長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

思い煩うな・・・O・チェンバーズ「いと高き方のもとに」から

2017-01-27 18:47:49 | 聖書日課

自分のいのちのことで・・・・
心配したりしてはいけません。
マタイ6・25



思い煩うな


「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、
みことばをふさぐ」ということを、
私たちは繰り返し自分自身の心に警告する必要がある。

この心のむさぼりから私たちは決して免れることができない。
このむさぼりの波はあらゆる形をとって
私たちに押し寄せてくる。
そのためには。基準を決め、
神の御霊によって立ち向かわなければならない。
そうでなければ、
これらのむさぼりは洪水のように
私たちの心の中に押し寄せてくるだろう。


自分のいのちのことで心配することは、
ただ一つのこと、すなわち、
神との関係だけに心をとめよ
ということである。

ところが、常識は大声を張り上げて言う。
「それはばかげたことだ。
自分がどのように生きるかを考えるべきだ。
何を食べ、何を飲むかを考えるべきだ。」と。
しかし、イエスはそのように考えるなと言われる。
この方は、私たちの境遇をよく理解した上で、
心配するなと断言しておられるのである


私たちはどんな時でも、
神との関係を第一にすべきである。
「労苦はその日その日に、十分あります。」
とある。
どれだけの労苦が、今日のあなたをおびやかしただろうか。
どのような小悪魔が、
「次の日は何をするつもりか」と
ささやいただろうか。

しかし、「心配してはいけません」と
イエスは言われる。
あなたの思いを天の父にだけ向けよ。

冬の空

2017-01-24 15:38:29 | 旅行
冬の空


寒波到来のnewsを耳にしつつ、家族の病気で急遽帰省することになった。心は重く、空も暗く、行きしの車窓から見る空はどんよりと暗く重たい雲がかかっていて、まるで私の心の様だった。
思う様に事は進まず、結局、私は半日ベッドの側で、ズーーーと、病人の話を聞くだけで終わってしまった。ところが、そこから顔色も、食事事情も解放に向かって急変し、願った方向には及ばなかったが、病人の顔には明るい希望が差し始めた。
帰路大雪のため、新幹線は遅れ気味だったが、福岡で特急カモメに乗り換え、長崎に近づくにつれて、空は青くはれ上がり、私の心もまた、明るい陽射しが差し始めた。

翌日、明るい声で退院の日付も具体的になり始めているという知らせが届いた。


それからの「ひつじかい日記」

2017-01-19 11:38:59 | ひつじかい日記(2)



<長与にあるフランスレストランの一角は、額縁の向こうはガラス透視になっていて、遠くの景色が絵の様に見えるのです>


2017年1月16日(月)

今朝は先ほどから、
ズーート、インターネットの旅行サイトを眺めています。
長崎から少し向こうの
信徒宅訪問を祈りつつ、考えつつ、チケットを検索。
旅行好きの私にはたまらなく充実した楽しいひと時。
けれども、主のみ旨から逸れて、
自分を楽しませためだけのものならば、
それは良くないと思い、
自分の思いだけで決定しないで、
他、2名の方に尋ねてみると、
進むが良しの方向。

ま、とりあえず、安くて良いチケットがある時に、
入手しておこう。
続いての導きに委ねて、


17日(火)

今日から
非公認の英会話同好会をスタートする予定だったものの、
唯一のパートナーが風邪を引いてこれなくなり、
急遽、礼拝堂をお掃除に切り替える。
バナナケーキを焼き、
ついでながら、
ストーブの火を利用して小豆をゆでる。
バナナケーキはみごとに失敗(';')
これらは、寒さの中、教会を訪れてくださる方のおもてなし用にもなります。

あなたの人生を豊かに美味しくしてくださる
神様を求めて来てください!
めぐみ教会はお客様歓迎です💛


18日(水)

朝の祈祷会に岡山からの旅行客2人。
懐かしいふるさとの教会の人たちのお顔に出会って、
嬉しくで仕方がなかった。

その旅行者は、
オーガニックレストランの経営者件シェフの方で、
7年前に時津に来て、その方々の経営されている
「グレース」によく似たお店を隣町の長与で発見して以来、
いつかご案内したいと思っていたので、
祈祷会が終わると即即と大村湾沿いにあるそのお店にご案内した。



