8日(日)2014年ペンテコステ・花の日礼拝
朝10時30分 今年は上五島有川からも出席されます。
どなたでもwelcome!!
☆
人は聖霊を受けるとき、
新しい力が注がれます。
★
15日(日)父の日礼拝
朝10時30分
今年は大分県の中津福音キリスト教会の小松清志先生がメッセージャーです。
ご覧の通り、
小松牧師は、お話も、手品も大変お上手です。
ご期待くださいヽ(・∀・)ノ
ご来会くださった、全ての男性の方々にプレゼントがあります。
8日(日)2014年ペンテコステ・花の日礼拝
朝10時30分 今年は上五島有川からも出席されます。
どなたでもwelcome!!
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人は聖霊を受けるとき、
新しい力が注がれます。
★
15日(日)父の日礼拝
朝10時30分
今年は大分県の中津福音キリスト教会の小松清志先生がメッセージャーです。
ご覧の通り、
小松牧師は、お話も、手品も大変お上手です。
ご期待くださいヽ(・∀・)ノ
ご来会くださった、全ての男性の方々にプレゼントがあります。
「罪のはじまり」創世記3章
創世記1章は「天地創造、万物のはじまり」、
2章は、「アダム・エバ家のはじまり」、
3章は、私たちの人生の不幸の原点である「罪のはじまり」が書かれています。
1) 蛇の誘惑
幸せだった家庭生活に黒い誘惑の魔の手が伸びてきました。誘惑者の登場です。蛇のことばに注目して下さい。
2章16節の主の言葉は、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」
ところが、3章1節の蛇の言葉の変化に注目してください。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
それに対して答えたエバの言葉も曖昧さが目立ちます。3章3節「ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました。」
そこで蛇は間髪を入れず3章5節「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」と、全く違った結論(サタンの使いであったへびの思う通りの)に導くます。
2)エバの動機
では、誘惑されたエバの胸の内はどの様だったでしょうか。
3章6節“女がその木を見ると、それは①食べるに良く、②目には美しく、③賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。”
<マタイ4章1-11節 誘惑の山> イエス様も同様のサタンの試みにあわれました。 1「食べるに良く」40日間の断食で空腹の主イエスにサタンは「本当に神の子なら石をパンにできるでしょう」(マタイ4:3)とささやきます。衣食足りてこそ本当の信仰とサタンは思わせます。2「目には美しく」サタンは人の虚栄心に働きかけて、自分を素晴らしい者に見せたがらせ、高い山から飛び降りてカッコ良い超人的な姿を人々に見せたい誘惑のわなをしかけます。③「賢くなるには好ましい」サタンはイエス様にも「この世のすべての国々とその栄華を見せて」高度な学問、高い地位、自分に箔をつける。人は少しでも自分を立派な者であるかのように見せることをたくみに演出させます。サタンはそうした人の弱さに忍び寄ります。
「自由」と「我がまま」の線引きは難しい。サタンの唆(そそのか)しにあっていることに気がつかないほど、私たちはごく自然にエバの世界に生きています。
3)結果(サタンに誘惑された結果)
①目が開け、裸であることがわかった(7)。本当に純真無垢な心は罪の咎めから解放されています。しかし、罪が入ってくると裸の咎めから逃れられない。自分の中にある憎しみやそしりなどの悪感情と向かいあいながら人は生きる者となりました。
②人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。(8) 神の顔を避ける。みことばから離れ、めぐみからそれていく。
③「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(12)「へびがわたしをだましたのです」(13)
言い訳、罪のなすり合いが始まり、さらに、「あの女」と言うことばがでるほど愛が冷えて、人を責める者となりました。
神が与えられていた「愛」は罪の侵入によって、完全に壊れたのです。それは、丁度、ウイルスが入ると、パソコンのデーターが壊れるように壊されてしまったのでした。
サタンに誘惑されたアダムとエバは、サタンの言葉にきいて、主のみことばの教えから離れ、
主イエスはサタンの誘惑の中で、みことばに固く立ってサタンの言葉を退けました。
「罪の支払う報酬は死」これは、みことばに背いた結果、彼らは、霊的死を刈り取ったことを意味しています。
人類の粗から引き継いだ罪の習性を負った人類は、永遠に神様のめぐみの世界から失脚してしまいました。
ところが、ハレルヤ!
