明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

コメントに回答します。

2012-03-25 15:36:29 | Weblog
コメントに気がつくのが遅くなりました。申し訳ありません。3月23日に、一ご門徒からコメントが寄せられていました。このコメントは、2010年11月8日の『北信・上越の親鸞聖人ご旧跡を訪ねて』(居多神社遍)に関して寄せられたものです。コメントは、以下の通りです。「親鸞聖人ご自身が神社に参拝しているのに、なんで門徒は神社に参拝しちゃいけないのですか?」というもの。浄土真宗でいう神祇不拝に関しての質問と思われます。私なりの回答をさせていただきますが、前半部分にのみ『教行信証』の原文を2例引用しますので、普段よりは読みづらいと思いますが、現代訳をつけましたので辛抱して読んでくださいね。
ご承知の如くに、親鸞聖人は『教行信証』の「化身土(けんしんど)の巻」にて次のように述べておられます。「またいはく(弁正論)、「『大経』(涅槃経の事)のなかに説かく、〈道に九十六種あり、ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり〉と。朕、外道を捨ててもつて如来に事ふ。もし公卿ありて、よくこの誓に入らんものは、おのおの菩提の心を発すべし。老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといへども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり、凡を隔てて聖となすことあたはず。公卿・百官、侯王・宗室、よろしく偽を反し真に就き、邪を捨て正に入るべし。」(浄土真宗聖典注釈版468頁)(現代訳 また、つぎのようにものたまわれている。『涅槃経』に、「道に96種がある。そのうち仏道のみが正道である。その他の95種はすべて外道である」と説かれている。朕(中国の南北朝時代の梁の武帝の事)は外道を捨てて如来に仕えている。公卿の中で私の誓いに加わろうとする者は、おのおの菩薩のこころを起こすべきである。老子や周公や孟子などは、如来の弟子として教化を行っているが、すでに道を外れている。なぜならば、それらは世俗の善である。凡を離れた聖人とすることはできない。公卿・百官・候家・王族もよろしく偽をひるがえし真につき、邪を捨てて正に入るべきである」となるでしょう。すなおに読めば、数ある教えの中で仏道のみが世俗を離れた真実の救いの教えであるとなります。故に、「化身土の巻」に続けて「天台の『法界次第』にいはく、「一つには仏に帰依(きえ)す。『経』(涅槃経)にのたまはく、〈仏に帰依せんもの、つひにまたその余のもろもろの外天神に帰依せざれ〉と」(浄土真宗聖典註釈版469頁)(現代訳 天台(中国隋王朝の天台大師智(ちぎ))の『法界次第』には、次のように説かれている。一つには、仏に帰依する事である。『涅槃経』に、「仏に帰依する者は、こころひるがえして他のもろもろの外道の天神に帰依してはならぬ」と説かれている)となります。これも、素直に読めば「帰依する対象は仏のみ」であると理解できます。親鸞聖人の神祇不拝は、これらの仏道本来の教えを素直に受け取られたにすぎません。まして、親鸞聖人は紆余曲折の末に、弥陀の本願に帰依されました。仏道の中でも、他の仏道を捨て唯一弥陀の本願のみに帰依されたのです。弥陀一仏に対する帰依です。
では、なぜ親鸞聖人は越後流罪の際に、居多神社に参拝したという伝承が残ったのでしょうか。実は、聖人の神社参拝は常陸国の稲田神社、そして鹿島神宮にも色濃く残っています。稲田神社で説明しましょう。稲田と言えば、聖人の関東布教の拠点である常陸国笠間郷の稲田草庵(現在の別格本山・西念寺)があった稲田です。平成21年に初めて稲田神社を訪れました。
稲田神社に至る参道

現在の稲田神社

実に意外な事に、聖人の稲田草庵とは距離にして数百メートル。稲田神社は、平安の昔は常陸国でも代表する大きな神社。名神(みょうじん)大社なのです。広大な領地をもっていた事が分っています。端的に書けば、稲田草庵は、稲田神社の神域に存在していたと言っても間違いはないでしょう。そこを聖人は、関東布教の拠点とされました。一体なぜでしょうか?おそらくは、このコメントを寄せられたご門徒さんは分っておられると思いますが、『教行信証』は、この稲田草庵にて書かれました。『教行信証』は実に多くの経典、外典から引用で成り立っています。
写真は、西本願寺蔵の『教行信証』の複写本(大正12年刊)