テラスの向こうは大村湾の景色を取り入れた瀟洒な建物。
このテラスの雰囲気といい、内装といい、
やはり、岡山のお店と似ている。
オーナー夫人にお二人をご紹介したところ、
2カップルは意気投合され、
側で見ていても感動だった。



こちらのシェフのオオナーは写真にはいられなかったが、
誠実さが溢れる方で、
インターネットにも、その他の広告にも出されるお気持ちもなく、
本当にここのお料理を楽しんで下さる方にお食事を提供されたいとのこと。

一品一品その日その日の食材を大切にどこかしら楽しみながら造っていてくださる
のが良くわかる。
一度来るとまた来たくなる。
お腹も心も十分満足して、
「グレース」さんご夫妻は車で岡山に向かわれた。

🌸

嬉しいことには、
夜の祈祷会もまた、東京からのお客が一人加わられた。



嬉しいことは続き、
受験合格お祝いの(私ではなく子どもさんの)
松月堂のシーズケーキも届いた。
このケーキは長崎特有のショートケーキで、
ピーチとパインがカスタード入りのスポンジにのっかかている甘くてさっぱり感のあるところが絶妙。

実は、東京から来られたのは、
常連の2兄妹の姉妹で、
それぞれ家庭を持たれる三兄弟姉妹がたが揃ってご出席くださったのだが、、
仲睦まじく席をならべているお姿は絵になる風景。
ホンの一時、
私は、帰省した子どもたちを迎える母親の気持ちも味わわせて頂いた。
神さまはこのような形ででも、
慰めを与えてくださるんだネ。


🌸

洗礼を受けて間もない岡山の兄からは、
相変わらず、
電話の連続。
兄だけど、私は、まるで困った息子をもつ親になったようでもあり、
×××
この電話はいつまで続くのやら・・・

ともあれ、
神の子として良き育みが与えられますように!
祈るほかなし。





牧師の説教準備

2017-01-13 14:41:26 | 読書



2017年1月13日(金)

日本は今年最大の寒波に見舞われ、
九州以外の地方は大雪予報に、震えている中、
私は、15日の礼拝説教の準備をしています。

説教題は8日の「祈りの生活」に準じて、
「私たちの礼拝生活」説教箇所はロマ書12章1,2節。
今年教団目標の「日々、キリストへの献身」にも触れる予定。
(聖言は違っているが、)

そこで、私は自分の本棚から参考図書に、 
ホーリネス教団の松木祐三師の「ローマ人への手紙」と、
聖書神学舎教師会編の「礼拝の聖書的な理解を求めて」を出してきた。

松木師の「ローマ人への手紙」によれば、
献身と礼拝の相互性が非常に霊的に解釈されていた。

聖書神学舎編の「礼拝の聖書的な理解を求めて」は、
誰かに頂いたもので、
10年間ほど書架に眠ったままだったが、
以前から気になっていたので、
今日こそは、と読み始めた。
1頁開くごとに、
心のどこかで、礼拝に対して不可解と思えてた部分が、
非常に明快に解釈され、
今は、
何か、とてつもなくスゴイものを発見した様な気持ちになっている。
あえて、スナップをアップさせて頂きましたが、
もっと、良いことは、



こちらの、インマヌエル教団の藤本満先生が書かれた、
「聖書信仰」-その歴史と可能性ーを、
併せ読まれると、
さらに、現代に至る礼拝形式の推移なども把握できて、
理解が深まることと思います。

🌸

そこで、以下は、
「礼拝の聖書的な理解を求めて」からですが、
巻頭言の中で、
津村俊夫師からの呼びかけ、
-「礼拝」の問題は、いかに礼拝するかということよりも、
礼拝の対象であられる神をどれだけ親しく知っているかにある-
という指摘-P4

さらに、多くの先生方から指摘される「礼拝」に於けるご講演の中から、
-彼らが救われた目的は、神に仕え、神を礼拝することでした。-51頁
という明快な結論部分。(鞭木由行師「礼拝に生きる民」-十戒に見る礼拝の原則-から)

