
↑ ↓ うな重 3千円台のもの

先日行きそこなった銀座の鰻屋さん 竹葉亭 に行ってきました。
こちらのうな重は、銀座らしい品のいいあっさりした たれ が特徴の一品。
敷いてある紙やお重の入れ物も 趣き 有ります。
壁にかかった絵や飾り、生花も素晴らしい。
もちろん働いている方達の、気の配り方も一流。
これぞ銀座の老舗と言う雰囲気が漂います。
こういうところに来ると、こちらも知らずに背筋がピンとなって、店に相応しい客になろうと思います。
そういう相乗効果が良いですね。
本店は銀座八町目に有ります。
行ったことは無いですが、中庭を眺めながらお食事ができる離れのお座敷など素晴らしいとか。
一度は行ってみたいと思います。
銀座店-うなぎ蒲焼と御料理「竹葉亭」
↓ HPの歴史より一部引用させて頂きます。
竹葉亭の歴史 『食は文化なり』
「竹葉亭」の創業は江戸末期。当時は京橋付近の浅蜊河岸(あさりがし・現在の新富町)で桃井春蔵道場門下生の「刀預かり所」を役目とした留守居茶屋として初代別府金七が創業しました。明治9年「廃刀令」により、留守居茶屋から酒や鰻の蒲焼きを提供する店となりました。屋号は、中国で酒のことを「ササ」と称したことにちなんで「竹葉亭」と名付けられました。
二代目金七が中興の祖といわれ、最高の鰻屋を目指して研究を重ねる一方で販路の拡大にも努め、新富座を皮切りに歌舞伎座・帝劇などへ弁当を納入し、「竹葉亭」は鰻の代表的な店として確立されました。明治30年には尾張町に新店舗を出店。大正12年の関東大震災で被災し、東京市の区画整理により現在の銀座8丁目(当時は木挽町)に移転しました。昭和56年に一部を改装しましたが、離れの茶室と座敷は大正13年に建てられたままの姿を現在も残しています。大正15年には丸ノ内丸ビル1階に出店しました。
また、二代目金七は美術蒐集家として知られ(村松梢封の『本朝画人伝』に記されています)、琳派の本阿弥光悦・尾形乾山・俵屋宗達などが世にもてはやされなかった頃からこれらの蒐集をはじめ、その他の書画骨董にも一見識を持っていました。現在世に残っている琳派の名品は、かつて「竹葉亭」の所蔵であったものが少なくないと言われるほどの目利きでありました。残念ながらそのコレクションの主だったものは、震災の時に焼失したと言われています。
三代目哲二郎は、鰻料理に加えて日本料理にも本格的に取り組み、当時親交の深かった北大路魯山人の「星ヶ丘茶寮」に弟の得三を修行に出していました。また、大阪にも進出し「中之島竹葉亭」を出店するなど、東京に12店、大阪に10店と支店を増やしていきました。しかしながら、第二次世界大戦で東京と大阪の支店の大半は空襲で焼失してしまいました。
五代目得三は北大路魯山人のもとでの修行を土台に、料理や器・店のしつらえに力を発揮し、「竹葉亭京橋店」にはその遺産を随所にみることができました。京橋店はやむなく閉店しましたが、こうした数々の遺産の一部は他店に引き継がれ、一部は大切に保管され新しい店舗への出番を待っています。
すみません、長々と引用しましたが、こちらの歴史とか鰻に関する薀蓄(うんちく)を読んでいると、興味深くて次々に読んでいってしまいます。
興味のある方はHPへどうぞ。
亡くなった だんな は、こちらの「鯛茶漬け」が好物だったと思い出すトミー。
箸に伝わる感触は ふわっとしているのでしょうね~
つい先日、ウナギのかば焼き専門店が作ったサバのかば焼きを買って食べたところ、サバのせいか血合いのところが生臭くて、悲しい思いをしたところなので
ウナギがとっても恋しいよ~
ウナギのかば焼き専門店の「秋刀魚」のかば焼きはまあまあ食べれたので、サバもいけるかと思ったら アララ・・・でしたわ。 三枚で298円 いろんな意味で恐るべし。
麻布十番の みやかわ も懐かしいね。
うちの近所のウナギ屋さんもある日突然廃業してしまったので、切ない気持ちで、中国産や国産といえども身の固いウナギを食べているので、うらやましいわ~
あれはまあまあだよね。
又食べると思う。
テレビで、なすの蒲焼もやってた。
なす、好きだからぜひ食べたいと思ったのさ。(笑)
そうかっ、サバは止めとこう。
うちの方の鰻やさんも値上げして、そうそう食べられなくなったわ。
天然ものは絶滅危惧種指定にもなったし、もうどんどん食べられなくなってしまうのでは ?
今のうちに食べときたいけど、もう既に高い !
でも、スーパーの硬い鰻を5回食べるより、こういうところで1回食べたいトミー。どす。