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猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

COM 昭和48年(1968年) 9月号付録 「ぐらこん 5」

2007年02月16日 13時08分20秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
   COM 昭和43年(1968)9月号付録の小冊子 同人誌優秀作品集となっています。

 
 先日、左にリンク先のある ちゃととさん のブログ → シネマるマンガぁ?byちゃとと で私にとって衝撃的にためになるHPのBBSを発見させて頂きまして、ただいまきゃ~きゃ~言って読んでるところです。笹生 那実氏という元まんが家の方。 (笹生 なおこ・さそう なみ 名でも 別マ などでご活躍 私はすいません未見です。) 三原 順先生好きには1997年に「三原 順さん追悼本」 の作者として有名かも。現在は同人活動をしていらっしゃいます。
 
 そちらのHP → 笹生那実先生のHP の掲示板はどれもすごい内容がつづられていますが、【No.1370 米澤さんが亡くなりました。合掌。(06/10/02)】 とその後のスレッドの中に、COMぐらこんの話が出ていまして、私も引っ張り出してみました。 (あー写真の説明にこれだけかかった。)


 ぱっと出した付録群の中でチラ見して、最初は同人の話なんだからこれが良いかと出してきたのが No⑤ のこちら。表紙絵はプロの方だと思いますが、表紙見返しに 向後 つぐお氏のイラスト、まだ10代だと思うのに、達者なもんです。向後氏は村岡栄一氏や三橋乙揶(みつはしまこと)氏とともに永島 慎二氏のアシスタントを経て漫画家として独立。主にガロ等で活躍した方ですね。

 掲載順に

1. 武蔵野漫画研究会所属 なかしま あきら氏 「金色のハート」 12P 最後に1968.7月の日付あり
   魔女と死神、猫の話シャープな絵柄ながら今見るとちょっと古い感じ

2. ミュータントプロ所属 しま あきと氏 「白いお馬と青い騎士」 8P 最後に1968.7.28の日付入り
   古い やしろまさこ氏 風の絵柄、兵士と少女のお話。

3. つれづれ草所属 新宅善光氏(しんたく よしみつ) 「逃がしの報酬」 10P
古い石森章太郎風の絵柄、題材も初期SFタイムマシンもの

4. 作画集団所属 置田 進氏 「アングラ男」 4P 
ナンセンスものというか、それは映画でした・・・というオチ。

5. ぐら・こん中部支部所属 小川 茂氏 「人工天使」 8P
もろ、岡田 史子氏風の作画及びイメージ

6. ファンタスト所属 (あっと今お名前わからないや後で直しときます) 「わるもの君ほか四コマまんが」 6P
ちっともワルじゃないわるもの君という高校生?のほのぼの4コマその他の4コマ。くすっとさせる。 

7. 武蔵野漫画研究会所属 ガンケ・オンム氏 「よわむしゴリラ」 11P 1968.7の日付入り
永島 慎二氏風の絵柄。16歳という年の割りに絵もアイデアも達者と巻末の作品評で石森氏に褒められている。私も初めて読んだ時、この中ではダントツと思いました。

 その後で第一回COM同人誌賞が発表されており、といっても同人誌賞は該当なしとなっています。
特別奨励賞に 「ふァん」 武蔵野漫画研究会 東京
        「墨汁三滴」 ミュータントプロ 東京
特別努力賞に 「ぐるーぷ」 ぐら・こん関西支部 (東京とあるが多分ミスプリで大阪か京都でしょう)
         「一番電車」 ぐら・こん中部支部 愛知
         「すーりーる」 法政大学漫画研究会 東京

 となっています。その後のページでこの小冊子に掲載の作品に対する作品評が石森(当時)章太郎氏と峠 あかね氏によってされています。さらにその後のページで、峠 あかね氏が 「まんがごっこ族」 と題してたくさんの同人誌を見て感じたことを述べています。
 「今日は、いくつかの優れた同人と多くの決して優れているとはいいかねる同人誌の混合ダブルスによる空前の同人誌ごっこブームである」 と斬っています。

 内容は、同人といっても力のない人同士が集まりやすいとか、ただ反対意見を述べているだけのまんがゴロとか、先人を平気で呼び捨てにして口論する輩とか、ジプシーのように同人を渡り歩いて数を自慢するものとかが多いと会員の資質を憂えていると思うと、作品についてもたかが3~4ページの作品をまとめることもできないまま以下次号とかつづくにして処理できない会員を批判している。
 また、同人が多すぎる、それは会長になりたがる人がいかに多いかということだ、とも言っています。

 これは当時の自分の思い出ともダブリますねー。まんがのほうでは同人活動はしていませんでしたが、当時流行のフォークソング同好会のようなものを当時の彼氏が首突っ込んでまして、駅前の喫茶店にたむろってはごちゃごちゃしょうもない話をだべっていたり、東京の大学の同好会をまとめようとして船頭多くて船が山の上に登っていたり、ちょっと危ないべ平連 (ベトナムに平和を連合会) の会合に顔出して見たり、二人でいろいろ行ったなー。
 当時の雰囲気は今でも懐かしく思い出します。団塊の世代より5つくらい下だったから、雰囲気を感じていただけですが。それで幸いにも浅間山荘にいなくてすんだわけで・・・ハハハ。

 閑話休題

 最後に峠氏は、 「目標を持ちなさい」 といってます。それは会誌を作るというだけでは不十分とも言っている。ブームだと喜んでいられない状況が、今年の選考感想のすべてだとおっしゃっている。「顔を洗いなさい」 とも。

 昨今の、商業誌と変わらぬ同人誌の隆盛とは雲泥の差と思うか、それともまた違う意味で最初の同人誌とは違ってしまって個人誌となっている現在の同人誌に顔を洗いなさいとおっしゃるだろうか、峠 あかね = 真崎 守氏は39年たった今、どう考えておられるかしら。


                

               ぐらこん ②~⑤  

 
 さて、写真をとった後で 「ぐらこん ①」 がないのに気がついた。ごそごそ探したら⑥~⑧はあったが、肝心の①がないではないかーーーえーっ全部COM関係は残しておいたと思っていたのにーー。実家においてもらっていたときに失くしたのか ????? う~ん一生の不覚である。


 最近、古い漫画関係で拙ブログを新規にお訪ねして下さる方が増えて、大変うれしく思っています。あいうえお順とかにちゃんとまとめてなくて見づらいとは思いますが、左のカテゴリのマンガとCOMをチェックすると漫画関係だけ出てきますので、60年代の石森作品や水野作品、またはCOMの書影など、写真のみでもごらんになっていってくださいませ。

