漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

日本人はホントに“無宗教”か

2018年07月19日 | せけんばなし
きのうかな、
ネットの「ニューズウイーク・日本版」で、

テレビタレントで漫才師のパックンが、
「オウム死刑で考えた──日本の『無宗教』の真実」と題した随筆で、

日米の宗教観の違いを書いていてました。

「およそ半分の人が教会に通う」アメリカ人に比べ、
「日本人は無宗教だ」と云われるけど、

パックンから見ると、そう単純でもないらしい。

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日本人はお守りを捨てられないし、鳥居をくぐるときは頭を下げる。

具体的なメカニズムが分からなくても
「罰当たり」は、ほぼ全国民がなんとなく信じているのではないだろうか。

批判ではない。

僕も毎年初詣をするし、
お線香をたいて亡くなった親戚に手を合わせる。

20年前にもらっただるまも、なぜか処分できない。

鍵や携帯電話が見つからないときは必死に神様に祈る。

しかも、どれも無神論者と自称しながら。

僕だって言っていることとやっていることが違う。

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自身を無神論者と言ってるように、
彼自身はキリスト教徒であっても、篤信者ではないらしい。

しかも彼だけでなく、
「教会に通う」ような、多くのアメリカ人たちも、

その中身は、
パックンと似たようなもの、らしい。

ようするに、キリスト教徒のアメリカ人と、
無宗教とされる日本人と、

本質的な処では、そう変わらないんじゃないか、と彼は書いてる分けです。

なかなか面白かったけど、
私が一つだけ、

「根本的に違うんじゃないかなぁ」、と思うのは天国への門。

キリスト教には、この世が終るとき、
すべての死者が呼び出され、天国への門が開かれる。

その時、
罪深い者はその門から入れず、地獄へ落とされる。

そう云うことを、
キリスト教的社会の伝統文化として、

子どものころから、
聞かされ続けてて育った欧米人は、

教えにあるこの話を、
根源的な処で、身につけてるのじゃなかろうか。

体に沁み込んでいる、

もし、そうだとすれば、
欧米のキリスト教徒にとって、死刑は必要ない。

だって、いずれは神様が、
人殺しのような悪質な犯罪者には、

永遠の苦役を命じてくれるのだから。

この世で処さなくても、
世間から隔離し、刑務所に閉じ込めておけばいいのである。

しかし、日本人はそうは思わない、

罪もない人を何人も殺した輩は、
この世で処刑されるべきだと考える。

こないだオウム関連の死刑が執行されましたね。

死刑囚の死刑が執行されただけですから、
別に騒ぐことはない、と私は思うんですけど、

やっぱり世間は、
そう思わないようで、新聞やテレビの扱いは大きかった。

ヨーロッパでは、
大量の執行に批判的な報道、と書いた日本の新聞もありました。

欧米の人たちにとっては、
民主主義や人権など、多くの価値観を同じくする日本で、

ほとんどの国民が、
「死刑制度を支持している」と云うのは、奇異に写るようです。

でもね、
仏教にだって地獄や極楽と云う考えはあるのに、

日本人の多くが死刑制度を支持するのは、
根源的な処で、その教えを信用してないのだと、私は思う。

つまり無宗教。

パックンの言うように、
アメリカ人の宗教観と、日本人の宗教観がそう変わらないように見えても、

根源的な処では、
日本人は、宗教を信用していないんじゃなかろうか、

と、このごろの私は思ったりするのですよ。



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