比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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今日は3月10日「東京大空襲の日」・・・海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ

2022-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
                              、
きょうは何の日・・・いまから77年前の3月10日・・・第二次世界大戦・太平洋戦争・・・「あの戦争」・・・東京が大空襲された日・・・です。
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷爆弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。爆弾・焼夷爆弾381300発(1783㌧)。機銃による民間人、非戦闘員に対する機銃掃射も行われています。

アメリカ軍による世界の戦史上、最大の東京大空襲・・・です。
当時の東京警視庁の調査によれば損害は
  死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835棟・・・
新聞社や民間団体の調査・推定では
  死者10万人を超すといわれ死者10万人が定説となっています。
当時の東京都在住在日朝鮮人・97632人 うち被災者・41300人(死者は1万人を超すと推定)。 
※数字はWikipediaより。

もう77年・・・4半世紀も前・・・体験した人はわずか・・・いまの人にとって遙かむかしの歴史のこと・・・
ただ日本人にとって屈辱的な歴史の1頁・・・覚えていてほしい。
そしてこんなことがもう二度と無いように、行動していってほしい。そして語り継いでほしい。

旧いブログから東京大空襲に関連ある1篇を再掲載しました。初出は2010年4月、今も毎日閲覧してくださる方がいるブログです。
少し長くなりますが読んでいただけたらと思います。

海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ  2010年4月17日

4月10日、上野の森で海老名香葉子さんたち有志が建てた「時忘れじの塔」を見て来ました。
時忘れじの塔」はさきの大戦の東京大空襲で亡くなったかたの霊を慰めるとともに、平和な時代に時をつなげるために造られたといいます。

この塔を建てるために奔走した海老名香葉子さん・・・どういうかたなのでしょうか。わたしが知ってる香葉子さんは昭和の爆笑王落語家の先代林家三平師匠の奥さん。テレビのワイドショーのコメンテーター、政府諮問機関の教育再生会議委員も務めたことがある・・・ということぐらいしか知りません。

海老名香葉子さんの書かれた本を読んでみました。子供たちが読めるように児童書になっています。

うしろの正面だあれ」(金の星社1985年刊)

1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)に生まれた香葉子さん。実家は「竿忠」という代々続く竿師・・・手作りの高級和竿を作る職人。曾祖父は1900年のパリ万国博に出品して入賞した名人。作家の長谷川伸、彫刻家の朝倉文夫、落語家の三遊亭金馬もお得意様だったようです。職人兼お店の主人、飛び切り金持ちではなく、たまに近所に気兼ねしながらスキ焼きを食べる程度、ごく普通の生活を営んでいたことが窺えます。優しい家族に囲まれて成長。下町娘ですから、近所の悪ガキと遊んだり、好きでない三味線を習わされたり、楽しかった思い出ばかりです。やがて日本は戦争に突入、1945年3月10日東京大空襲。静岡県の沼津に疎開していた香葉子さんのほかは東京にいた家族は避難した中和小学校で6人が焼死、三兄の喜三郎兄ちゃんだけ奇跡的に生き残ります。疎開していたおばさん夫婦の転勤で沼津から石川県の穴水町へ、おじさんの失業で中野のおばさんの家に、焼け跡からトタン、木材を集め作った三畳ぐらいの部屋、おじさん、おばさんと子ども、それに香葉子さんの4人で暮らします。1945年の暮れ本所堅川の実家の焼け跡に立ち、目をつぶり・・・そっと目をあけます。

坊さん坊さん どこ行くの わたしは田圃に稲刈りに
お前が行くとじゃまになる このかんかん坊主くそ坊主
うしろの正面だあれ


ふり向いてもそこには母の姿も、友だちの姿も見えません。

それからのカヨちゃんです。

半分のサツマイモ」(くもん出版1997年刊)