「トキワ荘物語」 最終回 手塚 治虫

2006年12月07日 12時52分48秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
      初出掲載誌 COM 1970年 9月号 やなせたかし氏の表紙


 宿題をやらなくちゃと思うほど、コミックスに手が伸びた子供の頃そのままにずるずると後回しになっていた、「トキワ荘物語」 最終回 手塚 治虫先生の巻でございます。大変お待たせ致しました・・・・。
 この回、手塚氏はトキワ荘本人 (?) に語らせています。トキワ荘は女性のようです。若いマンガ家を包んで育んだ母性の象徴でしょうか。

 文中、黒文字は作品中のセリフ及び文章です。

 
 いらっしゃいまし わたしの名は・・・トキワ・・・ ええ・・生まれは昭和二十九年ですの・・・。

 いつものトキワ荘へ入る狭い道の入り口からトキワ荘を見るコマ。目線はちょうど自分の眼の高さのよう。玄関の戸は閉められています。他の作品では大体いつも開いていて、2階に登る階段が見えていますが、まだ建ってすぐの頃なのでしょう。
 椎名町の鳥瞰図、星空とトキワの屋根

 夜はまだ虫なんかないていたし、星はそれこそ降るように美しくて

 近所でしょうか、子育て地蔵さまや芝居小屋の絵が続いて、トキワの独白は続きます。

 私は空き地のかたすみでほんとうにそのままならだれにも気づかれずにひっそりと一生をおわるはずだったのです。

 学童社の人に連れられて手塚氏が路地を入ってくる。

 私はめずらしいけいけんをすることになったのです

 階段をギシギシと上がる手塚氏。

 安ぶしんだな

 ええ どうせそうですわ でも新築ですのよ。

 手塚氏はフトンとひとつの机、ザブトンもカーテンもなく住み始める。

 よっぽど貧乏なのかしらとわたしは思いました。そうでもなさそうなのです。

 女性のハダカを思い描いて遊びに行こうとする手塚氏。部屋の入り口で編集者らしい人と鉢合わせする。

 たいへん遊び好きでルーズな人でした。そのくせ朝から晩まで仕事を押し付けられていました。

 廊下の絵に被せて、その他の人たちは学生、子供のいない夫婦 (大家が子供を嫌がった) などでした、と説明。
 ある雪の夜、2階の窓からおしっこをする手塚氏。いくら部屋にトイレがなくったって・・とトキワは、ええどうせ私は・・・とすねています。

 学童社の人が新潟から上京してきた長身の寺田ヒロオをつれてきます。自炊する寺田氏。手塚氏は外へ食べに行きゃ楽なのにと言いますが、寺田氏はそんな贅沢はできませんよ、と答えています。手塚氏はほとんど外食だったのでしょう。

 この寺田という人はひどく世話好きでわかいまんが家がしょっちゅう泊まって行きました。

 手塚の留守を外来者に伝える寺田の絵。いつもいなかったらしい。藤子不二雄や石森、つのだらのコマと新漫画党の会合らしきコマ。

 だれもかれもお金はなさそうだったのにすごくたのしそうでほがらかでした。

 トキワはまんが荘というアダ名までもらい、多いときは7~8人が住み、15~16人が集う、「まんがの梁山泊」 (他で手塚氏が言っていた) となったのです。

 その人たちはみんなわたしのところで苦しみ、はげましあいながら世にでていきました。
 あれからもう十何年かになります。

 雨の中、傘を差し、荷物を持って出て行く手塚氏の後姿。

 いまはもうひとりもまんが家はいません。私もとしをとりました。

 それでもちょっとは有名になって、今だにマンガ家のたまごが見に来たりしている。大家の夫婦がそろそろ寿命が来たなと話している。

 ええ 仕方がありませんわ。  
 ― 略 ―  
 でもわたしは満足ですの 、あんなにたくさんのまんが
家が育って・・・子どものために描いているのですもの
 ― 略 ―
 わたしは本望ですの みじかい一生でしたけど思い出ができましたもの


 すっかりくたびれた格好のトキワが建っているコマで終わりです。


 いい漫画、実験作、まだいろいろCOMには紹介したい作品があります。松本 零士の 「無限世界シリーズ」、みやわき しんたろうのハートウォームな作品群、(後に男性誌のエッチな作品を見てびっくりしました)、青柳 裕介の一連の作品は暗いしなぁ、女性も木村 みのりのアウシュビッツものとか、やまだ 紫も始めからあの絵柄、あの雰囲気で作品を発表していますし。矢代 まさこ、萩尾 望都も何作か。
 
 あーでも、すみません。しばらくCOMはお休みさせてください。他に読むものいっぱい出来ちゃって、夜さんにどっさりお借りしたのです。もう手に入らないものもたくさんあって、わくわくしていそいそ帰る日々です。読了したら、少しづつ感想UP致します。

 「トキワ荘物語」 最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

「トキワ荘物語」 ⑩ 石森(当時) 章太郎

2006年12月01日 11時32分48秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 COM連載、「トキワ荘物語」 のご案内もあと2回を残すのみとなりました。今回は 石森(当時) 章太郎先生、次回は 手塚 治虫先生でお終いとなります。何とかつづってきましたが、あと2回宜しくお付き合い下さいませ。

 前回の最後に石森氏のは文章にするのが難しそうと愚痴ったのは、この作品が「ジュン」風の当時サイレント漫画と言われていたセリフなしの作品だからなんです。しかし、やってみるとそうでもなかった・・・。いや、ちゃんと説明できていればの話ですが。では・・・。

 表紙は、トキワ荘の2階廊下を歩く後姿の石森氏。全体に暗く陰鬱です。石森氏は今(1970年頃)の石森氏らしい。かって自分の住んでいた部屋の前に立ち、しばし何事か瞑想する石森氏。部屋のガラス戸を開けると突然蒸気機関車DC1の大きな姿が。上京したときに乗ってきたのでしょうか。

 出てきた当時のイガグリ頭、学生服の石森氏、カバンがふたつに段ボール箱が1ヶ、大きな窓に腰掛けています。
 やかんを持った石森氏が部屋から出てきます。廊下で手塚氏と寺田氏二人とすれ違っています。象徴的なコマですね。手塚氏とは確か一緒の時期にトキワ荘にいなかった。尋ねてはいますが。寺田氏とははじめのうちだけです。
 
