ようやく暑い夏がやってきました。64年前の8月15日も暑かったでしょう。
8月15日は日本に古くからある行事「お盆」です。お先祖様の魂を慰める日です。
そして8月15日は古い日本が亡くなった日、この日に何かメッセージをと思い・・・・・
「ガラスのうさぎ像」・・・・・JR東海道本線「二宮」駅南口にあるそうです。
高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」・・・この本を読んでいなくても映画やテレビにドラマ化されたりしてほとんどの方が知っておられると思います。
江井敏子(旧姓)、13歳の少女の戦争体験の話です。
3月10日の東京大空襲でお母さんと二人の妹を・・・遺体を見つけることもできませんでした。7月15日焼け跡を整理していたとき父の作った半分以上溶けてグニャグニャになったガラスのうさぎを見つけます。
そして8月5日11時ごろ、疎開先の二宮からお父さんと新しい疎開先の新潟県柏崎市へ出発するため二宮駅待合室で列車を待ってるときアメリカ軍のムスタングP51戦闘機に機銃掃射を浴びてお父さんは即死。駅には何人くらいの人がいたでしょうか。大勢の人が死傷したと思います。高木さんが銃弾に当たらなかったのは単なる偶然でしょう。二宮町、軍需工業も軍需設備もない海辺の町です。まったくの無抵抗の一般市民、どうして戦闘機が機銃掃射の対象にしたかわかりません。攻撃は上官の命令か個人の判断かはわかりません。戦争とはそういうものかもしれません。
「ガラスのうさぎ」が本になったのが1977年。その3年後の1980年二宮町役場からブロンズ像を造りたいと了解を求められます。自民党も共産党も含めて町の有志の超党派の運動、高木さんは「平和と友情を記念できるものなら」と返事したそうです。町の予算と町の有志の浄財、新聞に載ってからは全国から浄財が集まったそうです。
いつまでもあの二宮駅を見つめていて欲しいですね。
(コメント友だちのがちゃばばさんが撮った二宮駅のブロンズ像の写真です)
いまなぜ「ガラスのうさぎ」なのか・・・2008年3月10日夜テレビ放映された『激動の昭和・・3月10日東京大空襲・・・語られなかった33枚の真実』を見て・・・あっ『ガラスのうさぎ』だっと思い出したのです。
高木敏子さんの最近の著「ラストメッセージ」(メディアパル2007年刊)を読みました。高木さんはこの書をもってすべての活動を停止されたようです。文字通りラストメッセージです。
内容を少し紹介します。「ガラスのうさぎ」のできた経緯・・・1962年あるテレビ局の「戦争体験」文の募集に入選、小田実、無着成恭、佐藤英男さんらと対談したとき「いつか本にして」といわれ少しずつ書き溜め、9年後の1976年ご主人が結婚20周年記念に指輪をプレゼントしてくれるといってくれたとき自費出版したいとお願いしたそうです。1977年3月父と母と妹の33回目の法要にあわせて「私の戦争体験」というタイトルで小冊子を自費出版、文中に入れた空襲の写真は東京都から借りた石川光陽の写真。これが縁で東京都の図書館に本を奇贈、いくつかの出版社から出版のオファーがあり児童書の金の星社に決めてその年の12月に「ガラスのうさぎ」というタイトルで出版されます。
普通の主婦の作文がベストセラーになりました。なぜでしょう。東京本所緑町・・・むかしの両国国技館のそばの生まれ、お父さんは伝統工芸江戸切子の職人で親方、ガラス加工の職人として軍の仕事をしていましたから生活はどちらかというと裕福です。兄二人は軍国少年として志願兵で出征します。やがて戦争の結果は家の貧富も関係なくすべての人にかかってきます。高木さん一人ではなく戦争被爆体験者は数百万人います。共感を呼んだのです。
あれから30年余、発行部数220万冊余。世界9カ国語で翻訳(英語を除いて印税は放棄)。高木さんの講演会は数千回。
終章近くでこんなことを書いておられます(少し省略しましたが)。
NHK「課外授業ようこそ先輩」、母校緑小学校で、
「あなたたちの後に続く子どもたちが平和な時代に生きられるようにがんばりましょうね。それががあなたたちの責任だよ」
若い人と戦争のことを話しているとき、こういう質問をされたそうです。
「どうしてその時みんなが戦争を止めようと言わなかったのですか」