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの 主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 (ローマ6:23)
マムシの毒に血清注射が有効であるように、御子イエス・キリストの贖罪、十字架の血は、罪と死の暗黒の中にいた人類に、完全なる真の命の回復を与えてくださったのです。
創世記2章 「家族のはじまり」
Ⅰ) 「人がひとりでいるのは良くない」(18)
2章は1章27節の人の創造について、更に詳細に説明が加えられている。
7節には最初の人アダムが造られた様子が描かれている。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(7)と。
そこで神は、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(18)と、仰られたが、
なぜか神さまはすぐにエバを造られず、先に、野の獣や空の鳥に名前をつけることをアダムに命じられた。
私が不思議がっていたとき、昔保育士をしていた時のことを思いだした。
保育のために、保育士たちは単元を定め、ねらいに沿って保育計画をたてた。
一つのねらい(目標)を達成するために、子どもたちの動機を引き出すための留意点を細かく記載していった。
アダムは神様のお言いつけにそって動物たちに名前をつけながら、全ての動物がツインであるにも関わらず、
なぜか自分だけがシングルであることに気がつかないはずがないことを神様はご存じではなかっただろうか?
現実の結婚の導きもまた、「働きかけて願いを起こされる神」(ピリピ2:13)が、双方のうちに働きかけられ
結婚への動機をまず導かれる。
アダムは動物たちに命名しながら、なぜか自分だけがシングルで、
他の動物では満たされないものを感じなかっただろうか。
マタイ19章12節で主イエスは、「母の胎内から独身者に生まれついているものがあり、
また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。」と仰られたが、
だからと言って「ひとがひとりでいるのは良くない」のです。
羊は群れて生きるように、独身者にも共に語りあいつつ生きる友人や隣人を主は必ず備えておられる。
全ての人は欠けている部分をもって生まれ、互いにその欠けを補い合う存在として造られているので、
互いに受け入れ合い、赦しあうことができなければ、群れて暮らしてはいけないようにされているのだろうと思う。
神は決して人をひとりで生きる者として創造されなかった。
Ⅱ)「彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(18)
「助け」の語源の「エゼル」は、旧約聖書中20回使われている。
例えば、サムエル記17章20節では、「神がイスラエルの民の助け手となる」の「助け」が「エゼル」である。
神がイスラエルの助けとなられたので、神は人の次になったのだろうか?決してそうではなく、
親が子どもを助けるように、未熟なイスラエルの助けとなられたのです。
「アダムのためのふさわしいエゼル」は、アダムの僕という意味ではなく、
アダムを補える成熟したエゼルができる人です。
新約聖書でパウロが言っている「妻は夫に従う」の「従う」は「一緒に考えて仕える」という意味だそうです。
欠けある者同士が、共に考えつつ仕え合い、補い合ってゆける人生はどんなに幸いなことでしょう。
Ⅲ)「人から取ったあばら骨でひとりの女を造り」(22)
マシュー・ヘンリーは、
「神は頭の骨から女を作らなかったのは、女が男を支配しないため。
また、足の骨から作らなかったのは、足で踏みつけないため。
あばら骨から造られたのは、同等でかつ、エバはアダムから守られ愛されるためだった」と注解しました。
私たち人間は、神の愛によって創造され、また互いに愛する者として創造されました。
使徒ヨハネもまた、
「もし、わたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(Ⅰヨハネ4:12)と、言いました。
更に、補足ですが、
ご夫婦の方々に対して、
「一体となる」(24)の原語的な意味は、ニカワ質でくっつけるで、言葉を変えれば、
永久接着剤で離れないようにくっつける、と言う意味があるそうです。
ですから、これから、結婚を考えておられる方々は、
それ相当の覚悟と決断をもってなされることをオススメして止みません。
めぐみの庭に可愛いめだか17匹
18日夕Sさん夫妻が届けてくれました。
名前はまだありません。
瓶はお隣のM夫人から届けられましたV^^V
いつまでも元気でいてください!