 台所でお湯を沸かす石森氏。カンカン照りの太陽の下、熱を出して氷嚢を頭に載せて寝ている石森氏。周りには、代わりに漫画を手伝ってくれている仲間の長谷氏、赤塚氏、藤子両氏らの姿が。続いて漫画を描いたり、トイレに行く石森氏。生活を表現しているのでしょう。

 戸を開けると、又突然南京虫の大きな絵 (ぞっ) 石森氏は手榴弾を投げてます。煙の中から音符が混じって流れてきます。大きなステレオとベートーベンコンチェルト第5番のLPレコードのコマ。おびただしい漫画原稿の山、石森モグラの表紙の 「墨汁一滴」 (石森氏が入っていた同人会、東日本漫画研究会の手書き会誌) 
 石森氏の部屋で、その仲間達との会合の絵。同じく部屋の中でファンの女の子らしき二人の女の子と談笑する石森氏。
 新漫画党の仲間達との会合らしい絵。例のインチキピーナッツらしきものもちゃぶ台の上に乗っています。石森、寺田、赤塚、藤子両氏、鈴木、森安、つのだ各氏の顔が分かります。

 一転して、暗い廊下を歩く、まだ若い石森氏。上京してきたときよりは少し時間は経っているようです。部屋を開けると吹雪が吹いてくる。雪の中、ひょろひょろした木の下で凍える石森氏。不遇の時代というか、まだ売れる前の話でしょう。10円をたたみの隙間から探し出し、パンを買ってくるが、部屋の中は真っ暗です。

 次はお姉さまが亡くなった事を表現しているコマですが、暗い部屋の中でそれだけ白い骨箱を前に、ベレーを置いて一人涙をこらえる石森氏。

 廊下を仲間達がドヤドヤとトキワ荘を出て行く、石森氏は暗い廊下に一人残される。実際に石森氏は仲間のうち最後までトキワ荘に住んでいました。

真っ暗。

 現在(1970年当時)の石森氏が暗い階段を下りていく。ボロボロになり、入り口のガラス戸も割れて、取り壊しを待つばかりのトキワ荘から出て行く。まわりは既に暮れています。石森氏の顔は、何事か瞑想しているようです。

                                                        fin

 


「トキワ荘物語」 ⑨ つのだ じろう

2006年11月30日 15時42分14秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 つのだ氏については、有名なので特に引用はしません。私には 「うしろの百太郎」 などオカルト路線以前の つのだ氏 の作品の方が印象に残ってます。空手バカ一代とか、ルミちゃん教室等の少女まんがなど。詳しく知りたい方は下記へ ↓


             つのだじろうホームページ



 表紙はスクーターに乗る つのだ氏、バックにはトキワ荘があしらわれてます。欄外には、

トキワ荘に通うこと1年に三百六十六回、闘志の男 つのだ じろう が自信を持っておくる !!  と煽ってます。(笑)

 2ページ目、1コマ目にはトキワ荘周辺古絵図として、自宅からトキワ荘までの道のりが乗っています。スクーターで事故を起こしたところとか、画材屋さんとか、小さな喫茶店とか細々と載っています。よく覚えていますねー。
 
 以下、黒文字は作品より引用部分です。


 ぼくは一度もトキワ荘に家賃をはらって生息したことはない。しかし・・・ほとんど毎日トキワ荘にいた。

  ― 略 ―

 ぼくがまんが家としてデビューしたのは昭和30年・・・、新漫画党なるトキワ荘一族の党員に加わりトキワ荘に足しげく出入りし始めたのは、昭和31年ごろからである。同期に石森章太郎 がトキワ一族に参加した ! 

 寺田ら、メンバーの似顔絵が続く紹介のコマ。まじめなつのだ氏は、地方から一人で上京して生活しているみんなと違い、東京生まれで親のスネかじりの自分がみんなに負けられない、と勉強に打ち込む。
 バス待ちの5分間でも電柱の写生、クロッキーに通い人体の勉強、毎日4コマまんがを描く、芸大の夏期講習へ通ったり、動物園へデッサンに日参したり、高校を卒業したてのつのだ氏はそれは一生懸命、それを強く全面に押し出してもいた。

 ところが新漫画党の会合ときたら、みんな映画の話ばかりしていて勉強会の話も計画できない。立腹したつのだ氏は、ぼくは脱退するぞとばかり家へ飛んで帰り、四角四面の意見書を毛筆 () でしたため投函する。気になってしょうがないつのだ氏。

 いってみようかなやっぱり・・・、トキワ荘へ・・・!

 結局スクーターでトキワ荘へ。会合ごとにそんなことを繰り返すつのだ氏に、トキワ荘のみんなはオトナなのであった・・・。会合の映画の話題も大いなる勉強だったのだ。まじめ人間 という呼び名を頂戴し、それでも

 まじめのどこが悪い !! と怒っている図。

 恩師 島田 啓三先生に 「眼に見える勉強だけが漫画家の勉強じゃないんだぞ」 といわれ、旅をするようになって・・・。
 やっとトキワ荘のなかまの偉大さ、恐ろしさが分かってきつつあった。背を丸め、必死で4コマを描くもの、百冊以上のクロッキー帳に素晴らしいデッサンを書き溜めているもの、映画を見て構成などを討論するもの、日夜音楽に埋もれ情操を高めているもの、みんな必死で努力しているのが分かってきたのだ。

 あのボロなトキワ荘の中には表面はダラケたようにみえなか゛ら、本質は恐ろしい努力家の怪物たちが集っていたのだ!!同時にぼくは背筋が寒くなるのを覚えた!

 負けず嫌いなのは俺だけじゃない、皆恐ろしくも尊敬できるライバルなんだ!!
 で、コロリと遊び人派に宗旨替えしたそうです。 (笑)

 場面変わって、それから十数年後のこの作品が描かれた1970年、石森・つのだ・我孫子の当時 「トキワ荘遊び人派」 3人が思い出話をしている。よくまあ、あんなにヒマができたもんだ、みんな結構忙しかったのに・・・と回想した当時とは。

 毎日のようにスクーターを駆ってトキワ荘にへ行くつのだ氏。メンバーの部屋で夜遅くまで壁を背にだべり続け、深夜十一時の時報を聞く。すると新宿にあった名代のおにぎり屋へ必ず繰り出す。酒も飲めないまじめな遊び人だった彼等のお目当ては抜群に美人な三姉妹の看板娘たちだった。3人はほのかに恋心を抱いていたらしい。
 腹いっぱいになるとお定まりのコースで深夜喫茶へ (喫茶ですよ!) そこで三題バナシ (落語でやる、関係のない三つのテーマを効果的につなげて話を続ける) などをして遊んでいると空が白んでくる。タクシーを拾って、つのだ氏の家のある十二荘 (じゅうにそうと読みます。新宿のそばです) 経由でトキワ荘へ帰る。
 一眠りして眼を覚ましたつのだ氏、スクーターを置きっぱなしだからと又、トキワ荘へ。つい上がりこみ、だべっていると夜の十一時になり、おにぎり屋へ・・・。まったく毎夜のようにこのコースを辿る・・・。今だに忘れる事の出来ない楽しさだった・・・。と回想している。

