江夏豊自伝「左腕の誇り」を読む。
ろくにカーブも投げられない高校生だった江夏豊氏は、1967年阪神タイガースに入団。
新人のこの年、持ち前の剛速球でたちまち12勝、
翌年には25勝をあげたうえ、
奪三振401と云う世界記録まで達成、
二年目にして早くも阪神タイガースのエースとなった。
しかし、血行障害や心臓病に悩まされるようになった1976年、
当時の吉田監督やフロントによって、
まるで「邪魔者でも捨てられるように」南海ホークスへトレード、
ここで出あった野村克也監督にリリーフへの転向を勧められ、
2年後、広島カープへ移った時は「抑えの切り札」と期待されてのことであった。
この年の5月23日、
”広島の江夏”は久し振りに甲子園のマウンドへ上がった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
甲子園球場でやった阪神戦、僕は七回にマウンドへ上りました。
あの時はスタンドから僕に向かって声援が飛んで、
ああ、甲子園のファンの人たちにとって、僕はOBなのかと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。
ベンチからピッチャープレートまで本当に遠く感じた。
横浜に人工芝の立派な球場ができたころです。
しかし甲子園球場の土の匂いはやはり独特のものがあるんでね。
日本一の球場やと思いました。
僕の野球人生が始まったのも甲子園だったし、
王さんや長嶋さんと真剣勝負したのも甲子園。
格好よく言えば、甲子園球場は僕の青春時代そのものだったわけです。
それが今は、
広島のユニフォームを着て阪神相手に投げるんですから、
感傷的になるなというのは無理な話でしたよね。
~~~~~~~~~~~~~~~
この時、私は甲子園の内野席で観戦していた。
「ピッチャー江夏」とアナウンスされると、
球場全体が静まり返り、江夏はうつむき加減、ゆっくりゆっくりとマウンドに上がってきた。
私設応援団の数人が「思い出したように」、
観客に手拍子を要請し太鼓を鳴らしだしたが、パラパラと始まった手拍子はすぐに止んだ。
応援団があきらめて座った時、
日に焼けた顔にヘルメットの土工姿、
いつも大声で野次っている甲子園の名物男が、
「エナツゥ、帰ってこいよォ」と切なげに声を上げた。
その時江夏は、
ゆっくりと一塁側に背を向け、ロージンを拾ったが、
今のように観客の多くなかった甲子園、
マウンド上の江夏にその声は確かに聞えていたのだろうなと、
この本を閉じながら思った。