漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

無人島漂流船の事 ⑬  御褒美(ごほうび)

2009年11月14日 | Weblog
きのうの続き。

江戸城での言上(ごんじょう)も無事終わり、
跡は、
褒美(ほうび)や取り計らいについて、

従って、内容としての意外性は無いのだが、
さすがに、将軍様の命令ともなると、
関係者の気遣いが大仰で、当時の「将軍の重み」と云うモノが伝わって来る。

尚、以下の文中、
「地頭」は、その土地を知行する者、
「帷子(かたびら)」は、裏地のない単(ひとえ)の衣類、夏用の着物。
  
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右、相済み、漂流三人の者へ、
御米三俵あて下され、
更に、故郷、新居(あらい)に於いて、
相応に扶助いたし、いたわり遣(つか)わし候ように、
地頭・松平豊後守方へ、仰せ付けらるる。

大坂・善八船の者共へは鳥目一貫文下され候に付き、
主人方へ、あい渡し候よう、
勘定奉行・神谷志摩守より、浦賀御番所・御代官・斉藤喜六郎方へ申し渡され、

六月二日に一件相済み、
松平豊後守方より、
御留守居役・神尾彦右衛門、徒士、足軽など召し連れ参り、
三人の者へ、
衣類、帯、扇子、鼻紙などまで持参いたし着用させ、
駕籠に乗せ、連れ帰り申しそうろう由(よし)。

三人の内、平四郎、
残り二人の老人へ殊の外親切に致し遣わし候由、噂仕(つかまつ)り候。

斉藤喜六郎方よりも、三人へ帷子(かたびら)一つづつくれ候由。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~


普通なら、
庶民では顔も拝めぬような身分の人たちが気を使い、
駕籠(かご)に乗せて連れ帰るなど、丁寧に扱っているのが分かる。

ただ、そのワリに、「ご褒美」が大したことない。 (笑)

「米三俵」は玄米で180kg位、
現在の相場なら7~8万円ぐらいでしょうか、

ただし、当時はもう少し価値があったかもしれない。

「鳥目(ちょうもく)」は、銅銭のこと、
当時の穴開き銭を、鳥の目に見立ててこう呼んだ。

「銭一貫文」は千文、現在のカネに直して3万円ぐらいか。

まぁ、手柄を立てた分けでもないし、
武士でもないので「記念品として」と云うことなんでしょうけれど。

尤も、「中身より名誉」と云う意味でなら、
米三俵でも、着物一枚でも、当時の人の感覚では充分だったかもしれない。

最後に、この記録の出所を。

これ、実は、当ブログではお馴染み、
京都奉行所で与力を勤めた神沢杜口(かんざわとこう)の随筆、
「翁草」にある記事の一つで、表題は、「巻之三十七・無人島漂流船の事」。

そして、その最後には、こう記されている。

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この漂流のおもむき、御尋ねの節、
口上書は、いま少し長くそうらえ共、
無益の儀、省略いたし候由、
右、喜六郎、手代・村田仙蔵と申す者の覚え書きを以ってここに記すのみ。

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「口上書(こうじょうしょ)」は、庶民を対象とした「調書」、
武士などが相手の調書だと、「口書(くちがき)」となる。

「喜六郎」とは、
浦賀御番所の代官・斉藤喜六郎、

ここでの「手代」は、
代官所の職員の事だから、
村田仙蔵は、御番所で実務に当たった役人。

代官所の手代は、
農民や町人の中から、能力次第で雇った現地採用の職員も多く、
総じて彼らは、実務に堪能(たんのう)で、有能な人物だったと云う。

この記録は、その「手代・村田仙蔵」が、
記録調書を元に整理した「覚書」を残していて、

その覚え書き、或いは、その写しを目にした、
翁草の著者、神沢杜口が、書き写した物である、と云う事になります。





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