指揮者 神尾昇の一言

日々の生活の中でちょっとした事などがあったら、ちょろっと書き留めて行く、そんなブログです。

死をもって、死を滅ぼす。

2012年09月25日 | Weblog
昨日、合唱の練習をしていて、セルゲイ ラフマニノフの「晩祷」の10番を歌った時に、
最後の歌詞、「キリストは死をもって死を滅ぼした」
という部分を私は、「考えれば考える程、理解が不能」
と言いました。
昨日に引き続きになりますが、私は結構、「生死」について考えています。
この10番の前の9番は、イエス キリストが復活してくる場面を描いています。
とても劇的で、
香油をもった女性が、キリストの遺骸がない事に驚き取り乱したところに、
天使が来て、救い主が復活したので、驚く必要はない
と言います。
 
そしてこの10番になるわけですが、大雑把に訳すと、
「救世主の復活を見て、ただ一人罪なき者イエスを拝み奉ろう
 何故ならただ一人の我らの神であるから
 全世界の信者よ、聖なる救世主の復活を拝もう
 何故なら十字架によって全世界に歓喜が齎されたのだから
 主は磔刑を耐える事によって、死をもって死を滅ぼした」
 
という内容のものです。
で、この死をもって死を滅ぼす、
ということがどういうことなのか、分かりません。
単純に復活したのだから、死から逃れた、
と言えばいいのかもしれませんが、
死、というものは「ない」ものだ、と私は考えています。
生、は「ある」もの。
死は「ない」ものなのであるから、恐れるに足らず。
無に帰す、ということです。
「無」という概念も難しく、「無」と言った時点で実は「有」に転じています。
本来は「無」を現す言葉は存在しないのです。
なぜなら、「無」だから。
だから「無神論」と言った時点で、「神」の存在を認めている事になります。
話は逸れましたが、だから「無」をもって「無」を制す、
ということは、0×0=0ということ?
「有」を「無」にする事はできます。
どんな大きな数字も0をかけた途端、「無」になります。
ということは、「無」から「有」を生み出すのが、つまり「神」である、
ということか?
ということです。
 
宇宙の存在する前は「無」だった、といいます。
「無」という「謎」が解けない限り、その状態を説明するのは無理でしょうが、
その謎を解くためには137億年前に遡らなければなりません。
私の理解を遥かに超えています・・・ 
 
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4 コメント

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にわかクリスチャンの生活と意見 (シメオン爺)
2012-09-26 01:17:25
死をもって死を滅ぼす。確かに難しい概念です。理性的に理解と説明が出来ないのかも知れません。
復活とは何か。パウロは「肉の身体ではなく霊の身体」で復活すると言っています。感覚的に肉体そのもののよみがえりでは無いと思うのです。
生と死、有と無、の二元論での手法では括りきれないと思うのです。
誤解を恐れずに言えば、復活を信じたからクリスチャンなのではなく、復活に関心を持ったからクリスチャンになった様に思います。
プロテスタント特にカルビン派には予定説と言って、救われる人は予め決まっているが誰がすくわれるか人間は知ることが出来ない事になっていると言う説もあります。
2000年の間に疑問と理解は出尽くしているのでしょう。
シメオン爺さん (Noboru)
2012-09-26 13:38:37
この件に関して、議論はつきないでしょうね。
「生」や「死」が永遠の謎でしょうから。
でもだからこそ、議論する意味、意義があると思います。
大雑把ですが… (HF)
2012-09-28 21:18:31
神尾先生、こんばんは。
クリスチャンではないのですが、キリストの死を以って、原罪の結果としての一般的な「死」を滅ぼすと解釈してます。
http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie03.html
HFさん (Noboru)
2012-09-29 11:18:29
非常に分かりやすい解説でしたね。
ありがとうございました。
何れにしても、私達生きている人は、常に「死」に向き合っていなければいけない、と私は思います。

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