2014・1・31
寝返りをうってばかりの夜、時計の針は午前2時。
少し、早めのデボーションに切り替えて、いつもの日課「エマオの道で」を開く。
そこに描かれていた一人の女性の生き方に、心がクギ付けられる。
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「はじめ彼女はクリスチャンではありませんでしたが、
子どもたちは日曜学校に行くべきだと考え、毎週車で送り届けていました。
そのうちに、子どもたちはイエスについて学んだことを母親に話すようになり、
子どもたちの話を通して、段々とキリストへの渇望は深まっていきました。
ある日彼女は様々な不安を抱きながらも、教会の門をくぐり、
そこで、はっきりとキリストを見いだしたのです。
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彼女は熱心に教会に通うようになり、
だれもが魅入られるほどの輝きを放つようになりました。
その美しさは世的なものとは違い、
イエスの愛の輝きから来ていました。
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やがて、この女性は癌に冒されてしまい、
身体には、さまざまな医療機器が取り付けられました。
ある日、彼女は医師に尋ねました。
「チューブをみんな取ってしまったら、私はあとどのくらい生きられるのでしょうか」。
「1週間ぐらいでしょう」
「先生、それでは機械をつけたままだと、どのくらいでしょう」。
「6週間ぐらきでしょう」。
すると彼女は「それならこの機械を取り外してください。私はその5週間をイエスさまといっしょに過ごします」。
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夫が見舞いにきたとき、彼女は言いました。
「私が死ぬ時間について、いっしょに祈ってほしいの。
もし私が夜中に死ぬと、夜勤の看護師さんは私と仲良しだから。取り乱すと思うとかわいそう。
でも午前2時45分の看護交代の後なら、日勤の看護師さんに替わっているから、
彼女なら冷静に私の死を見守ってくれると思うわ」。
それから、約24時間後の午前2時45分にこの女性は主のみ許に召されました。
彼女は死に直面していても、死がいかなるものなのか最後までわからなかったでしょう。
しかし、自分がどこへ行くのかを知っていました。
死期においてさえもこのように自分のことよりも周囲の人を気遣って、自分の未来に対しては安心しきっていました。
・・・これこそが真の自由です。」
読後、言葉を失ってしまいました。
この様な生き方もあるのです。
み言葉は静かに語りかけます。
「安らかに信頼していることにこそ力がある」(新共同訳)イザヤ署30章15節と。