goo blog サービス終了のお知らせ 

猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

「トキワ荘物語」 ② 寺田 ヒロオ

2006年11月07日 09時06分13秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 「トキワ荘物語」 2回目は、みんなの兄貴分 寺田 ヒロオ 氏の巻です。

 寺田 ヒロオ氏については、はてなダイアリーから引用させて頂きます。

漫画家。

1926~1992 新潟県出身。

トキワ荘の実質的なまとめ役。愛称、テラさん。

各種回想では随分大人に思えるが、藤子不二雄と3歳しか年は違わなかった。(ちなみに、手塚治虫も、テラさんより3歳年長であるのみ)

電電公社時代都市対抗でピッチャーを務める。また、中村八大は義兄にあたる。

30年代半ばで少年漫画の筆を折る。晩年は雑誌「漫画少年」の書誌をまとめた「漫画少年史」を自費出版した。

■主な作品
スポーツマン金太郎



 COM 1969年、11月号 寺田 ヒロオ 手塚 治虫先生から新漫画党まで と題して、表紙の絵は手塚先生が親鳥、寺田氏がひよこになって手塚氏の上に乗っており、藤子、石森、赤塚の各氏のひよこが卵のカラをかぶってカラから出ようとしている図が描かれています。
 
 ぼくが東京椎名町のトキワ荘アパートへはいったのは (三輪自動車の荷台に引越し荷物の絵) 師走の風も冷たい昭和28年の大晦日のことだった。
 初めてかかげた紙切れの表札 (ぺたり)
 机と布団しかない四畳半だが、とにかく 「おれの城」 だ!
当時二十一歳まだ太ってはいなかった。向かいの部屋は 手塚 治虫先生。だが宝塚のおうちに帰っておられ、お目にかかったのは1ヶ月後


 仕事は 「漫画少年」 だけ、一コマや四コマのマンガを描いてはせっせと通う。急ぎのカットの仕事を貰い徹夜で描く、と真面目な性格で知られた寺田氏の仕事振りや、収入がまだ少なく、野菜をひとつ買っては色々に料理してそればかり食べている様子など描かれている。
 かと思えば向かいの手塚先生の部屋の賑わい (原稿待ちの編集者がわんさわんさ) を見て、かくも差があるものかと激しい劣等感にさいなまれたり。
 ある日、「少年クラブ」 の人が来て、ついにオレも認められる日が来たかと思ったら・・・。 

 「手塚先生はお留守ですか ?」 「知りません」 「手塚先生はどこへお出かけですか ?」 「知りません」

 そんなことが続くと

 「おれは手塚先生の門番じゃないぞう !!」

 昭和29年、藤子不二雄、坂本三郎、森安直哉、永田竹丸らと新漫画党を結成する。その後メンバーも変わったが、 (鈴木伸一、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二ら) 手塚先生が他のアパートへ移転されると、すぐに藤子がそこへ越してきた。石森も赤塚もトキワ荘に入った。会合に便利と思ったが・・・。それぞれが売れっ子になってくると、またぞろ彼等の留守番やら伝言係りやら、書類の受け渡しを頼まれたり・・・一難去って又一難の有様。

 「おれは新漫画党の門番じゃないぞう !!」 と叫んで、昭和32年6月20日にトキワ荘を出た。

 という顛末が描かれています。ぷぷぷっ、この回は、まとまりがあって、オチも付き、当時の状況が良く判り、大変好感の持てる一遍です。描き手の真面目さがそのまま出ています。

 次回は、藤子 不二雄氏の巻です。 


 トキワ荘が建っていた頃の地図など凄く詳しい案内を見つけました。↓ こちらのHPは、テーマを決めてその地区を歩いて、詳しい案内を何十も作製しているHPさんです。


 「東京紅團 トキワ荘物語」  

「トキワ荘物語」 ①水野 英子

2006年11月06日 13時30分19秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 まんがの「トキワ荘物語」は、COMに1969年10月号の 水野 英子氏から1970年9月号の最終話 手塚 治虫氏まで、11回の読みきり連載で掲載されたものです。


                 


              
              「トキワ荘物語」の連載されていた11ヶ月分のCOM 5・6月号は合併号




                         


                10月号は水野氏、下の11月号には寺田ヒロオ氏が執筆しています。表紙はこの頃 フリーランスになった前後の和田 誠氏が描いています。

  記事アップした最初、表紙を やなせたかし氏 と間違えておりました。お詫びして訂正させていただきます。(2007年3月26日)


