比企の丘

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満蒙開拓青少年義勇軍②・・・興安からの逃避行

2010-08-11 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
満蒙開拓青少年義勇軍・・・日中戦争、太平洋戦争のさなか満州国に植民した子ども武装開拓団。主に年齢14~15歳の年齢で構成。義勇軍ですから志願制。軍隊ではないのだけれど鉄砲持った少年兵です。
茨城県の内原訓練所で約3ヶ月の訓練、満州の訓練所で3年の訓練を終えて1人20町歩の地主になることが約束されていました。

松本市のMさんから送っていただいたDVDを見ています。
4月24日、NHK BSで放映された「兵士たちの証言」シリーズの中の信州中信地区を中心とする満蒙開拓青少年義勇軍長野県第7次斉藤中隊213名のお話です。
私のふるさと長野県の松本・安曇地方の子どもたちの足どりを追っています。

1944年3月 長野県から茨城県内原訓練場へ。
1944年6月 満州北部嫩江(ノンコウ)訓練所へ。
1944年10月 嫩江より興安訓練所に移動。

1945年8月9日 未明、ソ連軍の対日参戦、150万の大軍が怒涛の如く満州に襲いかかります。
戦車の砲撃音が雷鳴のように聞こえてきます。ソ連軍のマークをつけた飛行機が襲い掛かり機銃掃射を浴びせられようやく事態がわかってきたようです。
関東軍や~い」と呼んでも答えてくれません。




1945年8月11日 旗公署にて小銃100挺、弾薬30000発、手榴弾60発を入手、一部の軍隊がいたのであろうか。
1945年8月12日 関東軍に置き去りにされた婦女子約1000名が集結。
1945年8月13日夜 婦女子を含む大部隊で350kmはなれた新京訓練所を目指して退避をはじめる。昼夜を分かたぬ徒歩の行進です。

渡河地点、高粱畑の両側から襲ってきます。鉄砲持った少年隊ですから武器が欲しかったのかもしれません。それ以外には失うものは何もありません。食料は現地調達(略奪?)。通貨代わりの阿片を持っていたのでしょうか。この行軍で病死者1名、戦闘による犠牲者2名。不思議なことに親切な現地人の協力で埋葬したようです。親切な現地人もいますが、敵地内(アウェイ)の恐怖ですべてが敵に見えてきます。。罪のない現地人を捕らえての加害行為もあります。
 
1945年9月3日 小高い丘の上の高粱畑から銃撃を受け岩村田の神津、臼田の井出が戦死、ソ連軍の列車も通りかかり自動小銃の雨。何とか撤退。

1945年9月4日 蒙古人集落に泊まり朝鮮人牧師から日本国無条件降伏の事実を聞かされる。ここの屯長に降伏の仲介交渉を依頼。貫通銃創の降旗死亡、池本先生の長女が栄養失調死。
1945年9月5日 降伏交渉成立。全員武装解除。満鉄官舎に収容。逃避行の犠牲者7名。18日間の徒歩による逃避行ですが犠牲者が少ない。婦女子の集団はどうなったのか。開拓団の女、子どもも付いてきたようです。
1945年9月20日 ふたたび興安(王爺廟・・・ウランホト)に。虚弱者60余名開放、118名がシベリア抑留のためチチハルに。



蛇足》ここで少年たちの兵器について考えてみました。インタビューではもう80歳の老年ですが当時は15歳ぐらい。いまの中学2年生ぐらいです。いまの中学生のほうが体格では大きいでしょう。体重50kg前後、身長は160cmもなかったでしょうね。義勇軍は軍隊ではありませんが武装しています。銃は38式というのだと思います。38式とは明治38年開発されたもの。剣をつけて槍の役目もしました。弾薬5発を装填。長さ1m30cm弱、重さ4kg弱。少年たちには長くて重かったでしょう。実弾訓練はソ連参戦までに5発だけ。実戦では当たらなかったそうです。ソ連兵の銃はマンドリンという自動機関銃です。こちらが1発打てば100発返ってきたそうです。どちらの性能がよかったなんて比較するのはナンセンス。38式は優秀なライフルですが近代戦の戦術では弾薬を湯水のようにバラ撒く自動小銃のほうが勝ちました(結果論ですが)。少年たちは小銃で武装していましたからソ連兵に拘束されたとき戦闘員と見なされシベリア行きの対象になります。


昭和19年3月、長野市城山公園を出発した斉藤中隊218名、ここまではアメーバ赤痢で11名、逃避行で7名の犠牲者だけ。
ここから地獄が始まります。
鉄砲玉より怖い疲労からの衰弱、飢え、寒さ、栄養失調、発疹チフスなど。生きて日本の土を踏めなかった人120余名。
その話しは次回で。

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