 当時はみんな新鋭売出し中で、つのだ氏も月刊5~7本、百ページ以上をベタまで一人でやっていたころ、どうしてあんなに時間が取れたのか、いつ仕事をしていたんだか全然わかんないと不思議がっている。しかし、あの三題バナシ、構成の勉強になったナ・・・。

 朝帰りは・・・まだ空が暗黒から青みがかっているころまでに帰るべきだ。空が明るくなってしまうと気持ちがいっぺんに疲れてしまう。

 疲れた顔の3人、タクシーに乗ろうとすると、あんたたち十二荘経由椎名町だろと運転手に言われてしまう。何度か乗せたことがあるそうだ。顔を覚えられるほど、通ったのね。

 最後のコマはやはり、夜のトキワ荘に入る路地の絵で終わります。

 次回は石森氏の巻。これ、文章にするの難しいです。どうしよう?

「トキワ荘物語」 ⑧ 赤塚 不二夫

2006年11月27日 11時19分27秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 赤塚氏については、簡単に はてなダイアリー から引用させて頂きます。


漫画家。俳優。

1935年9月14日、旧満州熱河省承徳の生まれ。帰国後に奈良、新潟で育つ。本名:赤塚藤雄。

1962年、「おそ松くん」大ヒット。1997年、食道がん発覚。1998年、紫綬褒章受賞。

トキワ荘、入居経験あり。アルコール中毒。

一時期、筆名を山田一郎に変えていたことがある。

漫画の中に編集者を出した最初の漫画家だと言われる。

また、俳優としても数多くのドラマや映画に出演している。

タモリを芸能界に送り出した人でもある。


■代表作

天才バカボン
おそ松くん
ひみつのアッコちゃん
もーれつア太郎

例によって、文中黒文字は作品中のセリフおよび文章です。

 表紙は、トキワ壮に入っていく路地の入り口の絵。片目の猫つき。誰が描いても、右側の塀の下にブロックのようなものがいつも積んであります。いつまで片づかなかったんだろう ?

 欄外に、「トキワ荘物語」 なのだ! 赤塚不二夫でやんす!読むべし!の文字。

 僕がトキワ荘へ引越しのは昭和31年のことだった。そのときの持ち物は雑誌とまんがの道具だけ・・・・・・。これからおれどうなるんだろうなあと部屋の真ん中で腕組みしている赤塚氏。
 
 赤塚氏の部屋の下は共同炊事場で、夏の暑い日など我慢できないくらい熱そうだ。しかし、お金がなくてフロに行けない赤塚氏、みなが寝静まった夜中に炊事場へ行き、裸になって・・・。水道の蛇口を全部あけ、流しに横になって水浴びをしていた。

 いい気持ち

 突然戸がガラっと開いて、驚いた赤塚氏、頭を蛇口にぶつけてしまった 
 入ってきたのは石森氏。結局二人で水ブロとしゃれ込んだ。なぜか石森氏、赤いベレー帽を被ったままです。

 最初は机が無かったので、森安氏からもらったベニヤ板を窓の敷居にクギで打ちつけ、手前は本を重ねて高さ調整して使っていた。ある日急ぎのカットの仕事が入り、張り切って担当者を待たせて描いていると・・・。最期の最期でクギが抜け、墨汁が飛び散ってカットが台無しに。早く描いていいところを見せるつもりが・・・、というエピソード。

 ちきしょう 机さえあればなあ
 
 よっぽど悔しかったんでしょうね。他の人が徹夜で仕事するのを見て、徹夜で仕事してみたいと思ったり。石森氏の仕事を手伝ったりして、自分は中々売れっ子になれなかったのです。

 みんなバリバリやってるなあ・・・ 俺はだめなんだなあ・・・

 寺田氏にまんがをやめてボーイにでもなろうと思って、と相談しに行く。寺田氏に、今描いてる作品を見せてごらんといわれて少女ものを見せると、

 ぼくならこの原稿から五つのまんがをつくるな、君のは詰め込みすぎだよ。テーマを通すことだよ、もう一度やってごらん。

とアドバイスされ、今月のアパート代まで貸してくれて、励ましてくれた。

 うれしいなあ! よーしやるぞォ

 石森氏にいつもおごってもらって映画を見て歩いた。それこそ食うものも食わずに・・・とその頃見た映画の題名がずらりと並ぶコマもある。
 
 もうすぐお正月。石森氏が田舎に帰ってしまい、ご飯をおごってもらえない赤塚氏は、田舎から送ってきたモチをぞうににして7日まで食いつなごうと、なけなしの28円で醤油の小ビンを買いおつゆを作る。しかし、その夜友人の横山某がやってきて、おつゆを全部飲んでしまった  おかげで次の日からモチだけ、何もつけずに食べたそうです。
 次の日横山氏に映画をおごってもらった半券です、と「情婦マノン」の半券コピーが張ってある。あら、池袋人生座だわ。だんなのお友達のおじい様が関係しているので、懐かしかった。

 その頃、嫌々少女マンガを描いていたが、締め切り間際になると石森氏や長谷 邦夫氏が手伝ってくれた。そのときだけアシスタントを持ったまんが家になれたのだ。その頃から毎日アイデアを一本作らないうちは寝むらないことに決め、将来ギャグまんが家になることを誓っている。

 そして昭和33年の秋、石森氏の推薦があり「まんが王」 からよみきりギャグの仕事が回ってきた。アイデアノート片手に石森氏に聞いてもらう。ああなって、こうなって、石森氏、ああなるんじゃなくてそうなったほうがおもしろいな。タイトルも石森氏に 「ナマちゃん」 と付けてもらった。張り切って描き、そして本が送られてくるとなんと連載になっているでは無いか! 

 わーっ!