如何に、聖人が頭脳明晰であられてもあれだけ多くの経典を全て暗記されている筈はありません。それは、無理というもの。また、あれだけ多くの経典を自分のまわりに集める事もできる筈はありません。では、どこにあったのか?稲田神社に存在したと推察されます。神社に仏教経典とはこれいかにですが、実は、当時明神大社とか一ノ宮(居多神社もそうです)と呼ばれた大きな神社は、どこでも少数の神官と多数の僧侶で構成されていました。当時は、神仏習合・垂迹説の世界です。ここからは、今井雅晴先生の『親鸞聖人 稲田草庵』からの引用ですが「本来、神道の理想郷は「清らかさ(さやか)」や「明るい(あきらけき)」という言葉で示せば十分だったのです。しかし、時には詳しい教義で説明する事が必要になる場合もあります。その場合には仏教の教義を借りていました。そのために、大きな神社には多数の仏教書と多くの僧侶がいる事が普通でした」(27頁)とあります。何故、『教行信証』が稲田草庵で書かれたのか。それは、稲田神社に多くの利用できる仏教書が存在したからという事になります。古くから、聖人は『教行信証』執筆のために、仏教書が揃っていた鹿島神宮に通って仏教書を閲覧したと言われてきたのも、同じ理由です。これにてお分かりと思いますが、居多神社に聖人の伝説が残ったのも、越後の一ノ宮たる居多神社には多くの仏教書と僧侶が存在した筈です。越後にて、7年間の生活を送られた聖人ですが、越後7年間は聖人にとって思索を深める時間であったと言われています。その際に、居多神社の仏教書を利用されない筈はありません。こんなところから聖人参拝の伝承が残ったと考えられます。ですから、聖人は願い事、祈祷を受けるために神社にお参りしたのではないという事です。
今井先生は次のように結ばれています。「従来、親鸞聖人の神祇不拝(じんぎふはい)ということがいわれてきました。しかし、聖人の伝記をよくよく調べると、稲田神社・阿波山上神社・居多神社のようにとても聖人の身近な神社が浮かび上がってくるのです。これはいったいどういうことでしょうか。それは、私達は明治初年の神仏分離・廃仏毀釈以降の神仏観から抜け出せないでいるということです。聖人の時代、人々は神と仏の関係をどうように把握していたのか。現代の私達が思うようには分けていなかったということでしょう」(自照社出版 親鸞聖人 稲田草庵31頁から32頁)と述べられています。
私も、そのように考えています。念仏者にとって帰依する対象は阿弥陀一仏であります。弥陀一仏に帰依し、阿弥陀様の大いなる願いに照らされて生きる念仏者は、神祇に対して願いごと、祈祷等はする必要がないという事でしょう。この事を聖人はあきらかにされました。あえてつかえば、この事が神祇不拝だと思います。ここさえしっかりと押さえていればよいです。後は個々の判断で行動すればよいのです。
一度、今井雅晴先生著「親鸞聖人 稲田草庵」(自照社出版800円+税別)を是非お読み下さい。

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2 コメント

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有り難うございます (一門徒)
2012-04-30 02:04:21
 ご回答有り難うございます。私も質問だけしてお礼を申し上げるのが遅くなってしまいました。申し訳ございません。

 ご回答の趣旨は「親鸞聖人は、神社をいわば図書館として活用した」ということでよろしいでしょうか。それならば納得です。

 ただ、幾つかの神社が親鸞聖人の思索,さらには立宗に便宜を図ってくれたということは門徒として知っておきたいですね。自分(たち)が神道を信仰するかしないかとは全く別に、神社もまた親鸞聖人を支えてくれたのだという恩への感謝は持っても良いのではないかと、私は感じています。
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続きです (一門徒)
2012-04-30 02:07:24
 真宗から見て異教である神道が親鸞聖人を顕彰してくれているというのは大変光栄でもあり,人間として感謝したい気持ちを感じております。
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