そのころの日本は軍国主義で、非国民として捕まえられた。女性には選挙権もなかった。
でもいまは20歳以上の国民のすべてが選挙権を持っているから自分で意思表示ができる。
「選挙は唯一、権利を主張できる場なのだから、大事に使って、平和を何よりも大切に思う指導者を選ぶのよ」・・・・・・
8月15日は日本に古くからある行事「お盆」です。お先祖様の魂を慰める日です。
そして8月15日は古い日本が亡くなった日、この日に何かメッセージをと思い・・・・・
「ガラスのうさぎ像」・・・・・JR東海道本線「二宮」駅南口にあるそうです。
高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」・・・この本を読んでいなくても映画やテレビにドラマ化されたりしてほとんどの方が知っておられると思います。
江井敏子(旧姓)、13歳の少女の戦争体験の話です。
3月10日の東京大空襲でお母さんと二人の妹を・・・遺体を見つけることもできませんでした。7月15日焼け跡を整理していたとき父の作った半分以上溶けてグニャグニャになったガラスのうさぎを見つけます。
そして8月5日11時ごろ、疎開先の二宮からお父さんと新しい疎開先の新潟県柏崎市へ出発するため二宮駅待合室で列車を待ってるときアメリカ軍のムスタングP51戦闘機に機銃掃射を浴びてお父さんは即死。駅には何人くらいの人がいたでしょうか。大勢の人が死傷したと思います。高木さんが銃弾に当たらなかったのは単なる偶然でしょう。二宮町、軍需工業も軍需設備もない海辺の町です。まったくの無抵抗の一般市民、どうして戦闘機が機銃掃射の対象にしたかわかりません。攻撃は上官の命令か個人の判断かはわかりません。戦争とはそういうものかもしれません。
「ガラスのうさぎ」が本になったのが1977年。その3年後の1980年二宮町役場からブロンズ像を造りたいと了解を求められます。自民党も共産党も含めて町の有志の超党派の運動、高木さんは「平和と友情を記念できるものなら」と返事したそうです。町の予算と町の有志の浄財、新聞に載ってからは全国から浄財が集まったそうです。
いつまでもあの二宮駅を見つめていて欲しいですね。
(コメント友だちのがちゃばばさんが撮った二宮駅のブロンズ像の写真です)
いまなぜ「ガラスのうさぎ」なのか・・・2008年3月10日夜テレビ放映された『激動の昭和・・3月10日東京大空襲・・・語られなかった33枚の真実』を見て・・・あっ『ガラスのうさぎ』だっと思い出したのです。
高木敏子さんの最近の著「ラストメッセージ」(メディアパル2007年刊)を読みました。高木さんはこの書をもってすべての活動を停止されたようです。文字通りラストメッセージです。
内容を少し紹介します。「ガラスのうさぎ」のできた経緯・・・1962年あるテレビ局の「戦争体験」文の募集に入選、小田実、無着成恭、佐藤英男さんらと対談したとき「いつか本にして」といわれ少しずつ書き溜め、9年後の1976年ご主人が結婚20周年記念に指輪をプレゼントしてくれるといってくれたとき自費出版したいとお願いしたそうです。1977年3月父と母と妹の33回目の法要にあわせて「私の戦争体験」というタイトルで小冊子を自費出版、文中に入れた空襲の写真は東京都から借りた石川光陽の写真。これが縁で東京都の図書館に本を奇贈、いくつかの出版社から出版のオファーがあり児童書の金の星社に決めてその年の12月に「ガラスのうさぎ」というタイトルで出版されます。
普通の主婦の作文がベストセラーになりました。なぜでしょう。東京本所緑町・・・むかしの両国国技館のそばの生まれ、お父さんは伝統工芸江戸切子の職人で親方、ガラス加工の職人として軍の仕事をしていましたから生活はどちらかというと裕福です。兄二人は軍国少年として志願兵で出征します。やがて戦争の結果は家の貧富も関係なくすべての人にかかってきます。高木さん一人ではなく戦争被爆体験者は数百万人います。共感を呼んだのです。
あれから30年余、発行部数220万冊余。世界9カ国語で翻訳(英語を除いて印税は放棄)。高木さんの講演会は数千回。
終章近くでこんなことを書いておられます(少し省略しましたが)。
NHK「課外授業ようこそ先輩」、母校緑小学校で、