 と石森氏に報告する赤塚氏。おれ、がんばるよ、そうだ来月号のアイデア聞いてよ・・・。

 僕はそのとき夢中だったが、石森は僕のアイデアをよく聞いてくれ、ぼくに自信をつけてくれた。いい仲間をもってしあわせだった。

 最期のページは又トキワ壮へ入る路地の入り口。向こうにトキワ荘の入り口が見えます。

 もし― ぼくがトキワ荘の住人にならなかったら・・・ ぼくは現在まんがをかいていなかったかもしれない ―

 次回はつのだ じろう氏の巻です。私、この回好きなんですよ。

「トキワ荘物語」 ⑦ よこた とくお

2006年11月22日 13時33分15秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 よこた とくお氏について、今回は はてな から引用させて頂きました。

本名は横田徳男。1957年から1960年までトキワ荘の住人だった。

『日本史できごと365日事典』『世界の偉人まんが伝記事典』『クイズきまりことば』『まんが方言なんでも事典』『はじめはじめのそのはじめ』『おもしろトイレ物語』など、多くの学習漫画を手がける。

少女漫画家として『マーガレットちゃん』という作品を週刊マーガレットに掲載していたこともある。

 『マーガレットちゃん』私覚えてます。絵柄もストーリーもほのぼのタッチでした。
 週刊マーガレット・少女フレンドは毎週のように読んでました。なんたって3姉妹いれば買ってくれますよね。おまけに弟二人も読んでいた。当時の少女まんがを覚えているんじゃ無いでしょうか。少年まんが雑誌も時々買ってもらっていたので、「少年」 「少年画報」 「少年キング」 「少年サンデー」 「マガジン」 と、いろいろ読んでいた記憶が・・・。それはさて置き。

 
        「トキワ荘物語」 ⑦ よこた とくお

 例によって、黒字は作品中のセリフ及び文章の引用となっています。


 表紙は作者自画像 (もちろんまんが) 横広、目が^^の線、団子鼻の特徴あるお顔が全面に。なぜか枠や題字の字体はボロボロです。古いという事をあらわしているのか。
 
 原稿が散らかっている中でイビキを掻きながら寝ているよこた氏。赤塚氏がごはんだよ と起こしに来るとガバッと はいよ 赤塚氏の母上が石森さんも呼びなさいというと、赤塚氏、おもむろに壁をたたいて隣の石森氏を呼びます。みんなでいただきます !!

 とき=昭和31年 ところ=トキワ荘 当時ぼくと石森氏は赤塚氏のおかあさんに食事やせんたくの面倒をみてもらっていた。

 ニンジン嫌いな赤塚氏のおかずを 「赤塚氏は好き嫌いが多すぎるよ、ねえ」 と他のおかずまでいっしょにガパッと食べてやる。

トクちゃんは仕事は遅いけど食べるのは早いね と石森氏

なにしろ 口が大きいもんな と赤塚氏、悔しそう。

ガハハハ くちだけじゃなくてハナのあなも大きいよん 指をハナのあなにスポッと入れてみせるよこた氏

わ、きたない 石森氏

 食後は赤塚氏と相撲を取って食後の運動。よこた氏強い!ニンジンを食べないから馬力が出ないんだという よこた氏 にトクちゃん、頭は弱いけど相撲は強いんだね、と赤塚氏に皮肉を言われて本気で投げ飛ばしている よこた氏 。赤塚氏の顔は笑ってます。(なごみ~)

 そろそろTVで相撲が始まる頃と、石森氏の部屋へTVを見せに貰いに行く。当時大きなTVは石森氏の部屋にしかなかったのです。

栃の海 そこだっがんばれ~ 

 うるさくて仕事にならない石森氏、やっと相撲が終わったと思ったらナイターを見始める よこた氏。

長島がんばれっ ホームラン頼むぞ TVがワーワー

 もうしらないっと野球が終わるまでひと寝入りする石森氏だったが よこた氏に起こされる。野球が終わったかと思いきや、

いま 一番いいとこなんだけど、ひとりで見るのもったいないから一緒に見て欲しいの 
石森氏  めいわくだなぁ
 
ほら、長島ホームラン打ったよ、みてみて

            寂しがりやさん ?

 そこに渡りに舟とタバコを買いに行こうと赤塚氏が登場。ちょっと待ったと よこた氏 

タバコを買うなんてばかばかしいよ、そのお金でパチンコやれば・・・。

 ご想像の通り、最初からタバコ屋で買ったほうが安く付きました。はあ~
相撲も野球もパチンコも終わったし、つまんねぇと寝っころがる よこた氏。(遊び人ですねー) 将棋がマダだったと赤塚氏を誘って始めるが、

トクちゃんは負けるとしつこいから花を持たせてやろう

 と途中から逃げられる。花フダにも、仕事があると逃げられ、しょうがない、オレも仕事するかと部屋へ帰るが、紙も無い、鉛筆もない、ペンも無いという有様。何度も赤塚氏に借りに行って呆れられる。
 はちまき締めてがんばるぞ~と思ったけど、眠くてだめだと大いびき。そして、続きが見たい人は始めに戻る、となり、

同じような生活が三年余りつづいたってわけなの

 と終わっています。仕事するより遊びが命だったのね。でも、一時期この人のマンガよく見ましたよ。りぼんコミックやマーガレット等の少女誌でも連載していたし。
 大作家ではなかったかもですが、ほのぼのして、見ていてゆったりした気分になる楽しい作品ばかりでした。

「トキワ荘物語」 ⑥ 永田 竹丸

2006年11月21日 10時08分49秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
永田 竹丸氏については私殆ど知らないので、以下 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用させて頂きます。


永田 竹丸(ながた たけまる、本名・みよまる、男性、1934年5月11日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。

人物
『漫画少年』の常連投稿者で、森安なおやに誘われる形で田河水泡に師事する。そして『新漫画党』にも入党。トキワ荘の通い組としても知られている。端正な画風とほのぼのとしたストーリーで、1950年代を中心に人気漫画家となった。当時、漫画で初めてスクリーントーンを導入した人物としても知られ、その後は漫画家仲間の間であっという間に浸透したという。『ビックルくん』で第一回講談社児童まんが賞を受賞。

1960年代中盤は、日本基督教団の冊子に、代表作となった『おにいちゃん』を長期にわたり連載する(やや特殊な誌面での連載ではあるが、宗教色は皆無の生活コメディ作品である)。この時期にはTCJ(現・エイケン)やピー・プロダクションに在籍していたこともある。

