比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秋の秩父路・・・武州日野で・・・満州開拓殉難者碑を見た

2013-11-17 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
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10月6日、秩父市荒川日野・・・秩父鉄道武州日野駅あたり(写真は春、桜の時期です)。

枝垂桜で有名な青雲寺から国道140号線を少し遡って、ここにやって来ました。
青雲寺に建立されていた満蒙開拓団の犠牲者の拓霊芳魂碑と同じ犠牲者の碑が日野にあると聞いていたからです。
武州日野駅より少し秩父市街地よりの荒川中学校前の信号を山側に入り秩父鉄道の踏切を渡ると右側に浅間神社が。

浅間神社の赤い鳥居。右側の線路よりに駐車場があります。

浅間神社・・・富士信仰(山岳信仰)のお宮さん。祭神は木花佐久夜姫命といわれますがこれはヤマトの神話からの神様です。
筑紫の国の某が900年ごろ私有地に創建したと縁起書に記してあります。お宮さんについては説明省略。

鳥居の前の左右の細い道を左に回ると急傾斜の山肌にひっそりと建つ満州開拓殉難者碑

満州開拓殉難者名簿・・・墓誌です。中川村分村の開拓団613人のうち293人の犠牲者の名前すべてでしょうか。

黙祷・・・
入植場所、時期と名前が家族ごとに記されているようです。女性の名前が多いようです。太平洋戦争で日本の敗色が決定的になるころ、満州の開拓者の家族は老人・子どもを除く青年・成人男性はすべて現地応召、南方戦線、中国戦線、関東軍に配属されました。1945年8月9日のソ連参戦のときソ満国境近くの北部開拓地の開拓者家族には女・子供・老人しかいなかったということが悲劇を生みました。満州国を守る帝国陸軍・・・関東軍はソ連軍参戦の情報は伝わっていたのでしょうか。迎撃作戦と称して秘かに軍の防衛線を新京(長春)・大連・図門のラインに南下させていました。朝鮮国境ギリギリです。北満州には入植国民を守るべき軍隊がいなかったのです。さらに8月15日のポツダム宣言受諾で関東軍はいとも簡単に武装解除します。国家に守られない入植地は地獄になりました。相手方の暴虐も責められますが戦争とはそういうものです。まして植民地の地図が壊れたときえてしてこういうことが起こります。IFですが・・・国民を守るべき組織が入植者の前面に立てば・・・犠牲は最小限に避けられたかもしれません。

秩父中川村(現秩父市)の満蒙開拓団の殉難者の碑の巡礼はこれで終了です。
★この話の情報はいつも拙ブログにコメントを寄せてくださる(秩父出身の)縄文人さんに教えていただきました。
★このブログにコメントを寄せていただいたもう一人のかたのHPを紹介します。中国からの帰国者の聞取り調査をライフワークとしている方です。
中国残留孤児・残留婦人の証言

2013年11月16日のブログ→「秋の秩父路・・・武州中川・・・枝垂桜の青雲寺で・・・満蒙拓霊芳魂碑を見た」このブログを遡ってみてください。

わたくしたちのあとに続く世代がこんな悲惨なことにふたたびあうことことがないように・・・わたくしたちには語り継ぐ責任があります。


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