「あなたたちの後に続く子どもたちが平和な時代に生きられるようにがんばりましょうね。それががあなたたちの責任だよ」
若い人と戦争のことを話しているとき、こういう質問をされたそうです。
「どうしてその時みんなが戦争を止めようと言わなかったのですか」
そのころの日本は軍国主義で、非国民として捕まえられた。女性には選挙権もなかった。
でもいまは20歳以上の国民のすべてが選挙権を持っているから自分で意思表示ができる。
「選挙は唯一、権利を主張できる場なのだから、大事に使って、平和を何よりも大切に思う指導者を選ぶのよ」・・・・・・
(東京忌)
戦争のない平和がいいです。
8月、終戦間際、あちこちでこうした事件があったようです。抵抗する兵隊さんがいませんからね。アメリカ兵ははもうやり放題です。
機関銃で撃った人、国に帰ってからうなされたでしょうね。
広島お好み焼き・・・ルーツは何でしょうね。貧乏人のおやつでしょうか。私の生国でも小麦粉をといてありあわせの具を入れたオヤキと称するものがありました。それに比べれば高級な食べ物ですが。
わたしは山国育ち・・・なんでも美味しくいただけました。
調べて行くうちに観光のためでなく純粋に超党派で浄財でつくったものなんですね。
高木さんは二宮の人たちに助けられてお父さんの火葬ができたこと励まされたこと一生忘れないと思います。
07,10,22のブログリングさせていただきました。
私が生まれた市の お隣の 山の中の駅にも
戦闘機が 機銃で・・列車に・・
無抵抗な庶民に・・戦犯ですよね
たぶん 世論が政府を動かせると思ってやろか
女の人も(心からではないと思いますが)愛国婦人会とかそういう活動をしました。子どもたちはみな軍国少年少女です。教育とか、体制とかは恐ろしいですね。せめて戦前に婦人参政権があったらと思います。
次世代に平和のありがたさを伝えたいですね。
今の子どもたちにはぜひ聞かせてやりたい話です。
仲間と草刈をし、刈った草を川から引き上げさてどうしょう?
草の処理、水質調査の子どもたちを集める方法等。
草は養鶏業者さんが引き取りを、子供たちを集めるのは小学校の先生と、地元の子ども会と同好会の子で予定どうり集まり3年続けて新聞社も記事を書いてくれました。
講師は福山市から4名とホタルの事務局長こうした方々のおかげで成功の二字をいただきましたがついにダウン寸前です。
「人の子ばかりで自分のところは」と言われてこれも一日おつきあいをしました。
こんな出来事で!
山陰の旅、C57がこんなこととは知りませんでした。
お好み焼きの梯子?広島ではお好み焼き村と言われるビルがありその中にかなりのお店があります。
数件並ぶと必ず繁盛している店とそうでない店が分かれてきます。宣伝力かと思いましたが口コミで伝わるのがここでは効いているようです。また、並んでいたり満員の店に入るのが人の心理かなとも思いました。
「ガラスのうさぎ」は大分前に読みました。
二宮駅前の像は、2007・10/21のブログにのせました。ヒキノさんからのコメントも頂いております。
戦争=「ひもじさ」ですね。縁故疎開で金沢にいましたので、戦火にはあいませんでしたが。みんなやせ細っていました。母は4人の子に「食べさせるのが大変だった。」とよく言っていました。
『平和を何よりも大切に思う指導者を選ぶ事』大切にしたいです。
だから憲兵が怖くて国民は何も口に出せなかった(批判できなかった)と戦後母はよく言ってました。ひどい時代でした。
敗戦になって近くに住んでいた元憲兵だった人はずいぶん恨まれて、その元憲兵は小さくなっていたそうです。
憲兵が悪いのではなく全て戦争が悪い、軍が悪い、天皇が悪い、そして何も言えなかった国民も悪いと母が言ってました。
今は何を言っても自由になって平和ですが、この平和を大事にしたいですね。
確か東京・墨田区・本所の生まれだと思いました。
高田さんが全盛時代本所に転勤になり、
この「ガラスのうさぎ」が8月になると話題になっていた。
この方は、詩がとても鮮明に情景が浮き上がってくる方だと記憶しています。
ラジオや、TVからよく詩が流れてきたことが・・・・・・・・・・・・
今日は8月15日。
1945年8月15日の正午に、天皇による終戦の詔書のラジオ放送(玉音放送)が行われた。
この日も太陽がカンカンと照りつける日でした。