漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

無人島漂流船の事 ⑨ 鬼のようなる者ども

2009年11月10日 | Weblog
きのうの続き。

漂流から二十年以上を経、十二人居た仲間も三人となった、
もはや「この島で土となるより無い」と諦めた頃、新たな漂流者が島へ入って来た。

今日は、その船の、ここへ至るまでの経緯。

尚、「奥州」は、現在の東北地方、
「南部」は、現在の青森県東部から岩手県北部の辺り。

又、「八戸(はちのへ)」は、現・青森県の南東部、太平洋岸に位置する港町。
   
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去る午(うま)の年、

摂州、大坂は江戸堀三丁目、
宮本善八が持ち船へ、
沖船頭の富蔵ら、水主(かこ) 十七人が乗り組みにて出船。

奥州へ向い、南部、八戸港にて、
大豆、蕎麦(そば)など積み込み、出船致しそうろう処、
沖合いにて強風に遭(あ)い、
何方(いづち)とも知らず、吹き流され、漂い候。

一同、水に渇きそうろう故(ゆえ)、
「何とぞ島へ寄り、水汲みたき。」と、願いそうろう処に、

当年、未(ひつじ)、三月十三日、

ようようと島を見つけ、
船頭、水主一同、大いに喜びて、
各々小舟に乗り込み、島へ上りて見申しそうらえば、

周囲、およそ二里ほどもあろうかと云う、 (二里→約8km)
大きけれども岩ばかりの無人島にて、
水は何処にも無きそうろうを、

方々尋ね、歩き廻る内、日も暮れそうろう故、
是非(ぜひ)もなく、
その夜は島に一夜を過ごし、
明け方になりて、沖を見そうらえば、本船は何方へか流され失い候。

一同、力を落としそうらえども、
その内に又、
十七人の者共、力を合わせ、
小舟に合わせた舵(かじ)など拵(こしら)え、
諸事用心して、堅固に舟を整える内、
日和(ひより)もよくなり、
風も少々静かになりそうろう故、これに乗り組み、島を出で候。

その間、段々と米も少なくなりそうろう処、
日も八日ばかり過ぎた、同年同月、二十九日ごろ、
また島を見付け、各々喜び、島へ上り候。

しかし、これも無人島にて水も見えず、
方々尋ね廻りそうろう処、大いなる岩穴あり候。

その内より、
身には、鳥の羽をつづり合わせたる衣をまとい、
髪が縮(ちぢ)れ上がりたる 鬼のようなる者共、三人出で来たり。

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二十一年の間の風雨により、
当初の着物は用を成さず、
今はアホウドリの羽をつづり合わせて着ている三人、
その上、強烈な日照と潮風に晒され続けた風貌は、異様な姿だったろう。

処で、
十七人の船は、午(うま)の年に出て、
翌年、未(ひつじ)の三月半ばに無人島を見つけているのだから、その間、だいぶある。

案ずるに、
大坂を出発したのは午の年でも、
遭難するまでには、何度かの航海を経ているのかもしれない。

八戸で荷を積むまでには、
各地へ荷を運び、行きつ戻りつして、
遭難したのは、未年になってからかとも思うが、勿論、確かではない。

尚、
元文三年(1739)が、「戊(つちのえ)午(うま)」
元文四年(1739)が「己(つちのと)未(ひつじ)」なので、

「享保四年(1719)、己(つちのと)亥(いのしし)」の年に遭難してから、
足掛け21年の無人島生活と云う事になり、対応する。




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