戦後昭和の混乱した社会に忽然と現れ、
十数年後には、
三越や高島屋など、並み居る老舗を凌駕して、
流通業界、売り上げトップに立ったのは、
安売りを看板とする、中内功ひきいる「スーパー・ダイエー」。
その全盛期、日本中の駅前には、
大根からシャツ、セーターはもちろん、
テレビ、カメラから背広まで揃う、
総合ショッピングセンターが立ち並び、そびえ建っていた。
ただ、戦後生まれのスーパーマーケット全盛のそのころ、
すでにアメリカでは、
カテゴリーキラーと呼ばれる専門店の時代へと移っていた。
やがて日本でも、電気製品やスーツの安売り店、
軽衣料に特化したユニクロ、薬のマツキヨなどの成長期を迎え、
総合スーパーだけでは、
利益の出なくなったダイエーは、多角化の道に活路を求める。
時、まさにバブルの直前、
中内の率いるダイエーは、
ホテルから遊園地、リクルートからプロ団ダイエーの獲得と、
よそ目には
「手当たりしだいの暴走」とも思えるような、拡大膨張への道を突っ走る。
そして時は移り、
やがて訪れた宴の終り、
バブルの末路は、中内ダイエーの終焉でもあった。
“中内功“、
その軍隊生活に始まる波乱万丈の生涯は、
「昭和経済界の風雲児」と呼ぶにふさわしい。
もし彼が、もう十年早く亡くなっていたら、
「昭和の織田信長」と呼び慣らわされていたかもしれぬ。
「ダイエーの看板消滅」のニュースを読みながら、そんなことを思った。