続いて、遠藤嘉信師編「礼拝におけるいけにえと祭司の役割」-レビ記から-では、
ナダブとアビブの異火事件(レビ記10章)から、
-それは、もしかすると、善意で、しかも主体的な礼拝行為であったかもしれません。
けれども、神はこの二人を打たれました。・・・聖書は、彼らの具体的な行為よりも、
「命じられなかたことをした」ということに焦点を当て、
それを深刻な問題として扱っています。
たとえそれが、善意で、主体的な行為であったとしても、
あるいはそうでなく、
やはり意図的に不遜な態度をもって、
これを軽々しく行ったということであったとしても、
いずれにせよ、
それは啓示されたみ言葉に対する自己流の解釈(自家製礼拝)や
不服従につながっていたということ

これが問題とされていたと思われます。
 つまり、自分で考えた方法ではなく、
神の定めた唯一の方法によって、かろうじて
礼拝者は神に近づくことができるのです。-
80-81頁


★今日のところは、
約半分ほど読破で、さらに、
礼拝について、聖書的に掘り下げられ、
曖昧だった部分が整理されることと、
大きな期待を抱きつつ
完読したく思います。

私の牧師人生は残り10年ほどとなってきていて、
今頃、最も大切な「礼拝」について、
こんなにも曖昧で、
もしかすると、
礼拝されている神様ご自身以上に、
自分の思い込みの方が
色濃くでてしまっていたのかもしれない、と、
恐れと、深い悔い改めを覚えている次第です。

これは、牧師にとって、
非常に大切なことと思い、
アップさせて頂きました。


元旦メッセージ「祈りの祭壇」

2017-01-11 01:09:26 | 説教メモ

祈りの祭壇 創世記12:1-8

2017年明けましておめでとうございます。
私たちはまず、年の初めに、ご一緒に神様を礼拝できたことを感謝します。
さらに、日本では、一年の計は元旦にあり、と言われてきましたが、
今年、私たちは、信仰の祖であるアブラハムに習って、
神さまの前にまず、祈りの祭壇を築くことから一歩を始めることに致しましょう。
では、祈りの祭壇を築くためにまずしなければならないことは、何でしょうか。
それは、

一、 神のことばに聞くことです。                         
カルデヤ人のウルというところに住んでいたアブラムに、ある日神の言葉が臨みました。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなく国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。
あなたは祝福の基となるであろう」(1,2)と神が語られたのです。
それは、父親のテラが死んだ後のことでした。

人生の転機で神の言葉を聞き歩むことはとても大切なことです。
神は語られますが、しかし、多くの人はその言葉に従いません。
時に言葉に従って祝福を得た人の話などを聞いて、
では従おうか、と思う人もいないわけではありませんが、
信仰の祖アブラハムは、バベルの塔事件以後、
人々は散らされ、神のことばを聞くということが暫くなかった時代のさ中にあって、
突然臨んだ神の言葉に従いました。
しかも、語られたその言葉は、「国を出、親族から別れ、家族を離れる」という内容です。
その頃の彼らの生活様式は、家畜を飼いながら生活する遊牧民のような在り方で、
常に他民族が攻め入る可能性を秘めていましたから、
親族から離れるということは、生活の保障が箕臼になり、
絶えず危険にさらされることを覚悟しなければなりませんでした。

今も神のことばに従うとはそのようなことを意味しています。
肉の糧、肉の支えから離れ、霊のことば、霊の導きに歩み始めるわけです。
ヘブル11:1には、
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と書かれていますが、
現実を見て計算したらとうていできないことがらを、神の計算にお任せする。
アブラムはそれをしました。

信仰は人間の計算、即ち肉の方法から離れて、神の言葉に従う事実とも言えます。
「主が言われたようにいで立った」(4)アブラムに、
主は再び現れて「あなたの子孫にこの地を与えます」(7)と、主は語られました。
「カナンの地」は彼が一歩踏み出さなければ与えられる地であったかどうかわからない地でした。
そこを出でよと語られた主のみ言葉にただ従った、
そこにカナンの地はあったわけです。信仰とは見えない形、従うとは、見える形での信仰です。
信仰の世界のできごとは、見えない世界でのできごとが見える形にされる。
そのカナンの地に戦後イスラエル国は建国され、
現在においても世界の焦点とされている事実を今も私たちは見ています。
ロマ4:18「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。と、書かれている通りです。
アブラハムは、そこに「祈りの祭壇」を築きました。
私たちは自分が幸せになるための祭壇を築くことはするかもしれません。
しかし、アブラムは「主のために祭壇を築」(7、8)きました。  

                         

(説教は続きますが、長くなりますので、残念ですが、後は省略させて頂きます。<(_ _)>)