 手塚 治虫氏が最初に入居してから漫画家の卵たちが次々に入居し、巣立っていったマンガ虎の穴 (?) のアパートの物語。後に有名になって大家と呼ばれた方々の仲間の事やら貧乏やら成功やら挫折やら、つまり楽しかった青春の日々がつづられていて、どれも当時面白く読みました。今回読み直してみると、当時はわからなかった大人の事情も分かってきて、(なにしろ連載当時は私、中学生でしたから)
感慨深いものが在ります。

 では、はじめを飾った水野 英子氏の作品から。文中の黒字は、作中のセリフおよび文章です。

 私がトキワ荘に来たのは、たしか昭和31年の春でした。当時「少女クラブ」の編集員だった 丸山 昭氏に連れられて、胸ときめかせながら上京第一歩をふみだしたのです。ニキビはなやかな17歳でありました。

 そこには石森(当時)章太郎氏、赤塚不二夫両氏が待っていて、垢抜けない、元気いっぱいの水野氏 (ごめんなさい、そんな風に描いてあるのです) は、

 「これ女 ?」 「ハァそのつもりですけど」 

 といわれる始末。ちなみに水野氏の服装は上が制服のセーラー服、下はズボンといういでたち。

 私がここへきた一番の目的は、石森・赤塚両氏と三人で U・マイア (うーまいや)の名で 「少女クラブ」 に合作をする事でした。

 「赤い人黒髪」 歌劇 「サムソンとデリラ」 より 少女クラブ 別冊付録
 「星はかなしく」 歌劇 「アイーダ」 より    少女クラブ 別冊付録
 「くらやみの天使」 連載ミステリーもの  

 水野のM(マ)、石森のイ、赤塚のア、それにUをつけるとU(ウー)・マイアーというわけ。
 夜ともなれば話の落ちること落ちること。それまでわたし、なんにも知らない純情な乙女だったのよ


 新入りの新鮮な血が好きな南京虫の話とか、
タバコを煙突みたいに吸っている人はまずいのかな (石森氏のことでしょう)

 ゴキブリを追いかけたり、ネズミを見せてもクモを見せても驚かない水野氏に
「やっぱりあれ、女か?」 「つまんねえよ、こいつ何を見せてもこわがらねえんだ」
 と赤塚氏に言われ、そのくせ男性陣がブルーフィルム(ふるいねー)やヌード写真などを見るときだけ女扱いされ、そんな

 初夏のある日、石森氏のお姉さんが喘息の発作で入院、急死、あの夜、そんなこととは知らず三人で映画なんかいったっけ。胸の痛む思い出・・・。

 石森氏のお姉さんは本当に優しい美人だったらしく、藤子不二雄氏の回にも、

 台所にカ・カレンな美女がいる ! 

 と氏の最上級の美人顔で登場します。水野氏も

 優しい素敵なひとだったナ

 と言っています。石森氏がマンガを描く事に理解のあったお姉さま、話には聞いていましたが、本当に若くして亡くなっていたのですね。
 
 食事の世話は赤塚さんのおかあさんがいっさい見てくれることになり、アパートの部屋代三千円、食事代がだいたい四千五百円くらいで、一万円で十分な生活が出来ました。

 昭和31年といえば、戦後11年目 もう「戦後ではない」 と白書が言ってからでも2年足らず、私は幼稚園に入るか入らないかの頃ですもの。流石にこの頃のマンガは覚えていません。でも、トキワ荘のようなモルタル2階建てのアパートは子供の頃まだいっぱいあって、ひとりものとか、若い夫婦ものとか住んでました。見取り図も出ていますが入り口の電灯はこんな感じかな ?


               


 あはは、すいません、うちの近くのモルタル2階建てアパートの入り口そばの電球です。まだあるんですよ、こんなのが。うちの方、下町だから。

 長くなってしまったので、やっぱり一人づつUPします。本当は二人くらいまとめて書きたかったのですが。長期連載、こうご期待 

 



竹宮 惠子氏のデビュー前作品 「弟」

2006年10月19日 14時15分25秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 以前、山岸 凉子先生のデビュー前作品について記事にしましたが ↓


