比企の丘

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満蒙開拓青少年義勇軍①・・・王道楽土を夢見た少年たち

2010-08-10 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
満蒙開拓青少年義勇軍って知っていますか。
山崎豊子の小説「大地の子」で満蒙開拓団から取り残された中国残留孤児なら知っていると思いますが青少年義勇軍なんて知らないかたが多いのでは。

満蒙とは今の中国東北部(旧満州、中国華北、内蒙古)のこと、開拓移民とは植民地に入植すること。入植とは他民族の土地を自分の土地にすること。アメリカ大陸もカナダも、そうやって入植し開発され、大英帝国、スペイン、イタリア、フランス、ポルトガル、オランダがアフリカ・アジア諸国に入植したのもそうです。ロシアの東進もそう。日本も真似したのですね。いいことじゃありませんが。
昭和10年代の終わりごろ20年計画(1936~1956年)で満州に500万人移住計画を立てます。1942年後までに22万人ぐらい移住したといいます。ところが戦局が悪化して成人男子の軍隊召集が増え兵役に着く前の年少者を満州開拓にあてようということになり1938~1945年までに満蒙開拓青少年義勇軍なるものを86000人送り出します。
国民小学校高等科2年・・・14歳くらい・・・今でいうと中学2年生、まだ年端もいかない子どもです。

ここでは私のふるさと長野県の松本・安曇地方の子どもたちの足どりを追ってみたいと思います。

松本市のMさんから送っていただいたDVDを見ています。
4月24日、NHK BSで放映された「兵士たちの証言」シリーズの中の信州中信地区を中心とする満蒙開拓青少年義勇軍長野県第7次斉藤中隊のお話です。

明日8月11日午後8:00~9:30 
NHK BSハイビジョン特集でこんな番組が放映されます。
  「満蒙開拓青少年義勇軍
         少年と教師 それぞれの戦争

「証言シリーズ」は50分で今回は90分ですから前回の取材を再構成したものと思います。

満蒙開拓のスローガンは・・・「王道楽土」「五族協和」・・・少年たちはこれを信じて渡満しました。
王道楽土・・・武力ではなく徳を持って国を治め、移民させてもらった満州を楽しい国にしよう。
五族協和・・・日本民族、漢民族、満洲民族、蒙古民族、朝鮮民族・・・みんな仲良く。


1944年3月 長野市城山公園で昭和19年送出第7次義勇軍として3個中隊を編成、茨城県内原訓練所に向けて出発。内原・・・常磐線水戸駅より2つ東京寄りの内原駅周辺の字名(当時は下中妻村・・現水戸市)。内原といえば満州武装移民の提唱者加藤完治です。加藤は内原訓練所の所長を務め86000人の青少年義勇軍を送り出し、24000人を犠牲にした。戦後、日本国民高校(現日本農業実践学園)の校長、農業功労者表彰を受け天皇陛下主催の園遊会にもよばれ天寿を全う。
加藤完治については詳細を書きたいのですがここでは省略します。

写真は中信および佐久地方出身者218名からなる斉藤中隊。
ここで親元を離れた少年たちの団体生活、訓練が始まる。
消灯ラッパが鳴ると布団の中でメソメソ泣く子もいます。脱走を企てた子もいたそうです。

1944年6月12日 少年たちは日・満両国旗を高く掲げ、鍬を肩に行進し、内原駅を出発。

1944年6月17日 満州北部嫩江(ノンコウ)訓練所に到着。
3年間の訓練後は、一人20町歩の土地が約束されていた。
電気もガスも水道もありません。食料は自給自足です。
本格的な地獄がはじまります。上級生のリンチ・・・軍隊と同じです。理由はありません。歩き方が悪いとか声が小さいとかですね。殴ることが快楽になっているわけです。自分の閉塞感、焦燥感、圧迫感の開放です。今でもスポーツ系のクラブに見られます。現地人の娘を訓練所に引っ張り込んで強姦してる上級生グループもいたそうです。
アメーバ赤痢発症者が出ます。原因は井戸の生水とか渡満中の列車内感染とか。保菌者が炊事当番を行い中隊内にさらに広がり、3ヶ月間で11名が病死。
屯墾病(満州開拓民のホームシック)がでます。脱走を企てる子どももいます。「チチキトク」の電報で帰っちゃう子どももいます。

「王道」」「協和」の夢は壊れていきます

1944年10月14日 嫩江より興安訓練所に移動。730町歩、牛馬、小農具だけです。今のようなコンバインとかトラクターなどはありません。ガス、水道、電気はありません。

1944年10月25日 小銃100挺、弾薬35000発、手榴弾50発受領。義勇軍は軍隊組織ではありませんが武装開拓民です。屯田兵ですね。15歳くらいの子どもが重さ4kg、長さ80cmの銃を持つわけです。
はじめての冬を過ごすために、暖房燃料、家畜の冬の飼料など、自己調達で備蓄です。
夏は長靴も溶ける40℃の炎熱、冬は-40℃の極寒を体験します。

1945年7月18日 内地より慰問団が来て歌と踊りを楽しんだというが悠長なものです。この当時の日本は東京は3月の大空襲で壊滅し、沖縄は6月終戦、各地の大都市も空襲で被害を受けていたのです。
関東軍はすでに南下していたのでしょうか。

1945年8月9日 ソ連軍の対日参戦がはじまります。

※コメント欄オープン。


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2 コメント

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満蒙開拓青少年義勇軍 (縄文人)
2015-08-14 06:47:33
今どうしてコメントをと思われかもしれません。
実は、NHK深夜便でこれらの生きて帰った人たちの語り部、が数回にわたって放送された。
それは残酷非道なものであったと言います。
集団自決のことを語っていましたが、もう帰れない子らの小さい幼子から紐で首をしめ死にいたらされる。
この屍が何十体と頭を並べて横たわる。
その晩豪雨で死体の衣類が剥がされた。
全てが大人たちが首をしめたものだという。

開拓団の悲劇を角度を変えて語り継いでいました。

ヒキノさんのブログが詳しいと検索するとヒットしました。
読ませてもらいました、一層と満濠開拓の悲劇を詠みとることができ興味をいだき胸打つものがあります。
語り部の方が最後に吐き捨てるように、
1、あれは人減らし政策だ!
2、敗戦近くになって沢山の人を送り込む、非条理極みない。

以前にもコメしましたが、一層深読みして満濠のことに域を広めました。
有難うございました。
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満蒙開拓 (縄文人さんへ・・・ヒキノ)
2015-08-17 20:36:01
渡満者27万人、30%の人が亡くなりました。
国民を守るべき関東軍が開拓者の退路を断って南に移動したことが多くの犠牲を生んだかもしれません。
義勇軍の話しは松本の知人の元同僚の本からです。当時旧制中学3年。15歳ぐらいです。38銃を担いだ農兵でもありました。この義勇隊は218名、生きて帰ったのは95名です。
小学生のころ引揚者がクラスに数人いました。満州のことは聞くことがありませんでした。辛いことは語りたくなかったのでしょうか。
東京大空襲で逃げ惑った人も、南の島で餓えていた人も、硫黄島で生き残った人も、語り部は少なくなりました。
わたしの高校の友だちでも孫子の代にこのことを語り継がなければという人が多くいます。
声高にアジルことはできませんが、丹念に調べて行こうと思っています。
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