長野周辺の山歩きと山野草

長野県北部を中心に山歩きと野草の開花状況を報告しています。植物の不思議な生態についてもレポートしています。

京ヶ倉(990m)~大城(生坂村)

2010年12月02日 | 山歩き
2010年11月30日 万平登山口から京ヶ倉(990m)~大城を縦走し眠峠に下りて国道19号から万平登山口に戻りました。

おおこば見晴台から
 山間を蛇行する犀川と北アルプスの展望が素晴らしいです。生坂ダムが見えます。ダム湖は水鳥が多く見られ水鳥公園が設けられています。
解説板には
おおこば見晴らし台
眼下に生坂ダム・水鳥公園をはじめ、裏日岐の日岐氏館跡・正福寺跡・日岐城・白日方面が、南方には表日岐が見える。国道沿いには小舟の集落が見える。

と書かれていました。
 このあたりから稜線までヒカゲツツジが特に多くあるそうです。花の時期は4月下旬から5月上旬頃らしいですね。花が咲いているときにまた訪れたいと思いました。ヒカゲツツジは谷沿いの岩壁や岩尾根などに生育するそうです。まさに山の花。日当たりがよくない所にもあるのでこの名前がついたといいます。


登山道から京ヶ倉(990m)
 険しく登るのも大変そうに見えますがそれほど労せず登れました。双眼鏡で山頂付近を見たら大きな蚊柱が立って黒い煙のように見えました。


剣刷山(けんすりやま)の山頂から
 尾根上の分岐点で京ヶ倉と逆の南方に行きます。山頂には標識はありませんでした。犀川はほとんど見えないのですが眺望は良いです。


北アルプスと犀川の蛇行
 犀川の蛇行が印象的で不思議な景色です。
 

とどの背岩
 えぇ!?こんなつるつるした急斜面を登らなけらばならない?ムリだー!と思ったら岩の左手に巻き道がありました。ネーミングがうまいですね。ほんとトドの背中のよう。小さな石が混じった砂岩の一枚岩なのですね。


京ヶ倉の山頂
 生坂山脈の最高峰で標高990m。戦国時代は番兵の見張り所でのろし台だったそうです。「ここからは上生坂万平の居館をはじめ、生坂村、明科町、安曇、筑北方面の山城がよく見える。」と解説板に書かれていました。立派な山頂標がありました。「大城・京ヶ倉を広く世に出す会」というのがこの石碑を設置したようです。そこには「吾里や飾り兜を姿にて 犀水」という生坂村出身の法学者・加藤正治氏の俳句が刻まれていました。「吾が里は高いところから見るとまるで端午の節句に用いる飾り兜のようだなぁ(感嘆)。」といった句。おそらく2枚上の写真の景色を見て詠んだと思われます。


京ヶ倉からの展望
 犀川と湯の沢温泉
 山頂近くの赤松にホシガラスが来ていました。器用に足で松ぼっくりを押さえ、力強くつついて種を食べていました。


大城(標高約980m)
 村指定文化財に指定されています。本郭の広さが15mX13mで北側の下に郭(くるわ)が三箇所あります。そのうち「大城二のくるわ」には解説板が設置されていました。丸山氏の本城、仁科氏第一の要害でしたが、天正十年(1582)秋に小笠原氏に攻められて落城したそうです。


物見岩
 戦国時代に見張り台として使われていた岩です。


物見岩からの展望
 生坂草尾方面がよく見えます。写真の中程、犀川の河畔に白く四角い建物が見えます。この施設は広津発電所です。


筑北方面の展望


はぎの尾峠
 山の中では珍しくたくさん看板がありました。まるで別荘地の入り口のようです。解説板には
昭和40年まで大乗や入山方面へ行く重要な生活道路の峠道であった。明治以降は入山分校の生徒が昭和40年まで上生坂の本校へ、また、生坂中学校への通学路でもあった。尾根を北へ歩くと眠峠を通って込地方面へ下る。

とありました。昔はこの峠を超えて通学していたのですね。毎日大変だったことでしょう。



 枯葉の中に秋の斜光。この雰囲気がとても好きです。


グレースの森記念林
 森林整備に対する寄付を活用し設置されました。森林の機能を十分に発揮し次の世代に健全な森林を引き継ぐコンセプトの記念林です。


イワカガミ(イワウメ科イワカガミ属)
群生地がありました。寒くなると葉の色が暗赤色になります。凍らないように葉の中の成分を変えた結果赤くなるものと考えられます。暖かくなるとまた緑色の葉に戻ります。



 林道「雲根線」の写真です。この山域はこのような細かな礫が含まれる砂岩が多く見られました。



 顔の黒い羊。体は厚いセーターを着ているようで暖かそう。でも顔と足は素肌?このアンバランスはどういう事でしょう。冷え性にならないのでしょうか。


お地蔵様
大城登山口にあるお地蔵様は、木の祠に安置されています。正面の戸は開けられますが普段は閉められているようです。疫病や災難が続いたとき、土の中に潜ってお経を唱え続け成仏した往生したとの言い伝えがあるとのことです。