1970年代以降は仕事が減り、藤子不二雄のチーフアシスタントをしながら細々と自分の漫画を執筆していた時期もあった。

田河水泡の『のらくろ』の漫画執筆権を譲り受けた正統継承者でもある(山根青鬼、山根赤鬼も『のらくろ』の正統継承者である)。

主な作品
おにいちゃん
ビックルくん
トキワ荘青春物語(競作)蝸牛社
ものしりママのチエ子さん

エピソード
藤子不二雄Aの『まんが道』では、実家の庭に離れ家を作ってもらい羨ましがられる、というくだりがあるが、実際には母屋の損傷が激しく、部屋の殆どが使い物にならなかったためにやむなく離れ家を建ててもらったという。
スクリーントーンを初めて使った人物ではあるが、後進の漫画家達がスクリーントーンを多用する事を批判している。
唐沢なをきの漫画『電脳なをさん』で『おにいちゃん』のパロディ『おなにいちゃん』が描かれたことがある。

 
 長くなりましたが、私も知らない事ばかり。ふ~ん、こんな方だったのね。

 
     「トキワ荘物語」 ⑥ 永田 竹丸 「漫画少年合作の記」  

以下、黒文字は作品中のセリフ及び文章です。

 他の方達が大体8ページの作品なのに、16ページの大作です。新漫画党のスターティングメンバーである永田氏は、この作品の舞台を仕事、特に 「漫画少年」 と、その出版社 「学童社」 について多く描いています。

 飯田橋駅の絵があり、東京飯田橋。トキワ荘の住人達がまんが家をこころざすきっかけをつくった 「漫画少年」 の学童社はこの駅から五分程の所にあった。

 そこでは山根 赤鬼・青鬼の双子兄弟や、森安氏など投稿仲間と知り合い、交流を深めていた。寺田氏が新潟から上京し椎名町のトキワ荘に住むというので、早速おとづれる。自宅から徒歩で10分と近かった。
 学童社から投稿仲間に召集がかかり、合作の特集をやる事になった。皆でアイデアを出し合い、カレーライスをご馳走になりながら和気藹々としていたが、当時から返本の山は凄かった。以前は雑誌が足りないくらいの事もあったと聞いたのに・・・。

 合作1回目は 「もしも特集」 となり、寺田、山根兄弟、永田、坂本、の5人で合作した。(表紙の絵)
 
 その前後から寺田氏は 「漫画少年」 に連載を持ち、他の4人もそれぞれいろいろな雑誌に連載を持つようになった。

 2回目の合作は山根兄弟が他社の仕事で忙しく、3人だけになった。学童社は原稿料の払いが悪いので引き止められないのだ。寺田氏など学童社一本でやっているので、コッペパンと水だけで一週間も過ごすとか、と編集者に聞き、ガリガリになって倒れている寺田氏を想像して訪ねてみるが、無事な顔を見てほっとする。(笑)
 永田氏は自宅組 (つのだ じろう氏もそう) だったので、上京組のことは、心配していたのでしょう。優しい方ですね。
 
 森安氏や安孫子氏も集まってきたので、みんなで漫画のグループを作ろうという事になり、ちょうど良いので 「漫少」 の合作をこのメンバーでやろうという事になった。

 その頃の漫少の投稿欄にはのちにトキワ荘の住人になった 鈴木伸一、赤塚不二夫、石森章太郎、つのだじろう、松本零士、伊藤章夫、前川かずお、内山安二、多田ヒロシ等おおぜい名をつらねている。

 合作は、「新漫画党特集」 として大型ページになり、快調だ。森安氏はキャバキャバと喜んでいる。次々とアイデアを出し合い、4色ページになったりして好評で、他の雑誌からも合作の以来がドンドン来る。それぞれ個々の作品も認められていった。
 
 そんなある日、他社に合作原稿を届けた永田氏、ふと思い立って学童社に寄ってみた。そこで 「漫画少年」 が十月号で廃刊になるのを知る。

 最後のコマは・・・。

 いつも気軽に向かうトキワ荘へ、その日ばかりは足が重かった。やがてそれぞれ仲間の仕事の舞台は変わり、私は新漫画党を去った。新漫画党は、後からトキワ荘に住むようになった人たちを加えて再編成された。

と終わっています。なんで永田氏が離党したのかは明かされていません。他の人の作品にも載っていませんが、穏やかな永田氏のことですから、けんか別れということは無いでしょう。ちなみに、本人の似顔絵はまあ、十人並みに描かれていますが、他の人の永田氏の似顔は、どれも非常に美男子に描かれています。顔も性格もノープルな都会派の方だったのでしょうね。

「トキワ荘物語」  ⑤ 鈴木 伸一

2006年11月20日 11時50分48秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 ラーメン好きの鈴木さん、として藤子不二雄のマンガなどでキャラ的には有名になった鈴木 伸一氏の巻。トキワ荘後、アニメーターとして生きることになります。マンガ家 → アニメーターは吉田 竜夫氏などもそうでしょうか、結構いますよね。

 表紙は、寺田氏、藤子不二雄両氏、石森氏、赤塚氏、森安氏、自分の似顔絵が並んでいます。本人はベレー帽をかぶって机の前にいます。多分写真から起こしたような、写実的な似顔絵です。気になったのは、前回の巻を描いた森安氏の顔。前回の本人の絵だと、背も低く、可愛い感じの子供っぽい絵に描かれていますが、こちらはホームベース型の四角いごつい顔にめがね、背も大きそうです。他の巻に出てくる森安氏も同じイメージなので、こちらの方が本当の姿なのでしょう。なんで可愛く描いたのかしら。理想を描いたのか ?

 それはさておき、又、黒字は作品中のセリフ及び文章となっています

 寺さんから敷金を拝借してトキワ荘に入ったのは(昭和)30年の9月であった。すでに寺田、藤本、我孫子の3氏がはいっていた。それからまもなく石森、赤塚、森安の3氏も南京虫とともにやって来てすみついた。 

 鈴木氏はペンネーム (風田 朗) からフーちゃんと呼ばれていたらしい。当時まんがだけでは食えない鈴木氏は、昼間は水道橋にあるデザインスタジオで働き、夜アパートへ帰ってまんがを描く毎日だった。仕事から帰ってこれから徹夜でまんがを描くという寺田氏と一緒にまんがを描きはじめるが、昼間の疲れがでて眠くなり大イビキを掻き始める。うるさくて仕事にならない寺さんに顔にスミを塗られてしまった。(ぷぷっ)

 2階の間取りが詳しく出ていて、キッチリ各部屋の様子が俯瞰図で描かれています。我孫子氏の部屋には手塚先生からもらった机があるとか、藤本氏の部屋には (藤本氏はお母さんと一緒に住んでいた) プラモデルの帆船が飾ってあったとか、石森氏の部屋に「凄い音を出すステレオ」があったり、ベートーベンのデスマスクが飾ってあったり、鈴木氏と一緒の部屋にいた森安氏の机は師の田河 水泡氏から頂いたものだとか。作者の几帳面な性格がかいま見えます。
 
