比企の丘

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今日は8月14日・・・「日本でいちばん長い日」・・・74年前、天皇が敗戦を聖断した日

2019-08-14 | 語り継ぐ責任 あの戦争
8月はいまから74年前「8月6日広島原爆の日」、「8月9日長崎原爆の日」、「8月9日ソ連参戦の日」、そして「8月15日ポツダム宣言受諾・無条件降伏、天皇が終戦の詔勅を放送した日」と、日本という国の存続の岐路に立った月です。
もう70年以上のむかしのこと、昭和平成の時代を経ていま新しい令和・・・の時代に変わっていくとき、次の世代に・・・日本が戦争に負けた・・・という事実を認識してもらいたくて、8月14から15日・・・「日本でいちばん長い日」という半藤一利の本を読んでみました。

プロローグ・・・7月27日の「ポツダム宣言」受諾を要求された日ではじまり、8月9日零時を過ぎたときソ連軍が満州国の国境を破って参戦。

8月9日10時30分からの最高戦争指導会議(総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍大臣、海軍軍令部総長からなる6人)がはじまります。鈴木総理は冒頭「広島原爆といい、ソ連参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾して、戦争を終結させるほかはない。みなさんの意見を承りたい」と軍部の前で宣言します(天皇の意を受けていきなりの発言で、これで徹底抗戦の案は潰れ、ポツダム宣言受諾の方法論がはじまります)。会議中に長崎原爆の情報が入ってきます。ポツダム宣言受諾条件を巡って意見は東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長の意見(国体の護持を付帯条件に付けるのみ)と阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令総長の意見(4か条の条件を付ける)とが分れ平行線になり結論が出ません。午後11時50分宮中御文庫(地下10mの防空設備)で最高戦争指導会議のほか枢密院議長、陸海軍の軍務総長、迫水内閣書記官長が陪席して御前会議、会議は依然として平行線。内閣総理大臣鈴木貫太郎は昭和天皇に判断を仰ぎ天皇はほとんど無条件のポツダム宣言受諾の聖断を下します(御前会議では天皇は意見をいわないのが原則だそうで異例のことだそうです)。

8月10日午前2時を過ぎていました。翌10日に連合国側にポツダム宣言受諾を伝え終戦への段取りを進めます。
8月13日早朝に連合国側より回答、午前12時最高戦争指導会議が開かれまたしても平行線上の会議が続きます。

8月14日10時から天皇の召集により最高戦争指導会議、全閣僚、平沼枢密院議長、梅津、豊田両総長、陸軍・海軍軍務局長、迫水書記官長ら23名を集めて御前会議、会議は紛糾、午前12時鈴木首相は二度目の天皇の聖断を仰ぎます。天皇は涙を浮かべて無条件降伏を宣言します。速記録がないようですがおおむね終戦の詔勅と同じだったことが出席者のメモに記されています。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」は天皇の陸軍首脳部に対する必死の説得の言葉といわれます。午後1時連合国側に無条件降伏を通告。

1945年8月14日午前10時から8月午前12時、たった2時間ですが「日本でいちばん長い日」でした。


8月15日未明、阿南陸相自決、終戦に反対する青年将校の宮城乗っ取り計画(宮城事件)、鈴木首相、平沼枢密院議長私邸襲撃、近衛師団長惨殺、放送会館乗っ取り計画、正午・・・録音盤による天皇の玉音放送がはじまりすべてが終わります。 


※コメント欄オープン。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
秩父の片田舎で、終戦・・・。 (縄文人)
2019-08-14 12:36:11

 今朝方、Y婦(東京生れ)と食卓を囲みながら語り合った。


Y・・秩父はそんなに、戦争、終戦と言っても被害らしき被害は無いのでしょう・・・・・・

縄・・そうですね、やたらと飛行機雲が上空を交差した。

Y・・東京は、すぐ近くに爆弾が落ち犠牲者も。
  都心は真っ赤に燃え上がったのが見えました。

朝の食卓は、そんな話しから始まり、又今日も暑いなぁ~・・・大型台風だって・・・。

そして詩人、高田敏子の「ウサギの像」に発展した。

なおも、葛飾区に「平和橋通り」《葛飾区、本田ー新小岩・・道路》が在ります。
焼け野原になった東京を一本の道路、平和橋通りが貫く・・・そんな話しで朝の食事を終えました。

玉音放送があり、その後皇居前広場に庶民が続々と集まったという。
その姿は、見るに偲びがたかった国民の姿、泣き伏し身体をよじり・・・当時の本をめくると!!。

  ・ 皇居前玉砂利濡らす涙かな  (縄)



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私の終戦記憶 (縄文人さんへ・・・)
2019-08-16 07:53:40
熱い日でした。
性能の悪いラジオで聞く玉音放送。
雑音で意味がワカリマセン。
疎開していたオバサンが飛び込んできて「戦争終わった、これで川崎に帰れる」と嬉しそうでした。大人の気持ちってそんなものだったかもしれません。
出征兵士の妻の母は何も語りませんでした。
内心はホッとしていたのかもしれません。

後日、宮城で泣き伏す庶民の姿の写真を見て、理解できませんでした。

空襲で攻撃され命の危機にさらされた都会の人の悔しさ・・・今になってわかるような気がします。
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時間を作ります (こきおばさん)
2019-08-17 07:28:14
期待していた4本のブログ、時間を作ってきちんと拝見します。
もう残り少なくなった戦争体験者の端くれとして、語り継ぐことの大切さを特に今、感じています。
書いて頂き有難うございます。
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