一服の清涼剤の様に、
癒やされます。
三軒となりに飼っている亀です。
50センチは十分あります。
普通の大きさではありません。
それは、一ヶ月前のことでした。
礼拝後のランチタイムが終わり、2人の良識あるメンバーの方が、
「教会で大きな冷蔵庫を買いましょう」と、突然牧師の私の所へ言ってこられたのです。
オウム返しに私は、
「今は冷蔵庫よりも、伝道」「中古でも」「電気代が」などと返事に渋った。
けれどもそのお二人は、「中古はダメ」「電気代はむしろ安くなります」と説得され、
結果は、「5月のコイノニアミーティングで皆で話し合いましょう」と皆さんの話合いにお委ねしたのでした。
使用していた冷蔵庫は、代々の伝道師の方々から引き継いだ個人用のもので、
一人ならば十分でしたが、教会行事には間に合わない大きさでした。
一ヶ月後の話し合いの結果は全員賛成で、8万円ほどのものを購入することになりました。
決まったならば善は急げで、早速、連休のバーゲンを狙って大型電気ショップへ走りました。
そこで目にしたものは、3ドア省エネタイプの8万5千円のものが、今ならば6万1千円になり、
しかも交渉の結果5万8千円を消費税込で6万2千640円にまで値下げして下さることになり、
迷わず決定致しました。
その冷蔵庫は、一週間後の昨日2時に教会に到着。
新しい冷蔵庫がキッチンに入ると、ヤハリ嬉しい!!
同時に私の頭の中は古い冷蔵庫の処分の件でも一杯でした。
リサイクルショップに問合わせたところ、
一軒目は、「製造年月日が7年超えると引き取れない」と断られ、
もう一軒目もすぐの返事を頂けず、「見た結果でない引き取るれるかどうかは決められない」とのことでした。
製造年月日が2005年で現在使用9年目の冷蔵庫だったからです。
リサイクルショップからは6時に視察に来ることになり、
私はまるで運動会の様に、古い冷蔵庫から新しい冷蔵庫に品物を移し、
何とか引き取って頂けるように、真っ白にキレイにキレイに、ピカピカに磨きました。
リサイクルショップの方は見るなり、「引き取るだけで宜しければ」ということで、
翌日引き取りに来てくださることになりました。
そのときリサイクルショップの方は言われました。
「これが10年たっていたものでしたら引き取れませんでした。
廃棄量、運搬料等をいれると7千円近い費用がかかったことでしょう」と。
はからずも9年目の今、冷蔵庫購入の提案が出されたのは神様のご配慮だったと思えるのです。
一番グッドタイミングな時期に一番良いものを、相当安価に入手できる神様の計らいを覚えました。
それがたとえ小さなものでも、神様が差し出してくださるものを、そのとき、素直に受け取ることができる人は幸いです。
私たちの心は信じるべきか、そうでないか、どうすることが得策か、考えているうちに、
いつの間にか神様そっちのけで、関係する人たちへの不満と疑いが忍び込んできて心を混乱させます。
けれども、聖書のみことばは、常に私たちに、
「すべての道で主を認めよ」
「主によって喜びをなせ、主に信頼せよ、」と、
ただ、主を信頼することをススメています。
このまま、素直に神様が示される道を感謝しつつ歩む者でありたいと、
新しい冷蔵庫を前にして、シミジミと思ったことでした。
めぐみ教会の皆さん、冷蔵庫感謝します。
想像していた以上にGOODですヨ!