指揮者 神尾昇の一言

日々の生活の中でちょっとした事などがあったら、ちょろっと書き留めて行く、そんなブログです。

母との別れ

2013年03月24日 | Weblog

10日程、ご無沙汰をしておりました。

3月14日の夜、混声合唱ショコラから帰ったら父からの留守電が。
父から直接電話がかかってくる事は珍しく、
私が電話をして父がでたとしても、直ぐに母と代わっていたくらいでした。
そして、その留守電の内容が衝撃的なものでした。
「いま、お母さんが倒れて救急車が来とる」

そして慌てて電話をすると、父が直ぐに出て来て、
母が台所で急に倒れて、救急車を呼んだけれど、心臓が止まっている状態、
現在蘇生術を施している。
という内容でした。
私はそれを聞いて、「そう・・・」としか言えませんでした。
つまりもうそこで私自身は覚悟しました。
私には姉と弟と妹がいるのですが、
早速弟に連絡。
「明日なるべく早い便で小豆島へ行く」
という返事でした。
妹からも電話がかかって来て、
「仕事がどうしても急に抜けられないから、明日の夕方には行く」
という返事でした。
私は二人には父から聞いた状況から「ちょっと難しそう、覚悟はしておいた方が良い」
と伝えました。
姉には電話しましたが通じず、留守電とメールを入れました。
その場で直ぐに次の日の朝一番の飛行機を予約。

そして砂を噛むような食事を終えて、11時半頃、父から再び電話。
自宅からでしたが、
「お母さん、あかんかった」
という事でした。
旅支度を整え、ベッドに入るもよくよく眠れず朝を迎え、
北千住まで電車で向かいリムジンバスで一路羽田空港へ。
そのバスの中で前回のブログの記事を更新しました。

小豆島へ11時過ぎに到着。
弟が神戸から乗って来た自分の車で父とともに迎えに来たのですが、
その足でそのまま葬儀屋へ。
私達は身内の葬儀を出すのは初めてなので、
正直右も左も分からない状況でしたが、何とか段取りを整え実家へ帰宅。
先ずは横たえられている母に会いに行きました。
本当に眠っているような穏やかな死に顔でした。
そのまま「あら、帰ったん」と起きてきそうな表情でした。
起きて「何や、しんどそうな顔やね・・・」と言われるかと思いました。
しかし母の顔に手をふれましたが、とても冷たく、
その冷たさはやはりもう血が通っていない、という現実を私に伝えました。
それまで、自宅にいるときも、電車やバスや飛行機や船に乗っている時も、
弟や父の顔を見た時でさえ、泣きそうになるのを辛うじて耐えてきましたが、
母の冷たい顔を触った途端、とうとう我慢が出来なくなりました。
「どうしてこんな急に逝ってしまったん、お母さん・・・」
私はちょうど一ヶ月後に小豆島でK-mio Chorを引き連れ、
小豆島で指揮者として初めての仕事をする予定なのですが、
どうしてそこまで待ってくれなかったのか・・・
それが本当に無念でなりませんでした。

しかしそこからはそんな感傷に浸っている時間が与えられませんでした。
親戚縁者への連絡は私が帰る前に弟が概ね終わらせてくれていたのですが、
ホールではなく、自宅で法要を執り行う事になった、
次の日の通夜、またその次の日の告別式に向けての準備、手配に追われて、
そのうちに妹夫婦が到着、遅れて姉と甥二人が到着で、
皆の食事の準備などに追われて、
という風に実に慌ただしい時間を過ごす事になりました。
母の葬儀を行ったのは私達家族が「子供部屋」と呼んでいる、
20畳以上ある離れの部屋だったのですが、
夜はそこへ集まり、母の死に顔を見ながら、
10何年振りに集まった兄弟姉妹で話をしました。
母は生前、私達が一堂に会さないのも心配していましたから、
母が死ぬ事によって皮肉にもそれが実現したんだな、
お母さんゴメンね、
と思ったらまた涙が溢れてきました。