しばらくは中野のおばさんの家で過しますが、浦和の知合いの夫婦の家に、千葉県の長者町(現いすみ市)の知合いの家に、ふたたび中野坂上の久おばさんの家に、中学校も中途半端で15歳になり両国の材木店で働くようになります。13歳ぐらいのときでしょうか、厚化粧したむかしのお友だちに街の中で出会ってその職業に誘われたり、神田今川橋でテキヤをしている喜三郎兄ちゃんと偶然に会ったり。寂しいとき、心に動揺があるとき本所堅川の実家の廃墟に行きます。そこで復員兵姿のおじさんからサツマイモを半分に割って渡されます。夢中になって食べて気がついたときおじさんの姿はありません。
やがて喜三郎兄ちゃんと暮らすようになりますが兄ちゃんはテキヤで何か危ないこともやってるよう。そんな生活をやってるとダメになると思ったのでしようね。焼け跡に立ててあった「三遊亭金馬来る 連絡乞う」の立て札を思い出します。そのころ東京では焼け跡にこういう立て札を立てて知人の安否を確かめようとしたのでしょうか。長谷川伸、朝倉文夫、土師清二さんの立て札もあったそうです。
意を決して寄席に出演中の金馬師匠(竿師のお父さんと客の関係だけです)を訪ねます。これからが江戸人情落語の世界です。

「竿忠の娘か、生きていたか、よかった、よかった。」
「今日から、うちの子におなり。ねえ、母さん、それがいいね。」

・・・するとおかみさんも、
「よござんすよ。」

この本の話はこれで終わりです。一度お読みになってください。児童書ですから小・中学生に読んでもらいたい。テレビドラマになったりアニメ映画になったりしてるようです。文中に出てくる喜三郎兄ちゃんはそのご金馬師匠の勧めで竿師の道に入り、竿忠五世四代を襲名。荒川区指定無形文化財保持者、東京都名誉都民。
(この話の続きが)・・・最後にお世話になった中野坂上の久伯母さん、満州帰りの母子家庭、「お咲ちゃん」という従兄弟のお姉さんがいましたが引揚げ船の中で日本の陸地が見えるころ亡くなりました。この姉さんがどうして亡くなったかを知るのは46年後、そのことをお咲ちゃん」(徳間書店1997年刊)という本に書いています。次の機会に記します。

ガラスのうさぎ」の高木敏子さんも本所緑町、両国駅のそば、腕利きのガラス工芸職人の娘でした。お二人とも東京大空襲の慰霊塔も祈念塔も公にはないこと(両国横網町の関東大震災慰霊祈念堂と同居)を残念がっています。
平和祈念母子像・時忘れじの塔・・・とあわせて上野の山にはもう一つ海老名香葉子さんが発起人となって建立した「哀しみの東京大空襲慰霊碑」があります。今回は訪ねませんでしたが次の機会に訪ねてみたいと思います。

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメントありがとうございます。 (okoさんへ…ヒキノ)
2022-03-11 09:24:43
できるだけ多くの人に読んでもらいたい。戦争とは何かを考えてもらいたい。平和をつないでいくために今の人たちが正しく認識してもらって次世代に人に語り継いでもらいたい。
そんな気持ちでブログをおこしています。
香葉ちゃんが小さいとき可愛がってもらった咲ちゃん、戦災孤児になった香葉ちゃんを助けてくれた久おばさんの娘、満州でレイプされて死んだことを知ったのは46年後・・・ぜひ読んでみてください。
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コメントありがとうございます。 (こきおばさんへ…ヒキノ)
2022-03-11 09:12:53
3月は祈りの月。

天災には悲しみがこみあがる
人災には怒りがこみあがる

できるだけ多くのひとに考えてもらいたいと、ソフトな海老名香葉子さんのことをブログに再掲載しました。多くの人に見てもらいました。実際にはブログに取り上げなかった、
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b88c1af79b11aa0ef3612b100dd6849a
のブログが最大に読まれました。

ご協力ありがとうございます。     
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東京大空襲 (oko)
2022-03-11 02:02:07
色々とご教示をありがとうございます。
戦争を知らない国民が多くなりました現在ですが、ヒキノさんの多くの発信を大切に拝読させて頂きました。

