去年だったか、NHKで、
都会の片隅でひっそりと亡くなり、
遺骨の引き取り手もない人たちを取り上げた「無縁社会」と云う番組があり、
その反響が大きかったか、今年は何回か特番を組んでいた。
その番組を見て、
放送作家の鈴木おさむ氏は「こわかった」と云い、
タレントなど多彩な活動を繰り広げているテリー伊藤氏は、
「なんで番組の最後に解決策を提示しなかったんだよ」と怒っていた。
しかし私の思いは少し違う。
深沢七郎に「楢山節考」と云う短編小説がある。
何回か映画にもなっているので、ご存じの方も多かろうと思うが、
「姥捨て伝説」を下敷きにした話で、
この村では得られる食料が限られており、
老人は成長した若者に食料を譲るため、深山に捨てられるオキテ。
七十歳を迎えた「おりん婆さん」が、
村のオキテ通り、息子を励ましながら自ら死地に赴くと云う物語。
処で、この村では、
結婚も生活のため必要だからするのであり、
「年恰好さえ合えばそれで決まったも同じようなもの」なのだ。
男は山仕事や畑仕事で一日中重労働だし、
女は朝早く起きて、焚き木で飯を炊き湯を沸かさねばならないし、
畑仕事の合間に川へ行って洗濯をし、子育てもしなければならない。
つまり、一人では生きていけないのだから、
当然のこととして、結婚は愛だの恋だのと云う話とは無縁なのです。
これは小説の中の絵空事でなく、
つい何十年か前まで、実生活の中にも生きていたことで、
「女が結婚もせずにどうして生きて行くのだ」とは、
二十代も半ばになった娘を心配する当時の親が必ず言ったセリフ。
一方、無縁社会に登場した人たちは、確かに係累は居なかったが、
誰にも迷惑をかけず、清潔に、つつましやかに生を全うした人たちばかり。
貧しくとも、生活が破綻していたわけではないから、
見方を変えれば、「結婚しない自由」を生きた人たちだとも云える。
遺骨の引き取りてがないことだけを取り上げて、
「淋しかったはずだ」とか、
「可哀そうに」などと云う思い込みから身の上を詮索することは、
「傲慢(ごうまん)に過ぎる」、
な~んてね、
アノ番組を最初に見た時、私などは思ってしまったのでありますよ。
都会の片隅でひっそりと亡くなり、
遺骨の引き取り手もない人たちを取り上げた「無縁社会」と云う番組があり、
その反響が大きかったか、今年は何回か特番を組んでいた。
その番組を見て、
放送作家の鈴木おさむ氏は「こわかった」と云い、
タレントなど多彩な活動を繰り広げているテリー伊藤氏は、
「なんで番組の最後に解決策を提示しなかったんだよ」と怒っていた。
しかし私の思いは少し違う。
深沢七郎に「楢山節考」と云う短編小説がある。
何回か映画にもなっているので、ご存じの方も多かろうと思うが、
「姥捨て伝説」を下敷きにした話で、
この村では得られる食料が限られており、
老人は成長した若者に食料を譲るため、深山に捨てられるオキテ。
七十歳を迎えた「おりん婆さん」が、
村のオキテ通り、息子を励ましながら自ら死地に赴くと云う物語。
処で、この村では、
結婚も生活のため必要だからするのであり、
「年恰好さえ合えばそれで決まったも同じようなもの」なのだ。
男は山仕事や畑仕事で一日中重労働だし、
女は朝早く起きて、焚き木で飯を炊き湯を沸かさねばならないし、
畑仕事の合間に川へ行って洗濯をし、子育てもしなければならない。
つまり、一人では生きていけないのだから、
当然のこととして、結婚は愛だの恋だのと云う話とは無縁なのです。
これは小説の中の絵空事でなく、
つい何十年か前まで、実生活の中にも生きていたことで、
「女が結婚もせずにどうして生きて行くのだ」とは、
二十代も半ばになった娘を心配する当時の親が必ず言ったセリフ。
一方、無縁社会に登場した人たちは、確かに係累は居なかったが、
誰にも迷惑をかけず、清潔に、つつましやかに生を全うした人たちばかり。
貧しくとも、生活が破綻していたわけではないから、
見方を変えれば、「結婚しない自由」を生きた人たちだとも云える。
遺骨の引き取りてがないことだけを取り上げて、
「淋しかったはずだ」とか、
「可哀そうに」などと云う思い込みから身の上を詮索することは、
「傲慢(ごうまん)に過ぎる」、
な~んてね、
アノ番組を最初に見た時、私などは思ってしまったのでありますよ。