比企の丘

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秋の秩父路・・・武州中川・・・枝垂桜の青雲寺で・・・満蒙拓霊芳魂碑を見た

2013-11-16 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
10月6日、秩父市荒川上田野・・・国道140号線から山側に少し入ったところの枝垂桜で有名な青雲寺に行ってきました(道路際に案内板があります)。

岩松山青雲寺臨済宗建長寺派。いまは無住の寺のようですが1423年開山の古刹です。

明治維新の年、1868年2月秩父青雲寺事件という出来事がありましたが一般的には知られていません。
京都の公家、大炊御門家の嫡子公尊が秩父に滞在中に幕吏に殺害されたという・・・詳しいことはわからないのでパス。

県指定天然記念物、エドヒガンザクラ(枝垂桜)、開祖の楳峯香禅師の手植えといわれます。樹高15m、幹回り2.7m。

山門の前の墓地のいちばん前に「拓霊芳魂碑」がありました。
中川村満蒙開拓団の殉難者の碑です。613人の団員のうち293人が帰らぬ人になりました。

中川村・・・1859年上田野村、久那村、日野、小野原村が合併し中川村に、1943年中川村、白川村戸合併し荒川村に。2009年秩父市。

碑の裏に刻まれた碑文です。写真に撮ったりしましたが光線の具合、碑の汚れ、風食などで正確に読むことができません。

中川村開拓団が国策によって母郷更生のため、併せて日本民族の海外発展により国土の狭小と人口稠密 農村経済の抜本的な解決のため、満州に分村したのは昭和十三年春四月、団は二百戸 六百十三人、原住民六千余人と手を握り、ひたすら母郷更生を祈りつつ、満州の新天地に農民の理想郷を建設すべく、命をかけて働くこと八年、一国一家の和気あふれ、満州の中川村はたくましく成長し、本家分家の花も咲き、実にこれからと思うとき、大東亜戦争の犠牲となり、満事は終わる。嗚呼、この混乱悲惨の中に散華されたる同志、 実に二百九十三名。あまりにも尊い、そして悲しい。此の事実、これは永久に忘れることは出来ない(後略)

碑文の横に説明板が立っています。この碑は1957年秩父札所13番慈眼寺に建立されたが故あって移転の余儀なきにいたり1995年この地に移転したと記してあります。「故なき」の「」は記していません。

碑は加藤完治の書です。
加藤完治(1884~1967年)・・・農政学者、教育者。東宮鉄雄(関東軍将校、張作霖爆殺事件の実行者)と組んで満蒙開拓移民を計画実行推進した人です。のち茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の所長になり満蒙に86532人の青少年を送り出しました(うち24200人は帰らぬ人に)。

満蒙開拓とは何だったのかと考えるとき次の言葉があります。

開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが、「満蒙開拓」とは、多くの場合、「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば、「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。(井出孫六著「終わりなき旅」岩波書店1986年刊・・・の文中より

一町歩10円(1㌶)の強制買収だったそうです(1936年関東軍司令部作成の「日本人移民用地整備要綱」により満州拓殖公社がこの買収にあたった) 。開拓者たちは現地に入ってそのことを知ったようです。日本の一般の人がこのことを知ったのは上記のような書が出てからでしょう。当時の金の価値はわかりませんが饅頭1個5厘とすれば2000個分です。まさに強奪です。収奪した土地は日本人移民に1戸当たり10㌶~20㌶割り当てられました。
このことが敗戦後の、現地人の襲撃のもととなります。立場が逆転したのです。加虐と被虐は表裏一体です。国が掲げたスローガン「五族協和」「王道楽土」が本当のことであったならこんな悲劇は起こらなかったでしょう。

碑文に「この混乱悲惨の中に散華されたる同志、 実に二百九十三名。あまりにも尊い、そして悲しい。此の事実、」と書かれているがそのWHYが書かれていないのが悲しい。

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※この近くの武州日野駅のそばの浅間神社に帰らぬ人となった293人の名前を刻んだ墓誌があると聞き尋ねます→クリック

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