次の朝も早くから起きて色々な仕事が待っています。
父は酪農家なので、こんな日も仕事を休む事が出来ませんので、
その二日前まで母がしていた、父の朝食の準備などをしなければいけません。
そして家に集まっている人たちの食事の準備やら何やらで、あっという間に時間は過ぎ、
その間にお通夜の準備として、死者に着物を着せ、納棺。
「おくりびと」という映画を観ていましたが、正にその風景さながらの所作でした。
小豆島の葬儀では、御看経(おかんき)というのがあり、
通夜と初七日は、地域のおばさんにお願いして、
お経を上げてもらいます。
私も弟も知らなかったので、
どなたか知り合いで「おかんき」が出来る人がいますか?
と訊かれて、「はあ、それは誰でも出来るものなんですか?」
と聞き返してしまいました。
二人の方が見えて、般若心経を唱えて下さるのですが、
その方々へのお礼も葬儀屋さんが立て替えてくれました。

この日の夜はさすがに私も相当疲れていて、
そこまでの体調も良くなかったので、
五時間くらいは寝て、いよいよ告別式当日。
棺にお弁当を入れないといけないのでその準備。
東京から私の指導している人でもあり、母の友人でもあった方から、
お悔やみにと送って頂いた鈴波の粕漬けの魚を焼き、
ご飯を炊き、母が好きだった卵焼きを焼き、
母が自ら焼いたパンが冷凍保存してあったので、
それらを入れて完成。
私達も順に朝食を摂り、13時から行われる告別式の準備。
私の妻も私が小豆島入りした同じ船で来たので迎えがてら昼食の総菜の買い出し。
しかし結局それらは慌ただしさの中で時間がなく夕食に回す事になりました。
13時からの筈だったのに、お寺さんがちょっと遅れて到着。
焼香を済ませ出棺。
私は足の悪い父に代わり喪主を務めていたので、
挨拶などをし、火葬場へ。
点火のスイッチも私が回しました。

お昼も摂っていなかったし手持ち無沙汰なので、
車を走らせお茶やお茶菓子を買って来て待つ事、約二時間、
母は骨になって出てきました。
父が「とうとう骨になってしもうたな・・・」
とボソっと言ったのが印象的でした。
お骨を拾って帰宅。
父は遺影、私は骨壷を抱えて帰ったのですが、
骨壺から温もりが感じられて、それがとても不思議な感覚でした。
さっきまではあんなに冷たかったのに・・・
帰ったら早速初七日の儀式。
再び御看経をしてもらいました。

妹夫婦と弟の家族が神戸行きの船に乗って帰る、
ということで慌ただしく夕食を食べさせて見送り。
さすがに私も疲れたので、港まで見送った弟たちが帰ってくるまで横になっていました。
その晩はちゃんと布団を敷き2時頃には就寝。
次の日の朝は姉たちが帰る、ということだったのですが、
揃って寝坊。着の身着のままで出かけるのを送り出し、
朝食などを摂ってから郵便局や銀行へ。
母が急にいなくなったので、何がどこにあるか父も私達もさっぱり分からない状態。
とりあえず通帳は見つけたけれど、
金融機関へ行って「他に何かありませんか?」と訊く始末。
母もこうなる事を予想していたのか、妹の簡保などは亡くなる前の日に全て解約していました。
それらの整理や、葬儀屋の清算などは夜まで残る弟に任せて、
私達は夜自宅へ帰ってきました。

これらが先週末からの一連の動きでしたが、
ひとつ思った事といえば、葬儀というものは亡くなった人のためのものですが、
遺族のためにも実はありがたい儀式なんだな、ということです。
葬儀屋がいろいろやってくれる、とは言え、
やはり遺族が先導をとっていろいろなことをしていかなければなりません。
そして家事は母がやっていたわけですから、
炊事や洗濯もしていかなければなりません。
つまり、悲しみに暮れている時間がないのです。
納棺する時や、出棺する時や、火葬する時に、
「あ、ちょっと待って下さい」と言う隙もありません。
それにやらなければいけないことが多すぎて、
疲れている時間もありません。
私は一緒に住んでいませんでしたし、
昨年は瀬戸内国際芸術祭の事があるので二度帰りましたが、
一年のうちで母に会わない、ということも結構ありましたし、
電話で話しするのも多くて一週間に一度程度でした。
だから、亡くなった、と言っても自宅へ帰ってきてもあまり実感として湧いて来ないのは事実です。
でもやはり、こうやって文章にしてみたり、母からもらったものなどを目にすると、
思わず胸が苦しくなるのも事実です。
こうやって、徐々に自分の中に受け入れていくのだろうな、
と思っています。