 安孫子氏がいつも行くフロ屋でないフロ屋に行って、男湯と女湯を間違えて女性客に騒がれた話や、新漫画党の会合の時のエピソードなどが続きます。
 新漫画党の会合は、始めは真面目に今度デッサン会をやろうとか、先輩漫画家の話を聞きに行こうとか、子供達と交流会を開こうとか、言っているのですが、そのうちいたづらが始まります。蝋細工のピーナッツをみんなが藤子両氏に食べさせられたり、それを美味いと森安氏がざーっと全部食べてしまったり、
 寺さんがプープークッションの犠牲になったり、ガムを取ろうとしてパッチンとやられたり、みんな子供みたい。石森氏の肩にハチが止まっていて寺さんが新聞ではたいたらこれも藤子氏がつけたつくりもの  みんなでふざけあった楽しい思い出。考えて見たらみんな20代前半なんですよね。

 そんなして騒いでいると、下の住人からホーキの柄で天井をドンドンされ、
あんたたち、少し静かにして頂戴!! と怒られててしまいました。下のおばさん、

まったく二階の若いもんときたらも働きにもいかないで遊んでばかりいて、日本もダメねぇ

 なんて言ってる。昼真っから部屋にいて、ポンチ絵を描いてる若者なんてカタギには見えなかったのでしょう。

 最近、トキワ荘を訪ねてみた。もうまんが家は一人も住んでいない。

 ― 略 ―

 しかし、廊下に立っていると十数年前の生活が懐かしくよみがえってくる。貧乏だったが若さがあった。そして夢があった。ここではぐくまれた友情が今日のお互いを支えている。

 最後はトキワ荘の外観のデッサンが描かれています。

「トキワ荘物語」 ④ 森安 なおや

2006年11月15日 10時30分41秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 またしても、「はてな」 で 森安 なおや を検索して見ましたが、簡単にしか載っていません。

森安 なおや トキワ荘のムードメーカー。1999年5月21日没、享年64歳。

 もう、亡くなっていらっしゃるんですね。他でいろいろ漁った所、
 
 本名は、森安 直(ただし)、1934年生まれの岡山県出身です。高校在学中、「山陽新聞中学生版」に4コマを掲載していたというのですから、早熟の天才だったのでしょう。上京後もすぐ田河 水泡先生 (のらくろの作者ね) の内弟子に入ったといいます。でも、あまり作品は知られていないなー。なぞは以下の 「トキワ荘物語」 にも少し伺えるような・・・。

 記事中、黒文字は作品中のセリフ及び文章です。


 まんが家志願 のるかそるか

 表紙には、のるかそるか!! ぼくは東京でまんが家になるんだ・・・。さらば岡山 岡山城をバックに作者のうしろ姿が描いてあります。 

 始めに、「COM」 の紙上を借りて、十五年ぶりにまんがを描かせてくれた編集者にお礼を述べています。ついでに 「紫綬褒章」 をもらった恩師の 田河 水泡 にお祝いを述べています。

「トキワ荘残酷物語ー っ」 と始まりました。何でか

 東京の大学に受かった級友たちと岡山駅を出発する森安氏。弁当もって見送りに来いと呼びつけた美人級友たちと別れを惜しむはずが・・・。トイレに入っていて声だけになり。(笑) 絵を見るとまだSLですね。東京まで何時間かかったんだろう。
 他の級友達が「男子いったん志しを立てて きょうかんをーいずー 学もしならずんば死すともー」 と決死の覚悟で上京しているところ、(ご時世ですね) 
 そんなのむかしのことさ、あ はらへった とのん気な主人公。

 上京した森安氏は、田河 水泡先生の内弟子に入ることになっていたのです。田河師匠の前で、「先生の弟子になるといったら校長はぐうもいえなくて卒業させてくれたんす」 タバコを吸いながら大きな態度の内弟子です。
 前からの弟子に通いで 山根 赤鬼・青鬼兄弟、滝田 ゆうなどがいました。先輩弟子には長谷川 町子や倉金 章介(私は知りません)など。ですが、女中代わりに内弟子になれたのは森安氏だけだったのです。昭和38年春のことでした。

 同期の弟子には住み込みということでライバル視されましたが、この女中がわり、炊事・洗濯まるでダメ。奥様に「もっと上手にごはん焚けないの」 先生に「ぼくは食べないからね」 といわれる始末。
 他にも、先生からもらったスイス製の時計を落としてなくした話しとか、それを拾ってくれたのが 「待ち合い」 (今のラブホかな) の色っぽい女性で、出世したら来てねと言われたとか、面白いエピソードが続きます。 

 田舎で天才と言われた森安氏は早く独立したくてたまらない。「文才や、ユーモアを磨きなさい」 と先生に言われても独立の心は止みがたく、飛び出すようにして独立して原稿を目当ての出版社に持ち込みます。断られても先生の所へは戻れずに先輩まんが家に相談すると、有望な新人ということで 寺田 ヒロオ を紹介されます。
 永田 竹丸(美男子に描かれています)、坂本 三郎、寺田、後に藤子 不二雄と「新漫画党」 を立ち上げますが、生来の怠け者とてなかなかまんがが描けないでいます。
 「漫画少年」 がつぶれ、いよいよ描くところのない森安氏は、牛乳配達を始めるが新漫画党の党員に牛乳を押し付けてひんしゅくを買ったり、寺田氏がかばってトキワ荘に入れてやれば、鈴木 伸一の本を売っておかずにしたり、藤子 不二雄に食べさせてもらったり。トラブルメーカーですね。でも誰も本気で責めていない。みんな気のいいやつだと、作者も感謝しています。
 
 石森氏と赤塚氏もトキワ荘に入ってきて、皆競って描いているのに、森安氏ひとり、寺田に紹介してもらった仕事も落として (締め切りに間に合わなかったのね) ついには干されてトキワ荘を去ることに。6ヶ月も部屋代をため、寺田氏に尻拭いさせてしまった。さすがに怒った寺田氏は、「新漫画党」 の党員を集めて会を除名し、「WANTED」 のポスターまで作られてしまいます。しかし、そこに弗10 (10ドル) と書いてあるのを見た森安氏、おれはそんなに安く無いぞと、弗10.000 と書き直すのであった・・・。

