
ロマ4:18「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。と、書かれている通りです。
アブラハムは、そこに「祈りの祭壇」を築きました。
私たちは自分が幸せになるための祭壇を築くことはするかもしれません。
しかし、アブラムは「主のために祭壇を築」(7、8)きました。
(説教は続きますが、長くなりますので、残念ですが、後は省略させて頂きます。<(_ _)>)