![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/25/42edede5d20f1ef807c5ad26221d396a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/28/0215c99a703d62f9e559bc283d7ee8c9.jpg)
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。
それからあとのこと。
歴史にifはないけれど
・・・もう少しソ連軍の参戦が早かったら・・・日本はどうなっていただろうか。南北朝鮮、東西ドイツの影が見えてきます。
・・・もう少し終戦の詔勅が早かったら・・・樺太、歯舞、色丹、国後はどうなっていただろうか。
《ヤルタ協定》・・・ソ連の参戦を要請したルーズベルトとスターリンの密約・・・ヨーロッパ在住の大使館付き武官からこの情報が入っていたという資料が最近になって判明しています。
ソ連軍参戦の情報を知った日本軍(関東軍)は秘密裏に開拓民の多いソ満国境から南下して新京、大連に防衛ラインを敷きます。自国民を守るという軍の本質を放棄したのです。そのため橋を落され鉄道を破壊され退路を断たれた辺境の開拓民は置き去りにされ様々な筆舌に尽くせない悲劇を生みました。
敗戦後、無血武装解除を行いますが山田乙三司令長官以下全将兵はシベリア抑留生活を送ることになります。その兵のうち25万人は在満邦人を現地応召したものでした。
敗戦直前、ハルピンにいた731部隊はいち早くすべての資料を隠匿して特別列車、特別船で日本に帰国したといわれます。
敗戦当時、在満日本人155万人、シベリア抑留60万人。生きて日本に帰れなかったもの17万6千人・・・うち開拓農民27万人(死者8万人)。中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・詳しい数字はわかりません。
第二次世界大戦とは何、日中戦争って何、満州国って何、満蒙開拓団って何、
日ソ中立条約って何、ヤルタ協定って何、8月15日って何の日。
少しだけでもイイから知ってほしい。
「前事不忘 後事之師」・・・過去を忘れずに 未来の教訓とする。
日ソ中立条約って何、ヤルタ協定って何、8月15日って何の日。
少しだけでもイイから知ってほしい。
「前事不忘 後事之師」・・・過去を忘れずに 未来の教訓とする。
※コメント欄オープン。
戦争中は軍隊が守ってくれると教えられ、信じ込んでいました。
引き揚げてくるとき、私たち一族は遺骨を7柱持って帰ってきたのです!
軍隊は決して国民は守りません!!
日ソ中立協定を破ったソ連憎しと思っていたのが、アメリカも加担していたのかとわかりました。
もう少し敗戦の詔勅が遅れていたら、日本も東西分裂でした。
ソ連参戦で「被虐の歴史」が生まれますが「加虐の歴史」のあったことも知ります。
全ては戦争です。
次の世代の人に少しでイイから少しずつほんとうの歴史を知ってもらいたい。