 若いのに、破滅型の人生ですね。その後もペンキ屋をやって生計を立てたり、晩年は長編まんがを描いて一流紙での再デビューを図って叶わなかったり、いろいろあったようですが、他のトキワ荘のみんなと仕事の上ではかけ離れてしまったようです。以前、NHKの 「トキワ荘」 を題材にした番組でその辺の事情を話していました。
 
          ちょっと寂しい回になりました。

「トキワ荘物語」  ③ 藤子 不二雄

2006年11月09日 13時51分37秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
        「トキワ荘物語」 第3回は ご存知 藤子 不二雄氏 の巻


藤子 不二雄氏についても、はてなダイアリーから引用させて頂きます。

安孫子素雄・藤本弘のコンビ名。旧名、足塚不二雄。昭和27年『天使の玉ちゃん』でデビュー。

『ドラえもん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『怪物くん』『オバケのQ太郎』『エスパー魔美』『プロゴルファー猿』『海の王子』など藤子不二雄名義で多数の名作を発表、日本中の子供たちに夢と希望を与える。

昭和63年(1988年)、コンビを解消しそれぞれ藤子不二雄A、藤子・F・不二雄として再スタートを切る。

ファンからはそれぞれA先生、F先生と呼ばれ親しまれている。


PARTが7つに分かれており、見開き2Pづつでオチ付き、流石の構成です。
文中、黒文字は作品中のセリフ及び文章です。表紙は簡潔なトキワ荘の外観の絵、2階に上がる階段が右手に見えます。


PART 1

 昭和29年10月30日、午前10時学童社加藤氏さしまわしの小型三輪にて両国を出発し、トキワ荘へ。11時トキワ荘へ到着、テラさんのお迎えを受け、手塚先生のあとをついで第14号室にはいる。

 写真を撮ったり、テラさんに挨拶をして、その後ラーメンを食べている絵。ふすまに大穴の図。テラさんが言うには、「それは手塚さんのいた頃、泊まった編集の人が夜中に寝ぼけてケヤブッタんだそーだよ」 

 いよいよ待望のアパート生活の始まりだ ! 
 うん! がんばろうぜ!
 二畳から四畳半に二畳半の出世だな
 しかし二畳の生活になれると四畳半というのは広いなあ。 うしろに空間があり過ぎて不安だ。


 と安孫子氏が後ろに寝っころがる。結局壁を背にして机を並べ、ふたりでカリカリとマンガを描いている。(笑)


PART 2

 昭和29年11月1日 トキワ荘へ入ることができたのは、すべて手塚先生のおかげだ。引越しの報告に先生を訪ねる。

 先生、当時28歳の写真から絵に起こしたもののカット。ベレー帽着用、今の28歳より老けて見える。
 どうやら敷金の3万円をそのまま残して出てくれたらしい。先生曰く、

 ああ、いいす!いいす! あのままおいとけばいいんですよ。家賃がはらえなくなっても、あれからさっぴくそーだから、少なくとも半年は家賃ためても住めるわけだ。
 どーも !


 昔は大家も鷹揚だったんですね。

 それより君たち映画いかないか
 でも、今忙しいんでしょ
 いいーんだいいーんだ さぁ・・・


 その時ガバッと起き上がる鬼の編集者。
先生 ! トイレですか !

 腕組みしている鬼の前で、3人でカリカリカリ・・・。


PART 3

 昭和29年12月5日 トキワ荘へ移って一月あまりたったが、ちょうど年来の仕事がにわかに集中して、連日机の前にすわりっきり。今日もこれで貫徹3日目。睡魔が激しく襲って。ペン進まず。

 仲良く机を並べ、布団を肩からかけてカリカリと仕事中の二人。一人がクーと眠ると隣からペン先にチクッとつつかれる。

 居眠りしたらペンでつっついて起こすという約束だったぞ。

 次はもう一人がコクッ、チクッ!! ひ~ 二人同時にコクッコクッ、同時にハッと気づいてペンを構え、

くるかー !!


PART 4

 昭和30年9月2日 漫画少年 で新人王になった風田 朗(本名 鈴木 伸一)が下関から上京、新漫画党へ入るとともにトキワ荘へも入る。風ちゃんはまったく奇妙でオカシイ人だ。

 鈴木氏は失業保険で半年何もしなくても食えるとか、雪村いずみのファンで、手を握って離さなかったとか、その手を1ヶ月洗わなかったとか、おかしな話を次々します。
 テラさんの部屋でチューダー(サイダー+ショウチュウ)、サケ缶、マグロのフレーク、メンチカツとキャベツ、コロッケ、トマトなどで歓迎会を催す。風ちゃんは、ベレー帽の頭をひねり、布団を体に巻きつけて、アラビアのモスクでござい、とかくし芸をしてくれた。
 相当、面白い人だったようです。

PART 5

 は、石森氏と赤塚氏が揃ってトキワ荘の住人になったので、さっそく見学に行く話。
 怪童石森君は18歳、色白の美少年赤塚君は21歳。コマを大きく取ったシネスコマンガなるものを描いて、出版社に断られ憤慨していたが、「すぐにはコマを増やせないだろう」 というと、なんとページの真ん中に枠を引いてコマを倍にした 

 
PART 6

 では、ついに石森氏のお姉さん登場 !!
姉が出てくるので、上野まで迎えに行く、という石森氏の言葉に、我孫子氏が思い浮かべるのは、石森氏そっくりの丸顔、アバタ面の垢抜けない女性の顔。その安孫子氏、お昼にお湯を沸かしに台所に入ろうとするとお下げ髪の美少女が!
 バタバタと藤本弘氏の所に戻って

台所に、カカカ カレンなる美女がいるぞ !!

 その美女が石森氏と挨拶に来て 「いつも弟がお世話になっています。」 というでは無いか!

 しかし、フシギだなぁ
 なにが
 い・いや


 石森氏とお姉さんの顔を並べて想像する二人であった。


PART 7

 昭和31年7月15日 午後5時よりテラさんの部屋で新漫画党二周年記念会を開く。ご馳走はテラさん推賞のヒナ忠の丸蒸し焼きなり。

 会に先立って恒例の記念写真を撮ることになったが、これが・・・。テラさんがリコーフレックスを買ったばかりとて、もう1枚、もう1枚とご馳走を前にしてなかなか終わらない。初めはいろいろにポーズをとったりしていたみんなも最後には怒り顔、真ん中で笑っているのはテラさんばかり・・・。

 最後のページは夜のトキワ荘にまん丸お月様、

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず ~ 

 方丈記の言葉でお終いとなります。

長々とお付き合い、ありがとう御座いました。面白くて、はしょれないのです~(泣)