         山岸 凉子先生のデビュー前の作品

 
 竹宮 惠子先生のもCOMに有ったので、紹介します。

 漫画雑誌 「COM」 というのは、旧虫プロの子会社、出版部門の虫プロ商事が1967年から発刊していた漫画専門月刊誌で、商業性にとらわれない実験的作品を発表させるという趣向で、新人の登用や、投稿作品の掲載に積極的な雑誌でした。虫プロ商事が1973年に本体の虫プロダクションより少し早く倒産した為、「COM」 も7年経たずに廃刊になったと思います。最後は出たり出なかったり、体裁が変わったりしたので、私も最後の最後までは見届けられませんでした。これはその前の石ノ森 章太郎先生がデビューした 「漫画少年」 の最後と同じですね。

 「COM」 については、1冊、1冊に当時の情報がつまっているので、いづれ1冊づつ紹介しようかと思っています。(又々、いつになるやら 泣)

 さて、竹宮 惠子先生のデビューは、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると、

 1968年1月、17歳の時に「りんごの罪」が「週間マーガレット」の新人賞に佳作入選し、デピュー。同年、「かぎっこ集団」で「COM」月例新人賞も受賞している。

 となっていますが、その前より当然 「ぐら・こん」 という「COM」の投稿コーナーの入選常連者となっています。絵柄が掲載された最初は、1967年7月号の 「ここのつの友情」 だと思いますが、これは少年とハーフの少年との友情を描いた作品。全部は掲載されていないので良く判りませんが、多分8Pくらいのものでしょう。丸っこい絵柄で、手塚先生や石ノ森先生っぽい絵です。総合で375点取っています。

 次に出てくるのは、投稿コーナーでなく、1967年の12月号の女流新人まんが家競作集という特集です。やはり8Pで、全ページフルサイズで掲載、これは商業誌としては竹宮先生の初めてと思います。嬉しかったのでは無いでしょうか。題名は 「弟」。
 兄と実は捨て子だった弟の葛藤と仲直りのお話。これも丸っこい絵柄で、特に兄の方はモデルが石ノ森先生じゃないかと思われるような丸顔ですが、(絵が上手という設定だし) 弟の方がですねー  後の竹宮先生の描くイケメン男子の面影見え見えで良いんですよー。切れ長目の、しょうゆ顔って言うんでしょうか。シャープな影のある男の子、となっております。あー皆様に見せたい 

 欄外の所に作者の紹介があり、引用させて頂きますと、

 徳島県のある高校の3年生。小山田つとむ君の率いるまんがグループ 「宝島」 に所属。肉筆回覧誌 「宝島」 の中で 「ナイーダ」 等力作を発表している。

 となっています。

 その後、1968年7月号でついに月例の新人賞をお取りになり、もうプロということですが、その後活躍の場を少女マンガ誌の方に移されたので、「COM」 の方には発表されていないと思います。尚、1971年に「週間少女コミック」30号に「ここのつの友情」、37号に 「ナイーダ」 を発表されていますが、私は見ていないので判りませんけど、多分アマ時代の旧作を描き直されたものでしょう。

 今回、調べるために「COM」の1967年一年間12冊だけをざっと見ましたが、「ぐら・こん」 の中に後のマンガ家さんたちのお名前がいっぱい。あだち 充さんとか、もとやま 礼子さんとか、青柳 裕介さんは最初からセミプロの活躍だし、本名で出ていて、私には分からない方々も多分た~くさん。今となっては貴重な資料なので、1冊ずつじっくり読んでみようと思います。 (いづれ そればっかり)

山岸凉子先生のデビュー前の作品

2005年03月11日 18時00分45秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 子供の頃からマンガ好きってマンガ好きはみんなそうかな。
私は山岸凉子先生が好きなんですが、先日ファンの方の個人サイトを見ていたら、昔懐かし「COM」の1968年2月号に先生のデビュー前の作品が載ってるよと情報有り。
 あ~らCOMならうちにほとんど取って有るわよと、調べたら有りましたよ。1968年2月号のぐら・こんのページのまんが予備校のコーナー「児童マンガコース」の2作目に載ってました。
 
 水野英子先生風の画風で、総合310点を取られていました。自閉症の少女と青年のお話。当時すでに自閉症の話を描くなんてすごい!37年前ですよ。山岸凉子というお名前は本名なんでしょうかそのまま載ってました。(19才)ですって。

 当時は私,花も恥らう浦和の中学生。COMが出た時は衝撃でした。廃刊になるまでほとんど買って、今まで大切に取って有ります。

 当時活躍なさっていた作家の方達今はどうなさっているでしょうか。どなたか昔のマンガについてお話しませんか。待ってます。