帰って来て最初の仕事が川田正子音楽教室の春の発表会の伴奏の指揮でした。
思えば川田正子先生も、2006年に急に亡くなりました。
それでもそれから毎年欠かさず、この発表会はやっていますし、
演奏会をやる度に、川田正子先生が会場にいらっしゃる気がしますし、
その精神は受け継がれているということを肌で感じます。
その夜はK-mio Chorの練習でしたが、特にモーツアルトのレクイエムを練習する時は、
やはり母の事を思い浮かべるのを禁じ得ませんでした。
そして「コスモフラワー」は小豆島で演奏する予定の曲。
この曲を小豆島で演奏するきっかけを与えてくれたのは母でしたので、
やはりどうしても気持ちが入ってしまいます。
次の日の合唱団ショコラの練習でも、フォーレのアヴェ・マリアをやったのですが、
やはり母の事が胸に浮かんできます。
こうやって一人の音楽家として、一人の子供として、
自分の精神の中に、音楽の中に亡くなった人の精神が生きているんだな、
と感じる事が出来ます。

母の葬儀に関しては父の希望もあり、密葬という形で、
ということでしたので、多くの人には知らせませんでした。
しかし私の関係者である皆さんから、献花や弔電を多数頂き、
自宅の葬儀会場が母の好きな花で一杯になりましたし、
何よりも、それが私の心の大きな支えになりました。
そして個人的にも、このブログのコメントにも、
たくさんのお悔やみや励ましのお言葉を頂き、
本当に本当に胸がいっぱいになりました。
私は生きていて良かった、と思いますし、
音楽をやっていて良かった、と本当に心から思いました。
 
そんな私を産んでくれた母に対しては、
どんなにどんなに感謝しても仕切れませんし、
そんな私を支えて下さる皆々さまにも、
どんなにどんなに感謝しても仕切れません。
これからも母や、皆さまの思いを胸に、
さらに音楽道を極めるために精進していきたいと思います。
このブログも再開していく所存ですので、
どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (風の子)
2013-03-24 12:15:56

本当にご愁傷様です
身につまされることも多々あり、涙なくは読めません…… 祈るだけです

ブログに関連しますが、辛い時は音楽がとても心の底に関わってきますね(本当に辛い時はなにも受け付けませんが) 音楽やっててよかったとも思います

小豆島での演奏はお母様がいらっしゃる四十九日法要前日ですのでお弔いの気持ちも含めて歌わせて頂きたいと思います
返信する
Unknown (マイスターフォーク)
2013-03-24 18:39:45
ご愁傷様です。


とても御丁寧で有様が浮かび上がり委細感じいりました。


母上の思いは貴兄の胸に永遠に宿り音楽家としてのご活動を支えてくれると思います。


どうぞお休み下さいませ。
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Unknown (Mastin)
2013-03-25 08:50:04
本当に心身共にお疲れのことと思います。喪主ともなればなおさらです。まだしばらくは安堵の余地がないと思いますが、早く平穏な状況が戻ってくることを祈っています。そして、更なる音楽的発展をなされる事を願っています。
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心うたれました (夕立)
2013-03-25 09:30:05
 ◎丁寧な日記帳で当日の様子を知りました◎

  きっと、先生の感性がより以上研ぎ澄まされこらからの音楽演奏にプラスとなるでしょう
 これから、頑張って悲しみを乗り越えて行きま しょう。私たちもついていきますよ~~~
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皆さまへ (Noboru)
2013-03-25 11:03:33
皆さま、心温まるコメントをたくさん頂き、本当にありがとうございます。
私は本当に皆さまに「生かされている」のだな、とつくづく感じます。
皆さまのお言葉は、「生きてて良かった」「明日も頑張って生きよう」という気持ちにさせられます。
本当に今は感謝の気持ちでいっぱいです。
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Unknown (s.kawakami )
2013-03-25 17:43:08
先ほどblogで知りました。お母様の御冥福、心よりお祈り申し上げます。辛いかと思いますが、今後の更なる御活躍を信じております。
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s.kawakamiさん (Noboru)
2013-03-27 12:58:11
ありがとうございます。
また歌いに来て下さいね~!
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