漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

玄人の博打

2009年01月15日 | Weblog
きのうの続き。

「俥引きの三やん」こと坂田三吉が、
もし、将棋の内容より、
賭けに勝つことを第一とするような真剣師、

つまり、プロの博打打ちなら、ちょっとした技を使ったはずなのです。

例えば、
かなり腕自慢で、カネもありそうな、
旦那風のカモを見つければ、、まずは小額の賭け金て勝負を始める。

最初はそこそこに指して、勝ちを譲り
「お強いですねェ」などと、お世辞でいい気分にし、
あとは接戦に見せて、勝ったり負けたりしながら、賭け金を少しづつ上げてゆく。

その内に、賭け金がそこそこになったら、
相手の優勢な局面から、
最後に逆転、
それも、こちらの実力でなく、幸運で勝てたように思わせてきわどく勝つ。

そこで、申しわけ無さそうに、

「えへへ、すいませんねぇ、
 ホントはそちらサンの勝ちなのに、」と、カネを受け取り、
 
「悪いなぁ、なんだか儲かっちゃった」などと、
挑発気味、
大袈裟に喜べば、そうでなくとも熱くなっている相手だ。

必ず「もう一番」となる。

「そんなら、取り返すだけでは物足りないでしょうから、
 もう少し大きく賭けますか」、

とか、ナンとか、

賭け金を一気に釣り上げ、大勝負に持ち込み、
しっかり勝ってサッサと引きあげる。

ここで大事なことは、何となく自分の方が強そうだと思わせること、

素人の旦那芸と、玄人の最大の違いは、
自分の芸に対しての認識、見極めの厳しさにある。

つまり、素人は、
負けた原因を、うっかりミスのせいにするから、
五分五分の勝ち負けだと、実力は自分の方が上だと勘違いする。

しかし、玄人は、勝負については辛いめに採点する。

優勢にしようと、
攻める手から考えたがる素人と違い、

玄人は、ムリをせず、
「負けぬように」、「不利にならぬように」と、受ける手を中心に読む。

だから、将棋の力から行けば五分五分でも、
素人の甘い読みにひそむミスを突かれて、

結局、ここと云う勝負処では、玄人が勝ってしまうのである。

山口瞳氏の小説だったか随筆だったかに、
「プロの博打打ちは、51対49で勝つ」と云うのがあった。

将棋、麻雀に限らずだが、
博打を打てば、必ず相手とは五分五分の力量、
もし、力量に差があれば、ハンディを付けるから、結局は五分五分の勝負となる。

そこで、
始めから勝とうとするのは素人、
プロは、大きく負けないことを心がけるのだそうだ。

やがて、勝負は深夜となり、
メンバーの集中力が薄れてくるころ、玄人は目の奥が輝き出すというのである。

51対49でも、賭け方によってはそれ以上の勝ちにできる。

相手は負けても、
ほぼ勝敗は互角だったのだから、負けた気がしない。

こうしておけば、
また次の機会にも相手は勝負を避けない、と云うのである。

えてして素人は、
負けた51回より、勝った49回の方を思い出したがるものだ。

なにしろ、
負け勝負を思い出すのはつらいが、
勝った勝負を検討、反芻(はんすう)するほど、楽しいことはない。

だから、51対49を、
記憶の中で勝ち越しにすることなど御茶の子サイサイ、

いやな想い出も楽しい思い出になる。

だからこそ、
「博打は亡びないのだ」、などと、

私などは秘そかに思っているのでして。

  
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【反芻】はんすう
 [2] 繰り返し考えたり味わったりすること。







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