海老名香葉子さんの『お咲きちゃん』山田火砂子さんの『望郷の鏡』を初めて知りました。
機会を見て拝読したく考えております。

『ガラスのうさぎ』は千葉でも上映されましたので涙を流しました。

短歌をはじめました20年前の未熟な歌ですが

 読み返す『ガラスのうさぎ』に重ねつ
 つ吾の歩みを思ひみる今

大切な継承を今後とも宜しくお願い申し上げます。
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ことしも・・・ (こきおばさん)
2022-03-10 16:23:10
 こうして語り継ぐことの大切さをお教えいただき有難うございます。ツイートさせて頂きました。
 
 夫の姉が両国の緑町に住んでいました。今も甥が住んでいます。戦争中は夫の実家に姉たちは疎開していましたが、もちろん家は焼かれて跡形もなかったそうです。
戦争をしていいことなんて何もありません。今又、ロシアの侵攻でウクライナの人たちの平穏だった生活が奪われています。毎日涙を流しながらニュースを見ています。一刻も早く戦火が収まりますように。
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歴史の中で失われていく東京大空襲 (もののはじめのiinaさんへ…ヒキノ)
2022-03-10 14:20:45
今日の新聞、テレビでもほとんど扱われていません。東日本大震災は扱われていますが、フクシマ原発には触れられていないようです。
日本人の記憶の中にとどめておいてもらいたいエポックとして取り上げました。
狂気の指導者の中で戦争は起こされ狂気の国民が提灯行列をして、そして国が滅びました。
今起きている戦争はどうなるでしょうか。
核共有国になろうと叫んでいる政治家もいます。日本はどうなるでしょうか。
私には答えはワカリマセン。
これからのことは次の世代が考えることです。
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本所とはどのあたりだろうと・・・ (縄文人さんへ…ヒキノ)
2022-03-10 10:37:58
グーグルマップをググって見ました。
高木敏子さんの家は本所緑町、両国橋から数分、千葉街道に面した、国技館の近く、蛯名香葉子さんの家は本所堅川、緑町の東側、3月10日東京大空襲のフライパン爆撃戦略の中といわれる地域。
戦争は抵抗力の無い非戦闘員に被害を与えるのが最も効果的。
一晩でタッタ数時間で10万人を殺戮しました。

いま地球上で同じことが起きています。

本を読むと敗戦後の焼け跡の東京で人々は何とか生きていたのが分かります。金馬師匠の人情には泣かされます。香葉子さんのお兄さんはいま人間国宝の竿師だそうです。香葉子さんはこのごろテレビ画面にでなくなりましたね。

   「東京の空が焼けてる」と
    君がいったから
    三月十日は空襲記念日
                         、
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平和を願う  (iina)
2022-03-10 09:06:18
東京大空襲被災60周年の日に、海老名香葉子さんの講演『平和のつどい』を聴きました。

まさか、21世紀に大国が戦争を仕掛けるとは考えたくもない悪夢です。

戦争は、指導者同士が闘い合うことにすれば、命を惜しんで戦にならぬと思うものですが、血を流すのはいつの世も末端の兵士と武器をもたぬ市民です。
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「戦争」二文字は・・・ (縄文人)
2022-03-10 07:34:25
お早うございます。

  ▲ 戦争は もう無縁とや 心底で
         ロシヤ侵攻 死者の山かな (縄)

プーチン頭おかしくなったのか・・・・???

その昔、小生の仕事ホームグランドは、本所、両国、錦糸町、向島あたりでした。
そんなこととて、両国横網町の関東大震災慰霊祈念堂はよく心得ていました。
高木敏子さんの詩は、読売新聞に週一掲載され拝見、優しい歌だなぁ~…と読んだ記憶があります。
蛯名佳代子さんは、戦争体験者としてお目にかかった。確か深川の釣り竿を制作の娘として生まれた。
今どうして居るだろう・・・・。
色々蘇りました有難うございます。
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